
2009年4月15日放送の宗教朝礼より
先週の日曜日12日に世界中のキリスト教は一番大きな祝日である復活祭を祝いました。今日の宗教朝礼は、イエス様の復活が現代を生きる私たちにどのような意味を持っているのかをお話しようと思います。
不二聖心の教育の理念はキリスト教の信仰に基づいています。キリスト教信仰の中心は「イエスはキリストである」と宣言するということです。イエス・キリストっていうのはイエスという人の名前と苗字だから、「イエスはキリストである」と言うのはあたりまえじゃないかと思うかもしれませんが、そうではないのです。
イエスというのは確かに名前ですが、キリストは苗字ではないのです。「救い主」とか「救世主」と日本語に訳されます。ですから、「イエスはキリストである」という言い方は、誰でも言えることではないのです。「イエスこそが、全宇宙のすべての存在の救い主である」と信じている人だけが、そう宣言するのです。「イエスはキリストである、救い主である」という宣言はずいぶん深くて多様な意味を含んでいます。今日はその中でも。イエスさまが復活されたということに絞って考えたいと思います。
復活節(イースターシーズンといわれます)に読まれる福音書の箇所には、もちろん復活したイエスさまが登場します。でも、私たちの心を動かすのは、復活したイエスさまに出会ったほかの登場人物です。福音書では、復活のイエスさまに最初出会ったとされるマグダラのマリアと他の婦人たち、ペトロと他の弟子たち、そして、今日のミサの福音朗読では、エマオに向かう2人の弟子たちが登場します。
復活のイエスさまに出会うまで、彼ら彼女らはひどく落ち込んでいます。今をがんばって生きよう、将来を切り開いていこうという気力を失ってしまっています。それは当然です。この人について生きていけば人生に悔いはないと思い、あれほど大切に思っていたイエスさまが、こともあろうに十字架にはりつけられて、殺されてしまったのですから。
大切なものが失われてしまった虚しさ、がんばってきたのに、それが徒労に終わった虚脱感が彼ら彼女らを支配しています。イエスさまからして、虚しい無念の最期だったのではないでしょうか?神さまの愛を説き、あんなに人びとを大切にしてがんばってきたのに。待っていたのは苦しみいっぱいの不条理な死だったんですから。
ところで、こんな思いは彼ら彼女らだけに訪れるものでしょうか? そうではありません。私たちの日常生活、私たちの人生に、くりかえし起こってくる思いです。希望は失望に終わるだけだ。どうせがんばったって、だめなんだ。どうせ死ぬんだ。生きているうちが花だ。人のことなんかかまっていられるかと思ってしまいます。
ところが、落ち込んでいた彼ら彼女らはこのように考えることはありませんでした。
なぜなら、復活のイエスさまに出会ったからです。イエスさまは生きている! 努力は虚しくは終わらない。苦しみは喜びに変えられる。愛に生きた人生は死では終わらない。死を乗りこえて、新しい命へと変えられていくんだ! イエスさまに起こった復活の出来事は、私たちにも起こっています。私たちの努力や労苦や悲しみは虚しくは終わりません。必ず実りが待っています。その実りは、私たちの期待したものとは異なりますが、ずっとよいものです。私たちはいっとき落ち込んで、しょげていても、友だちや家族や先生に励まされて、もう一度がんばってみようと元気を取り戻し、立ち上がります。
そうです! 「復活」と訳されているギリシア語の単語のもともとの意味は「立ち上がる」ということです。
復活というできごとは、人が死んだ後だけ起こることではありません。私たちは人生の中で、また、日常生活の中で、様々な立ち上がりの経験、すなわち、復活を体験しているのです。
復活節でお祝いする、イエスさまの復活は、人生の中で、生活の中で、倒れてしまって、しょげてしまう私たちへの、イエスさまからの「大丈夫だよ、安心して、立ち上がりなさい」という呼びかけを確認させてくれるのです。
(話の前後に「かけがえのない君に捧ぐ」(作詞/作曲:田端孝之・南哲哉 編曲:坪山健一 唄:田端孝之)を使わせていただきました。曲をお聴きになりたい方はこちらをクリックしてください。歌詞をご覧になりたい方は、こちらをクリックしてご覧下さい。)
I.W.(宗教科)





