シスター・先生から(宗教朝礼)

2020.02.26

2020年2月26日放送の宗教朝礼から

 これから宗教朝礼を始めます。

両足の裏を床につけ、背筋をまっすぐにして座り、ゆっくり静かに深呼吸をしましょう。
最初に旧約聖書の一部分を皆さんと一緒に味わいたいと思います。
「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 
見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた。 神の手にかかり、打たれたから かれは苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる子羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命あるものの地から断たれたことを。
彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。
彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」
(日本聖書協会発行 『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』 一部省略)
 今、朗読したのは旧約聖書のイザヤ書53章です。高2の宗教の時間には取り上げていますが、この中の「彼」は神様の言葉を伝えても受け入れられない「受難の僕」である預言者イザヤを表す、と旧約聖書の世界では解きます。同時にこの箇所はイエス=キリストの受難を示した部分と言われ、この中の「彼」は逮捕され、裁かれ、かつては熱烈に支持していた人々によって嘲られ、十字架にかけられるイエスの姿である、とキリスト教では解いています。
 では、この中の「わたしたち」は誰でしょうか。苦しんでいる人を見て、「自業自得」、「自己責任」と切り捨て、自らの行いを振り返らない人々。自分の思いが、言葉が、行いが、そしてすべきなのにやらなかったことが、間接的にでも人を傷つけたり嫌な思いをさせたり、苦しめたりしているかもしれないのに、気が付かない人々。
この「わたしたち」が描く人々は、イザヤを受け入れなかった紀元前6世紀ごろの人々やイエスを嘲った1世紀ごろの人々だけでしょうか。
私はこの箇所を読むたび、えぐられたように心に痛みを感じます。この「わたしたち」は私の姿と重なるからです。私の言葉は、行いは、無意識に、無自覚に周りを、社会を、世界を傷つけているんじゃないだろうか。他者の犠牲を当然のように受け取っていないだろうか。その犠牲をなんの意識もなく無駄にしていないだろうか。自分に対する疑いが、この箇所を読むと浮かび上がってきます。皆さんは、このイザヤ書53章を聞いてどう感じましたか?
 今日はカトリック教会のカレンダーで「灰の水曜日」という特別な日です。ここから復活祭までの40日間のイエス=キリストの受難を追体験する期間の始まりの日。「人は塵から作られて塵に還る」存在であることを思い起こし、自らの生き方を振り返る日。自らを謙虚に振り返り、間違っていたところを改めようと意識するべき日。
 今日、60歳未満の成人の信者は1食以外を少食に、そして肉や肉製品を食べないとなっています。皆さんは節約弁当になっていますね。私たちは植物性にせよ、動物性にせよ、他の命を口にして、消化して自分の命を保っています。今日一日、ごはん一粒一粒にも口にする食べ物の背後にある命、その命を育んだ人々を思い起こして食事をいただきましょう。自分というものが何から作られているか、どのように生かされているかを振り返る時間を取りましょう。そして今日からの40日間、今日読んだこの聖書の1か所でも意識して過ごしてほしいです。
H.N.(地歴公民科・社会科・宗教科)