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<title>シスター・先生から(宗教朝礼)</title>
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<description>シスター・先生から(宗教朝礼)</description>
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<title>2026年9月16日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96149/</link>
<description>&#160;夏休み後の全校集会で、7月25日にご帰天された聖心会のシスター奥井博子について蒔苗先生がお話しされ、さだまさしさんの「風に立つライオン」を聖堂で聴きましたね。「シスター奥井が大好きだったというこの曲を、シスターはどのような気持ちで聴いていらっしゃったのだろうか。」と、少しだけ自分の人生と重ね合わせながら、私はしみじみと「風に立つライオン」を聴いていました。

私自身、不二聖心で勤務し始めて20年以上が経過しますが、不二聖心の卒業生ではない私にとって、７～８年ほど前まで、シスター奥井は少し遠い存在でした。聖心女子学院の歴代校長に名を連ね、聖心会でも重要な役職に就かれていたので、個人的にお話しすることはほとんどありませんでした。しかし、2019年に私がミッション・コーディネーターという役職をいただいた頃から、少しずつシスター奥井と個人的にお話しする機会が増えていきました。　ある朝、私が黙想の家で行われるミサに参加しようと学院に向かっている途中、シスターが裾野駅に向かって歩いていらっしゃるのを見かけ、駅まで車でお送りしたことがありました。その時に初めて会話らしい会話をし、「いつもミサでお目にかかっておりますが、不二聖心の教員で○○と申します。」と、とても他人行儀な自己紹介から会話が始まったことを覚えています。

しばらくして、ミッション・コーディネーターとしての養成の一つとして、当時の不二聖心の校長だったシスター大原が、シスター奥井と定期的にお話しする時間を設けてくださいました。その学びは1年ほど続き、毎月、書物などを通して聖心会について学びました。シスター奥井から、いわゆるシスターの見習い期間である修練期のお話や、昔の思い出などを伺うことのできる、とても特別な時間でした。今日は、その時に伺ったお話を一つ、皆さんと分かち合いたいと思います。

ある時、シスター奥井が、聖心会裾野修道院の初代修道院長であったマザー・エリザベス・ダフについてお話ししてくださいました。マザー・ダフがご帰天される前の数週間、シスター方が交代でマザー・ダフの看護にあたっていたそうです。ある日、シスター奥井が当番だった時、眠っているマザー・ダフのある動作に気がつきました。意識がほとんどない中で、マザー・ダフの指先が動いていたのです。それは、3本の指先をこすり合わせるような動きでした。シスター奥井は、その動きを見て、すぐにロザリオを唱える時の指の動きだと分かったそうです。

私はシスター奥井からこのお話を伺って以来、時々思い出します。「ああ、長い人生の中で本当に大切にしてきたものは、その人の中にこんなにも深く刻まれていくのだ」と。私自身、自分がこの人生で持っているものは、神様からいただいたものだと思っています。それは神様からの特別な贈り物であり、もし何か人より少しだけ多くいただいた能力や才能があるとすれば、それは自分のためだけではなく、神様や人々のために使うために与えられたものだと理解しています。そして、与えられたものは、誰かのために使えば使うほど、豊かな実りをもたらすのだと思います。そして、年を取るということは、神様からいただいたものを、少しずつ神様にお返ししていくことでもあるように思います。

ただ、その人が人生で大切にしてきたものが、マザー・ダフの指の動きのように、いつも目に見える形で現れるとは限りません。年齢を重ねたり、病気になったりする中で、記憶や言葉、身体の力を失うこともあります。だからこそ、私は「心の目」でその人を見ることが大切なのだと思います。今、その人に何ができるのかということだけではなく、その人がこれまで何を大切にし、誰を愛し、どのように生きてきたのか。目に見えるものだけではなく、その人の人生全体を「心の目」で見つめる時に、初めて見えてくるものがあるのではないでしょうか。

聖書のマタイによる福音書6章21節に、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」というイエスのみことばがあります。私たちは毎日、たくさんのものを大切にしながら生きています。勉強やクラブ活動、友人との時間、家族、自分の将来、夢や目標。もちろん、どれも大切なものです。

でも、皆さんに少し考えてみてほしいと思います。皆さんにとって、本当に大切な「宝」は何でしょうか。私たちは、毎日の小さな選択の積み重ねによって、自分の人生をつくっています。誰かに優しい言葉をかけること、困っている人に気づくこと、自分に与えられた力を誰かのために使うこと、祈ること、感謝すること。そして時には、自分のためではなく誰かのために何かを譲ること。その一つ一つは、その時にはとても小さなことに見えるかもしれません。でも、それを毎日繰り返していくうちに、それは少しずつ私たちの心に刻まれ、いつかその人の「生き方」になっていくのだと思います。マザー・ダフの指先に長い祈りの日々が刻まれていたように、私たちも毎日の生活の中で、少しずつ自分の人生をつくっています。

あの日、聖堂で「風に立つライオン」を聴きながら、私は「シスター奥井はどのような気持ちでこの曲を聴いていらっしゃったのだろう」と考えていました。その答えを私は知ることはできません。でも、シスター奥井からいただいたこのお話を思い出すと、大切なのは、自分が何を持っているかということだけではなく、神様から与えられたものを何のために使い、誰のために生きるのか、ということなのかもしれないと思います。

今日一日、ほんの少しだけ「心の目」で、自分自身と、そして自分の周りにいる人を見つめてみてください。自分が本当に大切にしている「宝」は何なのか。そして、神様から自分に与えられているものを、今日、誰かのためにどのように使うことができるのか。そんなことを少し考えながら、今日という一日を過ごしてもらえたらと思います。

これで宗教朝礼を終ります。

M.M.（ミッションコーディネーター・宗教科・外国語科）

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<dc:date>2026-09-16T09:45:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178951963489605800" class="cms-content-parts-sin178951963489613000"><p>&#160;夏休み後の全校集会で、7月25日にご帰天された聖心会のシスター奥井博子について蒔苗先生がお話しされ、さだまさしさんの「風に立つライオン」を聖堂で聴きましたね。「シスター奥井が大好きだったというこの曲を、シスターはどのような気持ちで聴いていらっしゃったのだろうか。」と、少しだけ自分の人生と重ね合わせながら、私はしみじみと「風に立つライオン」を聴いていました。</p>
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<div>私自身、不二聖心で勤務し始めて20年以上が経過しますが、不二聖心の卒業生ではない私にとって、７～８年ほど前まで、シスター奥井は少し遠い存在でした。聖心女子学院の歴代校長に名を連ね、聖心会でも重要な役職に就かれていたので、個人的にお話しすることはほとんどありませんでした。しかし、2019年に私がミッション・コーディネーターという役職をいただいた頃から、少しずつシスター奥井と個人的にお話しする機会が増えていきました。　ある朝、私が黙想の家で行われるミサに参加しようと学院に向かっている途中、シスターが裾野駅に向かって歩いていらっしゃるのを見かけ、駅まで車でお送りしたことがありました。その時に初めて会話らしい会話をし、「いつもミサでお目にかかっておりますが、不二聖心の教員で○○と申します。」と、とても他人行儀な自己紹介から会話が始まったことを覚えています。</div>
<div></div>
<div>しばらくして、ミッション・コーディネーターとしての養成の一つとして、当時の不二聖心の校長だったシスター大原が、シスター奥井と定期的にお話しする時間を設けてくださいました。その学びは1年ほど続き、毎月、書物などを通して聖心会について学びました。シスター奥井から、いわゆるシスターの見習い期間である修練期のお話や、昔の思い出などを伺うことのできる、とても特別な時間でした。今日は、その時に伺ったお話を一つ、皆さんと分かち合いたいと思います。</div>
<div></div>
<div>ある時、シスター奥井が、聖心会裾野修道院の初代修道院長であったマザー・エリザベス・ダフについてお話ししてくださいました。マザー・ダフがご帰天される前の数週間、シスター方が交代でマザー・ダフの看護にあたっていたそうです。ある日、シスター奥井が当番だった時、眠っているマザー・ダフのある動作に気がつきました。意識がほとんどない中で、マザー・ダフの指先が動いていたのです。それは、3本の指先をこすり合わせるような動きでした。シスター奥井は、その動きを見て、すぐにロザリオを唱える時の指の動きだと分かったそうです。</div>
<div></div>
<div>私はシスター奥井からこのお話を伺って以来、時々思い出します。「ああ、長い人生の中で本当に大切にしてきたものは、その人の中にこんなにも深く刻まれていくのだ」と。私自身、自分がこの人生で持っているものは、神様からいただいたものだと思っています。それは神様からの特別な贈り物であり、もし何か人より少しだけ多くいただいた能力や才能があるとすれば、それは自分のためだけではなく、神様や人々のために使うために与えられたものだと理解しています。そして、与えられたものは、誰かのために使えば使うほど、豊かな実りをもたらすのだと思います。そして、年を取るということは、神様からいただいたものを、少しずつ神様にお返ししていくことでもあるように思います。</div>
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<div>ただ、その人が人生で大切にしてきたものが、マザー・ダフの指の動きのように、いつも目に見える形で現れるとは限りません。年齢を重ねたり、病気になったりする中で、記憶や言葉、身体の力を失うこともあります。だからこそ、私は「心の目」でその人を見ることが大切なのだと思います。今、その人に何ができるのかということだけではなく、その人がこれまで何を大切にし、誰を愛し、どのように生きてきたのか。目に見えるものだけではなく、その人の人生全体を「心の目」で見つめる時に、初めて見えてくるものがあるのではないでしょうか。</div>
<div></div>
<div>聖書のマタイによる福音書6章21節に、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」というイエスのみことばがあります。私たちは毎日、たくさんのものを大切にしながら生きています。勉強やクラブ活動、友人との時間、家族、自分の将来、夢や目標。もちろん、どれも大切なものです。</div>
<div></div>
<div>でも、皆さんに少し考えてみてほしいと思います。皆さんにとって、本当に大切な「宝」は何でしょうか。私たちは、毎日の小さな選択の積み重ねによって、自分の人生をつくっています。誰かに優しい言葉をかけること、困っている人に気づくこと、自分に与えられた力を誰かのために使うこと、祈ること、感謝すること。そして時には、自分のためではなく誰かのために何かを譲ること。その一つ一つは、その時にはとても小さなことに見えるかもしれません。でも、それを毎日繰り返していくうちに、それは少しずつ私たちの心に刻まれ、いつかその人の「生き方」になっていくのだと思います。マザー・ダフの指先に長い祈りの日々が刻まれていたように、私たちも毎日の生活の中で、少しずつ自分の人生をつくっています。</div>
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<div>あの日、聖堂で「風に立つライオン」を聴きながら、私は「シスター奥井はどのような気持ちでこの曲を聴いていらっしゃったのだろう」と考えていました。その答えを私は知ることはできません。でも、シスター奥井からいただいたこのお話を思い出すと、大切なのは、自分が何を持っているかということだけではなく、神様から与えられたものを何のために使い、誰のために生きるのか、ということなのかもしれないと思います。</div>
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<div>今日一日、ほんの少しだけ「心の目」で、自分自身と、そして自分の周りにいる人を見つめてみてください。自分が本当に大切にしている「宝」は何なのか。そして、神様から自分に与えられているものを、今日、誰かのためにどのように使うことができるのか。そんなことを少し考えながら、今日という一日を過ごしてもらえたらと思います。</div>
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<div>これで宗教朝礼を終ります。<br />
</div>
<div style="text-align: right;">M.M.（ミッションコーディネーター・宗教科・外国語科）<br />
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96146/">
<title>2026年9月9日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96146/</link>
<description>
&#160;　カトリック教会では9月1日から10月4日は、「すべてのいのちを守るための月間」として過ごします。「すべてのいのち」とは、神様がおつくりになったすべてのいのち、ということです。私は、「いのち」というと身近な人のいのちについて考えがちです。今日は人ではない他の生き物のいのちについて考えてみたいと思います。
　さて、皆さんは「カカポ」という鳥を知っていますか。もしかしたら、動画などで見たことがあり、知っている人もいるかもしれません。私は約１年前まで、カカポの生態はおろか、名前すら知りませんでした。
　皆さんの中にも、カカポを知らないという人も多いのではないかと思うので、少しカカポについて説明しますから、是非想像してみてください。「カカポ」はニュージーランドのある島の原住民マオリ族のことばで「夜のオウム」という意味だそうです。その言葉が表すように、カカポは夜行性のオウムです。羽毛は黄緑色。体長は60cm程度ということですから、私たちが目にする鳥類の中ではカラス程度のいわゆる背の高さになります。でも、体重はカラスよりもだいぶ重く、カラスに小型犬、例えば、トイプードルが乗っている程度になるほどで、最も重いオウムとも言われています。そして、多くの鳥類とは異なり、飛ばない鳥です。
　私がこの鳥、カカポと出合ったのは、ある大学の生物の入試問題を通してでした。授業で『生物の相互作用（生物どうしの関わり）』を学んだ後に、クラスの生徒たちに、その知識を実際に活用してほしいと考えて、いろいろな問題の中からその問題をプリントにして授業にもっていきました。問題として扱う題材はカカポでなくても、何でも良かったので、カカポについては、特に調べることなく、解答例や解説の準備をして授業に向かいました。
　ちなみに、その入試問題には、カカポをとりまく状況、例えば、カカポは国際保護連合によって、絶滅の恐れが最も大きい「深刻な危機」に分類されること、カカポを捕食する（捉えて食べる）ネコやネズミなどの外来生物との関係、また、ネコがいなくなった場合のネズミやカカポの個体数の変動などが示されていて、基本的な語句を問うような問題の後に、いくつかの条件を付けて「この島でカカポを保全するためにどうすべきか。」という問いがありました。

　授業は、高校生物の総まとめの時期の授業時間だったため、それぞれが解いて解答の確認をするだけでなく、グループや、クラス全体でどのような解答とすべきか意見を出しあっていたときだったと思います。何人かの生徒たちが小さな声で、「こんな問題解きたくない・・・」「ありえない・・・」などと話しているのが聞こえてきました。
私は、「自分で説明するような問題で、加えて条件もあって、難しく感じているのかもしれない」と思い、問題を解く上でのヒントを示すことができればと思って、なぜそのように思うのか尋ねてみました。すると、問題の説明の一部に、「カカポを捉えて食べるネコの駆除」について示されていたこともあったためか、「カカポが絶滅の危機に瀕しているとはいっても、ネコを駆除するだなんて、ありえない。」「ネコの駆除を考えるなんて、そこまでして固有種を守る意味があるのだろうか」というような考えからくる発言でした。
　その言葉を聞いて、衝撃を受けました。一つは、問題を解くにしては、少々感情的ということ。もう一つは、自分自身は全くそのようなことを考えなかったということです。
生徒たちは、紙面からも「いのち」の重みを受け取っているということがよくわかりました。一方、私は、問題に示された設定や条件から、求められる記述は何かだけを考えて、カカポにも興味をもたず、問題に指定された「駆除」の語はどこで使おうかなどと考える程度だったのです。これまで、いくつもの学年で環境問題や生物多様性についてお話ししてきたのに、本当に情けない話です。
　この経験を通して、いのちを守るとは、単に知識や条件で判断することではないことに改めて気づかされました。あのとき生徒たちが示したように、紙の上の出来事であっても心を痛め、一つのいのちに向き合おうとする感性こそが、すべてのいのちを守るための第一歩なのではないかと思っています。
　皆さんもこの「すべてのいのちを守る月間」に、身のまわりにある普段はあまり目を向けないような様々な「いのち」に、今一度思いを寄せてみてください。
　これで宗教朝礼を終わります。

S.S.（理科）



</description>
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<dc:date>2026-09-09T18:25:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;　カトリック教会では9月1日から10月4日は、「すべてのいのちを守るための月間」として過ごします。「すべてのいのち」とは、神様がおつくりになったすべてのいのち、ということです。私は、「いのち」というと身近な人のいのちについて考えがちです。今日は人ではない他の生き物のいのちについて考えてみたいと思います。</p>
<div>　さて、皆さんは「カカポ」という鳥を知っていますか。もしかしたら、動画などで見たことがあり、知っている人もいるかもしれません。私は約１年前まで、カカポの生態はおろか、名前すら知りませんでした。</div>
<div>　皆さんの中にも、カカポを知らないという人も多いのではないかと思うので、少しカカポについて説明しますから、是非想像してみてください。「カカポ」はニュージーランドのある島の原住民マオリ族のことばで「夜のオウム」という意味だそうです。その言葉が表すように、カカポは夜行性のオウムです。羽毛は黄緑色。体長は60cm程度ということですから、私たちが目にする鳥類の中ではカラス程度のいわゆる背の高さになります。でも、体重はカラスよりもだいぶ重く、カラスに小型犬、例えば、トイプードルが乗っている程度になるほどで、最も重いオウムとも言われています。そして、多くの鳥類とは異なり、飛ばない鳥です。</div>
<div>　私がこの鳥、カカポと出合ったのは、ある大学の生物の入試問題を通してでした。授業で『生物の相互作用（生物どうしの関わり）』を学んだ後に、クラスの生徒たちに、その知識を実際に活用してほしいと考えて、いろいろな問題の中からその問題をプリントにして授業にもっていきました。問題として扱う題材はカカポでなくても、何でも良かったので、カカポについては、特に調べることなく、解答例や解説の準備をして授業に向かいました。</div>
<div>　ちなみに、その入試問題には、カカポをとりまく状況、例えば、カカポは国際保護連合によって、絶滅の恐れが最も大きい「深刻な危機」に分類されること、カカポを捕食する（捉えて食べる）ネコやネズミなどの外来生物との関係、また、ネコがいなくなった場合のネズミやカカポの個体数の変動などが示されていて、基本的な語句を問うような問題の後に、いくつかの条件を付けて「この島でカカポを保全するためにどうすべきか。」という問いがありました。</div>
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<div>　授業は、高校生物の総まとめの時期の授業時間だったため、それぞれが解いて解答の確認をするだけでなく、グループや、クラス全体でどのような解答とすべきか意見を出しあっていたときだったと思います。何人かの生徒たちが小さな声で、「こんな問題解きたくない・・・」「ありえない・・・」などと話しているのが聞こえてきました。</div>
<div>私は、「自分で説明するような問題で、加えて条件もあって、難しく感じているのかもしれない」と思い、問題を解く上でのヒントを示すことができればと思って、なぜそのように思うのか尋ねてみました。すると、問題の説明の一部に、「カカポを捉えて食べるネコの駆除」について示されていたこともあったためか、「カカポが絶滅の危機に瀕しているとはいっても、ネコを駆除するだなんて、ありえない。」「ネコの駆除を考えるなんて、そこまでして固有種を守る意味があるのだろうか」というような考えからくる発言でした。</div>
<div>　その言葉を聞いて、衝撃を受けました。一つは、問題を解くにしては、少々感情的ということ。もう一つは、自分自身は全くそのようなことを考えなかったということです。</div>
<div>生徒たちは、紙面からも「いのち」の重みを受け取っているということがよくわかりました。一方、私は、問題に示された設定や条件から、求められる記述は何かだけを考えて、カカポにも興味をもたず、問題に指定された「駆除」の語はどこで使おうかなどと考える程度だったのです。これまで、いくつもの学年で環境問題や生物多様性についてお話ししてきたのに、本当に情けない話です。</div>
<div>　この経験を通して、いのちを守るとは、単に知識や条件で判断することではないことに改めて気づかされました。あのとき生徒たちが示したように、紙の上の出来事であっても心を痛め、一つのいのちに向き合おうとする感性こそが、すべてのいのちを守るための第一歩なのではないかと思っています。</div>
<div>　皆さんもこの「すべてのいのちを守る月間」に、身のまわりにある普段はあまり目を向けないような様々な「いのち」に、今一度思いを寄せてみてください。</div>
<div style="text-align: right;">　これで宗教朝礼を終わります。<br />
<br />
S.S.（理科）</div>
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<p></p>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96144/">
<title>2026年9月2日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96144/</link>
<description>&#160;夏休みが終わり、1週間が経ちました。そろそろ学校のリズムに戻ってこられたでしょうか。
さて、突然ですが、昨日9月1日は何の日でしょうか。&#8230;「防災の日」です。1923年9月1日に発生した関東大震災をきっかけに制定された、命と防災について考える日です。防災の日創設にあたっては、「政府、地方公共団体など関係諸機関はもとより、広く国民の一人一人が台風、高潮、津波、地震などの災害について、認識を深め、これに対処する心がまえを準備しようというのが、『防災の日』創設のねらいである。」との記述があります。
　今日まで、ニュースに目を向けると、私たちは改めて自然の凄まじさと怖さを突きつけられました。熊本で発生した大きな地震やそれによって発生した様々な事故、千葉県や北陸など各地を襲った記録的な豪雨、海外でもネパールと中国の境で起こった土石流によって1000人近くの方が亡くなり、今も多くの方が行方不明になっています。それまで当たり前だった日常が一瞬で奪われる光景を、私たちはテレビなどを通して目の当たりにしました。また、今年4月から気象庁は、最高気温が40℃以上の日を「酷暑日」と定義しました。その酷暑日が各地で観測され、私たちの健康や命などを脅かすものとなっています。酷暑も1つの災害といってもいいかもしれません。これらの災害では「想定外」「経験したことのない」などという言葉を普通に耳にします。改めて、私たちは不確実な世の中を生きていることを実感します。そして、被害に遭われた方々、今も不自由な生活や後片付けに追われている方々のことを思うと、心が痛みます。
　こうした大きな災害や厳しい環境を前にすると、私たちは自分たちの無力さを痛感します。どんなに情報技術やAIが発達していても、片付けなど復旧を進めていくには、人間の力で少しずつ前に進むしかありません。だからこそ考えたいのは、災害が起こる前、普段から「私たちはどう振る舞い、どう生きるのか」ということです。ここでは2つ挙げたいと思います。
　ひとつは、「自分自身の命と身体を守ること」です。 自分の体や命は、世界にたった一つしかないかけがえのないものです。日頃起こることを「自分ごと」として捉え、いざという時に正しく判断できる準備をしておくことです。自分を大切にし、自分の命を守る行動をとることは、すべての基本です。命があって初めて私たちは自分たちが思っていることなどを実行することができます。
　もうひとつは「集団生活の中で、互いにちょっとした気遣いや協力し合うこと」です。
地域や組織の中での「共助」、つまりお互いに助け合う仕組みが大切です。そしてこの共助の基盤となるのは、日頃の学校生活におけるマナーや思いやりです。どんな方にも日ごろから挨拶をし、困っている人がいれば適切な距離感で手を貸したりすること、また、何かが起こったときには「自分一人くらい」と思わず、周囲の安全を考えて落ち着いた行動をとることです。
　特別なことではなくても、互いにルールを守り、周囲の状況を冷静に観察すること、そうした一人ひとりのちょっとした行動が、どんなときも強い組織や学校環境を作っていきます。
　自然の猛威を止めることは、残念ながら私たちにはできません。そして、それはいつどこで起こるかもわかりません。しかし、私たちが互いに自分の命を守り、そして隣にいる人に温かい目を向けることで、どんなに厳しい環境の中でも、安心して過ごせる場所を作っていくことができます。ぜひ自分という存在を大切にしてください。
　9月に入り、学院生活の前半戦の終わりが見えてきています。皆さんがこれからも安全で、実り多い日々を過ごせることを願っています。
　これで、宗教朝礼を終わります。

M.M.（数学科・情報科）</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-09-02T17:45:00+09:00</dc:date>
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<div>さて、突然ですが、昨日9月1日は何の日でしょうか。&#8230;「防災の日」です。1923年9月1日に発生した関東大震災をきっかけに制定された、命と防災について考える日です。防災の日創設にあたっては、「政府、地方公共団体など関係諸機関はもとより、広く国民の一人一人が台風、高潮、津波、地震などの災害について、認識を深め、これに対処する心がまえを準備しようというのが、『防災の日』創設のねらいである。」との記述があります。</div>
<div>　今日まで、ニュースに目を向けると、私たちは改めて自然の凄まじさと怖さを突きつけられました。熊本で発生した大きな地震やそれによって発生した様々な事故、千葉県や北陸など各地を襲った記録的な豪雨、海外でもネパールと中国の境で起こった土石流によって1000人近くの方が亡くなり、今も多くの方が行方不明になっています。それまで当たり前だった日常が一瞬で奪われる光景を、私たちはテレビなどを通して目の当たりにしました。また、今年4月から気象庁は、最高気温が40℃以上の日を「酷暑日」と定義しました。その酷暑日が各地で観測され、私たちの健康や命などを脅かすものとなっています。酷暑も1つの災害といってもいいかもしれません。これらの災害では「想定外」「経験したことのない」などという言葉を普通に耳にします。改めて、私たちは不確実な世の中を生きていることを実感します。そして、被害に遭われた方々、今も不自由な生活や後片付けに追われている方々のことを思うと、心が痛みます。</div>
<div>　こうした大きな災害や厳しい環境を前にすると、私たちは自分たちの無力さを痛感します。どんなに情報技術やAIが発達していても、片付けなど復旧を進めていくには、人間の力で少しずつ前に進むしかありません。だからこそ考えたいのは、災害が起こる前、普段から「私たちはどう振る舞い、どう生きるのか」ということです。ここでは2つ挙げたいと思います。</div>
<div>　ひとつは、「自分自身の命と身体を守ること」です。 自分の体や命は、世界にたった一つしかないかけがえのないものです。日頃起こることを「自分ごと」として捉え、いざという時に正しく判断できる準備をしておくことです。自分を大切にし、自分の命を守る行動をとることは、すべての基本です。命があって初めて私たちは自分たちが思っていることなどを実行することができます。</div>
<div>　もうひとつは「集団生活の中で、互いにちょっとした気遣いや協力し合うこと」です。</div>
<div>地域や組織の中での「共助」、つまりお互いに助け合う仕組みが大切です。そしてこの共助の基盤となるのは、日頃の学校生活におけるマナーや思いやりです。どんな方にも日ごろから挨拶をし、困っている人がいれば適切な距離感で手を貸したりすること、また、何かが起こったときには「自分一人くらい」と思わず、周囲の安全を考えて落ち着いた行動をとることです。</div>
<div>　特別なことではなくても、互いにルールを守り、周囲の状況を冷静に観察すること、そうした一人ひとりのちょっとした行動が、どんなときも強い組織や学校環境を作っていきます。</div>
<div>　自然の猛威を止めることは、残念ながら私たちにはできません。そして、それはいつどこで起こるかもわかりません。しかし、私たちが互いに自分の命を守り、そして隣にいる人に温かい目を向けることで、どんなに厳しい環境の中でも、安心して過ごせる場所を作っていくことができます。ぜひ自分という存在を大切にしてください。</div>
<div>　9月に入り、学院生活の前半戦の終わりが見えてきています。皆さんがこれからも安全で、実り多い日々を過ごせることを願っています。</div>
<div>　これで、宗教朝礼を終わります。</div>
<div></div>
<div style="text-align: right;">M.M.（数学科・情報科）</div></div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96143/">
<title>2026年7月8日の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96143/</link>
<description>&#160;おはようございます。宗教朝礼を始めます。
　みなさん、食べ物の好き嫌いはありますか？私は、絶対に食べられないというほどの偏食はありませんが、うなぎの蒲焼が苦手です。うなぎに限らず蒲焼の類（たぐい）はあまり好きではありません。理由はタレが甘いからです。ごはんに甘いものは合わないと決めているのです。だから、うな丼なんてタレのせいでガッツリごはんが甘くなってしまうのでダメです。夏になると「うなぎ予約受付中」なんてポスターをよく見かけますが、「ああ、もうすぐ土用の丑の日だ」と思うだけで、絶対に予約はしません。甘いからです。だから、夫の好物がうなぎだということは知っていますが、７月下旬になったとしても我が家でうな丼を食することはありません。甘いからです。
　それに対し私の夫は、好き嫌いなく何でも食べます。あ、間違えました。好き嫌い「なく」ではなく、好きなものは黙って、嫌いなものは「嫌いだ」といいながら食べます。例えば、カステラやスポンジケーキを出されると「口の中の水分が奪われるからイヤだ」と文句をいいます。牛乳も嫌いなものの一つです。小学校１年生の給食の時に牛乳が飲みきれず、教室に一人残され飲まされた記憶があるからだそうです。でも、カステラと牛乳を同時に出すと喜んでパクパク食べて、グビグビ飲みます。嫌いなものを二つ食べると、掛け算みたいにマイナスかけるマイナスでプラスになるのでしょうか？酢豚やレバーなんかも「給食によく出たから嫌いだ」と言います。夫にとって給食は嫌な思い出でしかないようです。私も酢豚については、パイナップルのせいで甘いおかずになってしまうから苦手なのですが、夫は酢豚が出ると私のパインも一緒に食べてくれます。パインと一緒だと豚肉の匂いがしなくなるのだそうです。レバーも給食によく出たうえに、やはり匂いが嫌いだそうですが、焼き鳥屋に行くと必ずレバーを頼みます。嫌いなのに何で頼むのかと聞くと、ビールによく合うからだと言うのですが、そんなふうに嫌（いや）だ嫌だと言いながら何でも食べてしまうのです。
　夫は出されたものや、注文したものは必ず全部食べる人です。嫌いなものでも何でも食べるようになったのは、中学時代から寄宿舎や寮で過ごしてきたからだろうとよく言っています。夫が入学した中学校の寄宿舎はとてもしつけが厳しく、中学１年生のとき、先輩から「飯（めし）を絶対に残すな」と言われたそうです。夫はもともと小食で、先に述べたように給食嫌いです。でも、食堂の残飯入れを使う寮生はいないし、怖い上級生を前にして、出された食事を残すという選択肢はなかったそうです。お昼は学校の教室で寄宿舎の食堂で作ったお弁当を食べるのですが、もしも食べきれない時は、弁当箱に「いつもおいしいお弁当をありがとうございます。今日は体調が悪かったので食べきれませんでした。ごめんなさい」と、ノートの切れ端にでも手紙を書いて入れろと言われたそうです。お弁当を残されると食堂のおばさんが機嫌を損ねてしまい、食事を作ってくれなくなるという話でした。夫は、最初のうちは通学生に自分のお弁当を分けて食べてもらうこともあったそうですが、「そのうち出されたものは、何でも全部食べられるようになった」のだそうです。
　「食べ物を無駄にしないって、いい心がけだよね」と夫に言ったら、そんなんじゃないと言われました。作った人に申し訳ないとか、世界には食べたくても食べられない人がたくさんいるからとか、夫はなにかそういう道徳的な理由から完食しているのではないそうです。夫は残飯入れに残飯を入れたくないから全部食べているのです。カレーライスは絶対に混ぜてから食べるとか、靴は必ず右足から履くとか、鶏の唐揚げにレモン汁は絶対にかけないとか、世の中には譲れないポリシーを持っている人がいますが、夫の完食主義はそれと同じで、単なるこだわりです。
　完食で思い出しました。私の父は今、老人ホームで生活しているのですが、その施設からは毎月の請求書などと一緒に、父の健康状態や食事の様子が綴られたレポートが届くのです。そのレポートには、七夕の短冊を飾りましたとか、お誕生会でケーキを食べましたとか、そんな毎月の出来事が書かれているのですが、食事の様子の欄に必ず「お食事は毎食完食されています」と書いてあるのです。最初のうちは、食いしん坊だからなあと読み流していたのですが、あまりにも毎月毎月、完食完食と書いてくるので私はふと疑問に思ったのです。父は夫と違い偏食家です。特に鶏肉は大の苦手で全く食べません。焼き鳥屋に行っても焼き鳥を食べず、お弁当の唐揚げも必ず残します。鶏肉を見るとあからさまに嫌そうな顔をして、料理人の目の前でも「なんだ鶏肉か」と言ってしまうような人です。施設のお知らせには一か月の献立表も入っていますが、２、３日に一回は鶏肉料理があります。父は本当に鶏肉も食べているのか？私は施設からのレポートに疑惑を抱いたのです。
　果たして、父は鶏肉を食べていたのでした。父との面会の際に、施設の人と食事の話をしたところ、鶏肉が入った料理もしっかり食べているそうです。ちょっと父を見直してしまいました。８０歳を過ぎて好き嫌いを克服するなんてえらいなあ。環境は人を変えるんだなあと、ちょっと感心しました。父に「鶏肉も食べるようになったんだね。えらいね。鶏肉おいしいでしょ？」と話しかけたら、「鶏なんて食べてないぞ」と言うのです。え！？もしや自覚がない？どうも父は施設の食事で出される鶏肉を、鶏肉と気づかずに食べているようなのです。とすると、父は鶏肉の味が嫌いではないのです。ただ鶏肉というだけで味を確かめることもせず、自分から遠ざけて食べてこなかったのです。これまでずーっと、私が生まれるずっと前から。なんてことでしょう。おいしい鶏肉料理の味を知らずに、人生の大半を過ごしてしまった人がここにいる。でも、そんなことを老い先短い老人に言ったところで仕方がないので「そうか。ここでは鶏肉を使った料理は出ないんだね」と父に言うと「そうなんだよ。ありがたいよ」とニコニコ笑いながら、差し入れの歌舞伎揚げを口からボロボロこぼしながら食べるのでした。
　施設に入ってからの父はとても元気です。一人暮らしの頃と比べると、顔色も良く、病気で体調を崩すこともなくなりました。食生活のおかげ、偏食がなくなったせいだと私は思っています。父は自分が変わったとは自覚していませんが、鶏肉を食べるという小さな変化は、きっと健康に大きな影響を与えているのでしょう。なので「健康診断の結果も良くなかったし、私もそんなふうに自分を変えることができたらいいなあ、今年の不二の目標は「Ｃｈａｎｇｅ」だしね」と夫に言ったら、「ドラえもんって、未来を変えるためにのび太のところに来たんだよね。のび太が変わると、しずかちゃんの未来も変わる。一人が変わると、その人の周りの世界も変わっていくんだ。風が吹けば桶屋がもうかるように、未来なんてちょっとしたはずみでどんどん変わるってことだよ！」って、のび太としずかちゃんの恋の行方はともかくとして、風が吹いたら洗面器がよく売れるという、わけのわからないことを言われてしまいました。でも、風が吹くとすぐに飛ばされるような自分にとっては本当に小さな変化でも、未来は大きく変わっていくものなのかも知れません。今日からは甘いおかずも残さずに食べていこうと思います。
　みなさん、好き嫌いはありますか？
　The future depends on what we do in the present. - Mahatma Gandhi
これで宗教朝礼を終わります。

M.S.（技術・家庭科）</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-07-08T17:40:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178877062063693500" class="cms-content-parts-sin178877062063702400"><p>&#160;おはようございます。宗教朝礼を始めます。</p>
<div>　みなさん、食べ物の好き嫌いはありますか？私は、絶対に食べられないというほどの偏食はありませんが、うなぎの蒲焼が苦手です。うなぎに限らず蒲焼の類（たぐい）はあまり好きではありません。理由はタレが甘いからです。ごはんに甘いものは合わないと決めているのです。だから、うな丼なんてタレのせいでガッツリごはんが甘くなってしまうのでダメです。夏になると「うなぎ予約受付中」なんてポスターをよく見かけますが、「ああ、もうすぐ土用の丑の日だ」と思うだけで、絶対に予約はしません。甘いからです。だから、夫の好物がうなぎだということは知っていますが、７月下旬になったとしても我が家でうな丼を食することはありません。甘いからです。</div>
<div>　それに対し私の夫は、好き嫌いなく何でも食べます。あ、間違えました。好き嫌い「なく」ではなく、好きなものは黙って、嫌いなものは「嫌いだ」といいながら食べます。例えば、カステラやスポンジケーキを出されると「口の中の水分が奪われるからイヤだ」と文句をいいます。牛乳も嫌いなものの一つです。小学校１年生の給食の時に牛乳が飲みきれず、教室に一人残され飲まされた記憶があるからだそうです。でも、カステラと牛乳を同時に出すと喜んでパクパク食べて、グビグビ飲みます。嫌いなものを二つ食べると、掛け算みたいにマイナスかけるマイナスでプラスになるのでしょうか？酢豚やレバーなんかも「給食によく出たから嫌いだ」と言います。夫にとって給食は嫌な思い出でしかないようです。私も酢豚については、パイナップルのせいで甘いおかずになってしまうから苦手なのですが、夫は酢豚が出ると私のパインも一緒に食べてくれます。パインと一緒だと豚肉の匂いがしなくなるのだそうです。レバーも給食によく出たうえに、やはり匂いが嫌いだそうですが、焼き鳥屋に行くと必ずレバーを頼みます。嫌いなのに何で頼むのかと聞くと、ビールによく合うからだと言うのですが、そんなふうに嫌（いや）だ嫌だと言いながら何でも食べてしまうのです。</div>
<div>　夫は出されたものや、注文したものは必ず全部食べる人です。嫌いなものでも何でも食べるようになったのは、中学時代から寄宿舎や寮で過ごしてきたからだろうとよく言っています。夫が入学した中学校の寄宿舎はとてもしつけが厳しく、中学１年生のとき、先輩から「飯（めし）を絶対に残すな」と言われたそうです。夫はもともと小食で、先に述べたように給食嫌いです。でも、食堂の残飯入れを使う寮生はいないし、怖い上級生を前にして、出された食事を残すという選択肢はなかったそうです。お昼は学校の教室で寄宿舎の食堂で作ったお弁当を食べるのですが、もしも食べきれない時は、弁当箱に「いつもおいしいお弁当をありがとうございます。今日は体調が悪かったので食べきれませんでした。ごめんなさい」と、ノートの切れ端にでも手紙を書いて入れろと言われたそうです。お弁当を残されると食堂のおばさんが機嫌を損ねてしまい、食事を作ってくれなくなるという話でした。夫は、最初のうちは通学生に自分のお弁当を分けて食べてもらうこともあったそうですが、「そのうち出されたものは、何でも全部食べられるようになった」のだそうです。</div>
<div>　「食べ物を無駄にしないって、いい心がけだよね」と夫に言ったら、そんなんじゃないと言われました。作った人に申し訳ないとか、世界には食べたくても食べられない人がたくさんいるからとか、夫はなにかそういう道徳的な理由から完食しているのではないそうです。夫は残飯入れに残飯を入れたくないから全部食べているのです。カレーライスは絶対に混ぜてから食べるとか、靴は必ず右足から履くとか、鶏の唐揚げにレモン汁は絶対にかけないとか、世の中には譲れないポリシーを持っている人がいますが、夫の完食主義はそれと同じで、単なるこだわりです。</div>
<div>　完食で思い出しました。私の父は今、老人ホームで生活しているのですが、その施設からは毎月の請求書などと一緒に、父の健康状態や食事の様子が綴られたレポートが届くのです。そのレポートには、七夕の短冊を飾りましたとか、お誕生会でケーキを食べましたとか、そんな毎月の出来事が書かれているのですが、食事の様子の欄に必ず「お食事は毎食完食されています」と書いてあるのです。最初のうちは、食いしん坊だからなあと読み流していたのですが、あまりにも毎月毎月、完食完食と書いてくるので私はふと疑問に思ったのです。父は夫と違い偏食家です。特に鶏肉は大の苦手で全く食べません。焼き鳥屋に行っても焼き鳥を食べず、お弁当の唐揚げも必ず残します。鶏肉を見るとあからさまに嫌そうな顔をして、料理人の目の前でも「なんだ鶏肉か」と言ってしまうような人です。施設のお知らせには一か月の献立表も入っていますが、２、３日に一回は鶏肉料理があります。父は本当に鶏肉も食べているのか？私は施設からのレポートに疑惑を抱いたのです。</div>
<div>　果たして、父は鶏肉を食べていたのでした。父との面会の際に、施設の人と食事の話をしたところ、鶏肉が入った料理もしっかり食べているそうです。ちょっと父を見直してしまいました。８０歳を過ぎて好き嫌いを克服するなんてえらいなあ。環境は人を変えるんだなあと、ちょっと感心しました。父に「鶏肉も食べるようになったんだね。えらいね。鶏肉おいしいでしょ？」と話しかけたら、「鶏なんて食べてないぞ」と言うのです。え！？もしや自覚がない？どうも父は施設の食事で出される鶏肉を、鶏肉と気づかずに食べているようなのです。とすると、父は鶏肉の味が嫌いではないのです。ただ鶏肉というだけで味を確かめることもせず、自分から遠ざけて食べてこなかったのです。これまでずーっと、私が生まれるずっと前から。なんてことでしょう。おいしい鶏肉料理の味を知らずに、人生の大半を過ごしてしまった人がここにいる。でも、そんなことを老い先短い老人に言ったところで仕方がないので「そうか。ここでは鶏肉を使った料理は出ないんだね」と父に言うと「そうなんだよ。ありがたいよ」とニコニコ笑いながら、差し入れの歌舞伎揚げを口からボロボロこぼしながら食べるのでした。</div>
<div>　施設に入ってからの父はとても元気です。一人暮らしの頃と比べると、顔色も良く、病気で体調を崩すこともなくなりました。食生活のおかげ、偏食がなくなったせいだと私は思っています。父は自分が変わったとは自覚していませんが、鶏肉を食べるという小さな変化は、きっと健康に大きな影響を与えているのでしょう。なので「健康診断の結果も良くなかったし、私もそんなふうに自分を変えることができたらいいなあ、今年の不二の目標は「Ｃｈａｎｇｅ」だしね」と夫に言ったら、「ドラえもんって、未来を変えるためにのび太のところに来たんだよね。のび太が変わると、しずかちゃんの未来も変わる。一人が変わると、その人の周りの世界も変わっていくんだ。風が吹けば桶屋がもうかるように、未来なんてちょっとしたはずみでどんどん変わるってことだよ！」って、のび太としずかちゃんの恋の行方はともかくとして、風が吹いたら洗面器がよく売れるという、わけのわからないことを言われてしまいました。でも、風が吹くとすぐに飛ばされるような自分にとっては本当に小さな変化でも、未来は大きく変わっていくものなのかも知れません。今日からは甘いおかずも残さずに食べていこうと思います。</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96132/">
<title>2026年6月24日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96132/</link>
<description>
&#160;　みなさんには、「心が帰る場所」がありますか？
　「心が帰る場所」―私自身にもこの言い方が合っているのかどうかわからないのですが、それは、自分自身が安心して、落ち着ける場所のことだと私は思っています。それは物理的な、実際の場所のこともあれば、自分自身の中にあるものではないかとも思います。
　以前、祈りの会でチャプレンの牧山善彦神父様がこのようなお話をしてくださいました。「怒りや疲労、孤独、飢餓を感じたときに、心を空っぽにして、まずそこに自分をおいてみる。自分がつらい気持ちやどうしようもない気持ちになったときに、そこに自分をおくことでふっと自分の心が軽くなって、安心できる場所というのが私たちには必要であると思うのです」と。カウンセラーの先生もおっしゃっていました。「『ハウス』というのではないですが、自分の安心できる場所があるといいですね。何かあったときや、心を落ち着けたいなと思ったときに、ここに入れば安心だ、と思えるような場所を作っておくといいですよ。そこは誰にも左右されない、自分だけの自由な場所です。」
　数年前のお二人のこのようなお話から、私はこの場所を「心の帰る場所」と名づけて、自分にとっての「心の帰る場所」とはどんなものなのだろうと考えてきました。まず一つ思いついたのは、子供の頃にずっとベッドの頭上に飾ってあったぶどうの木の絵。聖書の言葉が書かれていたその絵は、今思えば御絵と呼ばれるものだったのだと思います。毎晩寝る前にその御絵を眺めながら、今日あったことや今自分が考えていることなどを思い巡らす時間、それが子供の頃の私の「心の帰る場所」であったように思います。
　もう一つ、不二聖心に勤めるようになってから、私が「心の帰る場所」としてイメージするものがあります。それは「感ずべき御母」のお姿です。みなさんも教室で「感ずべき御母」のお姿を毎日見上げていることでしょう。祈ること、学ぶこと、働くことの大切さを私たちに示してくださるマリア様は、目を伏せて静かに思いをめぐらせています。背後には希望を感じさせてくれる夜明けの空。私はいつの頃からか、心を落ち着かせようとするときに自然とこのマリア様のお姿が脳裏に浮かぶようになりました。心が穏やかでないときや、大変だな、と感じるとき、マリア様が目を伏せているお姿を想像すると、自然と気持ちが落ち着きます。目をあけるとそこには黎明の空が広がっていて、また頑張ろうと思えるのです。
　少し話は変わりますが、「感ずべき御母」のお姿に私が重ねるものがあります。10年以上前のことになりますが、聖心の姉妹校の先生方が集まる研修会に参加したときのことです。夜の食事のあとに、みながなんとなくグループを作って歓談する中で、私はあるシスターのもとにいました。不二聖心にもいらっしゃったことのあるシスターです。そのシスターに、小林の先生が、「シスターはなぜシスターになったのですか？最初からシスターになろうと思っていたのですか？シスターになった経緯を知りたいです」と言いました。私はちょっとびっくりしました。そういう踏み込んだ話を無邪気に聞いていいものかどうか戸惑ったからです。しかし、シスターは静かにお話をしてくださいました。シスターは聖心の学校で学ぶ中で、もともとシスターになりたいという強い気持ちをお持ちでした。ただ、お母様を早くに亡くし、ご商売をしていた家にはお父様と下にごきょうだいたちが残された、家事を切り盛りしながらお父様やごきょうだいのお世話もするということで、いったんシスターになる夢はおいておき、ご家族に尽くすことを決めたそうです。しかし、そうした後でゆくゆくは必ずシスターになり、神様にお仕えしたいのだという決意をお父様に伝えたところ、お父様が即座に、「それはいけない。神様にお仕えするのに、そんな使い古しのような娘をお捧げするわけにはいかない。」とおっしゃったそうです。「今すぐにでも神様にお仕えする準備をしなさい」というお父様の言葉に後押しされ、私はシスターになれました、というシスターのお話が私の心に強く残りました。特に、お父様の神様への深い敬愛の念が心に響いたのです。シスターのお話にはまだ続きがあります。シスターになるための修練のため、シスターは不二聖心にいらっしゃったこともあるそうです。その頃はまだ、寄宿生の食事をシスター方や修練生で作っていて、一回の食事にたとえば何百個ものジャガイモの皮を一人でむくこともよくあったそうです。「何百個って&#8230;」と私たちが言うと、シスターは「そうね、200個とか300個とか。」とお笑いになりました。「でもね、それは全然苦ではなかったの。神様の元で働かせていただいているのだと思うと、それはもう喜びでした。」とおっしゃるシスターは昔を思い出しているようでとても楽しそうでした。「私はそのままここでずっと地道にジャガイモをむいていたいとも思ったけれど、聖心会のシスターは女子教育という使命があります。教育の場で女子生徒を育てるということが聖心会のシスターに与えられた大切な役割なので、後ろ髪をひかれる思いはあったけれど、不二聖心を離れました」。これが、そのときうかがったシスターからのお話です。
　この後から今まで、私は何度もこのシスターのお話を思い出します。若いシスターがジャガイモをむいている、その姿は私の中でいつのまにかキッチンを出て、広々としたオークヒルの真ん中で一心に仕事に取り組むイメージになっていきます。そしてそこに、いつのまにか「感ずべき御母」が寄り添って、２人は言葉をかわすことはなくても、神様への敬愛の念で強く結びついています。神様に一心にお仕えするその清らかな姿は、私の心も清々しくさせてくれ、次の希望に向けて進む勇気を与えてくれます。
　感ずべき御母の祝日は10月なので、ちょっと時季外れの話だなと思っている方もいらっしゃるでしょうが、1ヶ月少し前に、私は父を亡くしました。高齢でしたし、それなりの覚悟もあったこともあり、普段はそれほど落ち込むこともなく、普通に過ごせていますが、やはりふとした瞬間に、悲しみやどうしようもない気持ち、後悔の念などが襲ってきます。そんなとき、感ずべき御母やジャガイモをむくシスターのお姿を思い浮かべると、救われるような気持ちになるのです。
　みなさんには、「心が帰る場所」がありますか？
　つらくなったり、悲しくなったり、どうすることもできないような気持ちになったとき、その場所は自分を助けてくれ、支えてくれると思います。

　これで、宗教朝礼を終わります。

M.S.(国語科)
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2026-06-24T13:45:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div id="cms-editor-minieditor-sin178227646615124200" class="cms-content-parts-sin178227646615145300">
<p>&#160;　みなさんには、「心が帰る場所」がありますか？</p>
<div>　「心が帰る場所」―私自身にもこの言い方が合っているのかどうかわからないのですが、それは、自分自身が安心して、落ち着ける場所のことだと私は思っています。それは物理的な、実際の場所のこともあれば、自分自身の中にあるものではないかとも思います。</div>
<div>　以前、祈りの会でチャプレンの牧山善彦神父様がこのようなお話をしてくださいました。「怒りや疲労、孤独、飢餓を感じたときに、心を空っぽにして、まずそこに自分をおいてみる。自分がつらい気持ちやどうしようもない気持ちになったときに、そこに自分をおくことでふっと自分の心が軽くなって、安心できる場所というのが私たちには必要であると思うのです」と。カウンセラーの先生もおっしゃっていました。「『ハウス』というのではないですが、自分の安心できる場所があるといいですね。何かあったときや、心を落ち着けたいなと思ったときに、ここに入れば安心だ、と思えるような場所を作っておくといいですよ。そこは誰にも左右されない、自分だけの自由な場所です。」</div>
<div>　数年前のお二人のこのようなお話から、私はこの場所を「心の帰る場所」と名づけて、自分にとっての「心の帰る場所」とはどんなものなのだろうと考えてきました。まず一つ思いついたのは、子供の頃にずっとベッドの頭上に飾ってあったぶどうの木の絵。聖書の言葉が書かれていたその絵は、今思えば御絵と呼ばれるものだったのだと思います。毎晩寝る前にその御絵を眺めながら、今日あったことや今自分が考えていることなどを思い巡らす時間、それが子供の頃の私の「心の帰る場所」であったように思います。</div>
<div>　もう一つ、不二聖心に勤めるようになってから、私が「心の帰る場所」としてイメージするものがあります。それは「感ずべき御母」のお姿です。みなさんも教室で「感ずべき御母」のお姿を毎日見上げていることでしょう。祈ること、学ぶこと、働くことの大切さを私たちに示してくださるマリア様は、目を伏せて静かに思いをめぐらせています。背後には希望を感じさせてくれる夜明けの空。私はいつの頃からか、心を落ち着かせようとするときに自然とこのマリア様のお姿が脳裏に浮かぶようになりました。心が穏やかでないときや、大変だな、と感じるとき、マリア様が目を伏せているお姿を想像すると、自然と気持ちが落ち着きます。目をあけるとそこには黎明の空が広がっていて、また頑張ろうと思えるのです。</div>
<div>　少し話は変わりますが、「感ずべき御母」のお姿に私が重ねるものがあります。10年以上前のことになりますが、聖心の姉妹校の先生方が集まる研修会に参加したときのことです。夜の食事のあとに、みながなんとなくグループを作って歓談する中で、私はあるシスターのもとにいました。不二聖心にもいらっしゃったことのあるシスターです。そのシスターに、小林の先生が、「シスターはなぜシスターになったのですか？最初からシスターになろうと思っていたのですか？シスターになった経緯を知りたいです」と言いました。私はちょっとびっくりしました。そういう踏み込んだ話を無邪気に聞いていいものかどうか戸惑ったからです。しかし、シスターは静かにお話をしてくださいました。シスターは聖心の学校で学ぶ中で、もともとシスターになりたいという強い気持ちをお持ちでした。ただ、お母様を早くに亡くし、ご商売をしていた家にはお父様と下にごきょうだいたちが残された、家事を切り盛りしながらお父様やごきょうだいのお世話もするということで、いったんシスターになる夢はおいておき、ご家族に尽くすことを決めたそうです。しかし、そうした後でゆくゆくは必ずシスターになり、神様にお仕えしたいのだという決意をお父様に伝えたところ、お父様が即座に、「それはいけない。神様にお仕えするのに、そんな使い古しのような娘をお捧げするわけにはいかない。」とおっしゃったそうです。「今すぐにでも神様にお仕えする準備をしなさい」というお父様の言葉に後押しされ、私はシスターになれました、というシスターのお話が私の心に強く残りました。特に、お父様の神様への深い敬愛の念が心に響いたのです。シスターのお話にはまだ続きがあります。シスターになるための修練のため、シスターは不二聖心にいらっしゃったこともあるそうです。その頃はまだ、寄宿生の食事をシスター方や修練生で作っていて、一回の食事にたとえば何百個ものジャガイモの皮を一人でむくこともよくあったそうです。「何百個って&#8230;」と私たちが言うと、シスターは「そうね、200個とか300個とか。」とお笑いになりました。「でもね、それは全然苦ではなかったの。神様の元で働かせていただいているのだと思うと、それはもう喜びでした。」とおっしゃるシスターは昔を思い出しているようでとても楽しそうでした。「私はそのままここでずっと地道にジャガイモをむいていたいとも思ったけれど、聖心会のシスターは女子教育という使命があります。教育の場で女子生徒を育てるということが聖心会のシスターに与えられた大切な役割なので、後ろ髪をひかれる思いはあったけれど、不二聖心を離れました」。これが、そのときうかがったシスターからのお話です。</div>
<div>　この後から今まで、私は何度もこのシスターのお話を思い出します。若いシスターがジャガイモをむいている、その姿は私の中でいつのまにかキッチンを出て、広々としたオークヒルの真ん中で一心に仕事に取り組むイメージになっていきます。そしてそこに、いつのまにか「感ずべき御母」が寄り添って、２人は言葉をかわすことはなくても、神様への敬愛の念で強く結びついています。神様に一心にお仕えするその清らかな姿は、私の心も清々しくさせてくれ、次の希望に向けて進む勇気を与えてくれます。</div>
<div>　感ずべき御母の祝日は10月なので、ちょっと時季外れの話だなと思っている方もいらっしゃるでしょうが、1ヶ月少し前に、私は父を亡くしました。高齢でしたし、それなりの覚悟もあったこともあり、普段はそれほど落ち込むこともなく、普通に過ごせていますが、やはりふとした瞬間に、悲しみやどうしようもない気持ち、後悔の念などが襲ってきます。そんなとき、感ずべき御母やジャガイモをむくシスターのお姿を思い浮かべると、救われるような気持ちになるのです。</div>
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<div>　つらくなったり、悲しくなったり、どうすることもできないような気持ちになったとき、その場所は自分を助けてくれ、支えてくれると思います。</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96131/">
<title>2026年6月17日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96131/</link>
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&#160;先日、私たちは全校で市川教会の晴佐久神父様の講演を聞きました。行き場のない人や孤独を抱える人々が集まり、共に暮らす共同体のお話は、私自身とても共感し、今も深く心に残っています。
現代は、いつでも好きなものを一人で食べられる便利な時代ですが、同時に孤食が増えていると言われています。今は多くの大学の学食に「孤食スペース」や「おひとり様席」が設置されているそうですが、 長いテーブルの真ん中についたてがあって、人の視線が気にならないようになっているそうです。大学生の次男に聞いたところ、他人の目を気にせずスマホを見ながら落ち着いて食べられるのでとても快適だそうで、よく利用していると言っていました。

　この、「一人で食べたい気持ち」と誰かと食べる「一緒ごはん」の大切さについて考えていた時、私は自分がかつて銀行に就職したばかりの頃を思い出しました。当時、私は上司と気が合わず、昼食時に社員食堂で一緒になるのが憂鬱でたまりませんでした。そのため、わざと時間をずらしたり、社外に出て一人で食べたりしていました。ですから、誰にも気を遣わずに落ち着いて食べたいという気持ちはよく分かります。しかし同時に、一人でいるとどこか疎外感を覚えたり、周囲から協調性がないと思われているのではないかと不安になったりもしました。上司から見れば、当時の私は扱いにくい部下だったと思います。

　そんな私を救ってくれたのが、会社の独身寮での「一緒ごはん」でした。
だいぶ昔の話ですので今は分かりませんが、当時、男子の新入行員は必ず寮に入ることになっていました。そこには、日頃の仕事ではまったく関わりのない違う支店の人や、経済調査部、資金為替部等さまざまな部署の先輩・同期・後輩が暮らしていました。
必ず一緒に食べなければならないというルールはありませんでしたが、夕食の時間になると自然とみんなが食堂に集まり、ワイワイと交流を深めていました。同じ部署や同期の人だと、どこかライバル意識があって本音で話せないこともあります。しかし、直接仕事に関わりのない先輩や後輩には、仕事の愚痴を言えたり、真剣な相談にのってもらえたりしました。この食事がきっかけで気が合い、一緒にスキーに出かけるような仲間もできました。寮での夕食の時間が、どれほど日々の支えになっていたか分かりません。その温かい時間があったからこそ、仕事でつらいことがあっても乗り越えることができたのだと思います。

　晴佐久神父様が信じておられたのも、まさにこの「一緒ごはん」の力です。
同じテーブルを囲み、同じ鍋の料理を分け合い、これ美味しいね、今日こんなことがあったんだよと言葉を交わす。その時間が、バラバラだった人たちを、一つの家族のように結びつけていきます。
カトリックの教えの根本には、「神様は私たちを、一人ぼっちで生きるようには造られなかった。互いに愛し合い、支え合う共同体として生きるように造られた」というメッセージがあります。
イエス・キリストの生涯を振り返ってみても、イエス様はいつも誰かと一緒にご飯を食べていました。それも、立派な人たちばかりではありません。社会からのけ者にされていた人、寂しい思いをしていた人のところへわざわざ出かけていき、一緒に食卓を囲みました。当時の人々にとって、一緒にご飯を食べるということは、「私はあなたを大切な仲間として受け入れます。私はあなたの味方ですよ」という、最大の愛の表明だったのです。

　最初は心を閉ざしていた人が、「一緒ごはん」を通じて、少しずつ笑顔を取り戻していく。普段は関わりのない人同士でも、ご飯を一緒に食べるだけで、心の垣根がすっと消えていく。それこそが、共同体が持つ不思議な力です。私たちは今、不二聖心という一つの共同体の中で生きています。

　もしかしたら、普段の学校生活ではあまり話したことがない人や、少し気が合わないなと思う人もいるかもしれません。でも、お昼休みに一緒にお弁当を食べたり、同じ空間で食事の時間を分かち合ったりする時、そこには新しいつながりのきっかけが生まれています。
実は私も、あの講演会があった日に、教室で生徒のみなさんとお話しながらお弁当をいただく機会がありました。それが本当に楽しくて、心がじんわりと温まる時間だったのです。
　
　もしみなさんの周りに、寂しそうにしている人がいたら、ほんの少しの勇気を出して「一緒に食べよう」と声をかけてみてください。その一言こそが、カトリックの言う「愛の教え」を今この場所で実践することそのものになります。一人で食べるご飯よりも、みんなで食べるご飯の方がずっと美味しい。その温かさを知る人が増えれば、世界はもっと優しくなります。
みなさんがお互いを大切にし合い、不二聖心という素晴らしい共同体の中で、豊かな時間を過ごせますように願っています。
これで宗教朝礼を終わります。

J.K.(数学科・情報科)

</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-06-17T21:25:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178178589381307400" class="cms-content-parts-sin178178589381315100">
<p>&#160;先日、私たちは全校で市川教会の晴佐久神父様の講演を聞きました。行き場のない人や孤独を抱える人々が集まり、共に暮らす共同体のお話は、私自身とても共感し、今も深く心に残っています。</p>
<div>現代は、いつでも好きなものを一人で食べられる便利な時代ですが、同時に孤食が増えていると言われています。今は多くの大学の学食に「孤食スペース」や「おひとり様席」が設置されているそうですが、 長いテーブルの真ん中についたてがあって、人の視線が気にならないようになっているそうです。大学生の次男に聞いたところ、他人の目を気にせずスマホを見ながら落ち着いて食べられるのでとても快適だそうで、よく利用していると言っていました。</div>
<div></div>
<div>　この、「一人で食べたい気持ち」と誰かと食べる「一緒ごはん」の大切さについて考えていた時、私は自分がかつて銀行に就職したばかりの頃を思い出しました。当時、私は上司と気が合わず、昼食時に社員食堂で一緒になるのが憂鬱でたまりませんでした。そのため、わざと時間をずらしたり、社外に出て一人で食べたりしていました。ですから、誰にも気を遣わずに落ち着いて食べたいという気持ちはよく分かります。しかし同時に、一人でいるとどこか疎外感を覚えたり、周囲から協調性がないと思われているのではないかと不安になったりもしました。上司から見れば、当時の私は扱いにくい部下だったと思います。</div>
<div></div>
<div>　そんな私を救ってくれたのが、会社の独身寮での「一緒ごはん」でした。</div>
<div>だいぶ昔の話ですので今は分かりませんが、当時、男子の新入行員は必ず寮に入ることになっていました。そこには、日頃の仕事ではまったく関わりのない違う支店の人や、経済調査部、資金為替部等さまざまな部署の先輩・同期・後輩が暮らしていました。</div>
<div>必ず一緒に食べなければならないというルールはありませんでしたが、夕食の時間になると自然とみんなが食堂に集まり、ワイワイと交流を深めていました。同じ部署や同期の人だと、どこかライバル意識があって本音で話せないこともあります。しかし、直接仕事に関わりのない先輩や後輩には、仕事の愚痴を言えたり、真剣な相談にのってもらえたりしました。この食事がきっかけで気が合い、一緒にスキーに出かけるような仲間もできました。寮での夕食の時間が、どれほど日々の支えになっていたか分かりません。その温かい時間があったからこそ、仕事でつらいことがあっても乗り越えることができたのだと思います。</div>
<div></div>
<div>　晴佐久神父様が信じておられたのも、まさにこの「一緒ごはん」の力です。</div>
<div>同じテーブルを囲み、同じ鍋の料理を分け合い、これ美味しいね、今日こんなことがあったんだよと言葉を交わす。その時間が、バラバラだった人たちを、一つの家族のように結びつけていきます。</div>
<div>カトリックの教えの根本には、「神様は私たちを、一人ぼっちで生きるようには造られなかった。互いに愛し合い、支え合う共同体として生きるように造られた」というメッセージがあります。</div>
<div>イエス・キリストの生涯を振り返ってみても、イエス様はいつも誰かと一緒にご飯を食べていました。それも、立派な人たちばかりではありません。社会からのけ者にされていた人、寂しい思いをしていた人のところへわざわざ出かけていき、一緒に食卓を囲みました。当時の人々にとって、一緒にご飯を食べるということは、「私はあなたを大切な仲間として受け入れます。私はあなたの味方ですよ」という、最大の愛の表明だったのです。</div>
<div></div>
<div>　最初は心を閉ざしていた人が、「一緒ごはん」を通じて、少しずつ笑顔を取り戻していく。普段は関わりのない人同士でも、ご飯を一緒に食べるだけで、心の垣根がすっと消えていく。それこそが、共同体が持つ不思議な力です。私たちは今、不二聖心という一つの共同体の中で生きています。</div>
<div></div>
<div>　もしかしたら、普段の学校生活ではあまり話したことがない人や、少し気が合わないなと思う人もいるかもしれません。でも、お昼休みに一緒にお弁当を食べたり、同じ空間で食事の時間を分かち合ったりする時、そこには新しいつながりのきっかけが生まれています。</div>
<div>実は私も、あの講演会があった日に、教室で生徒のみなさんとお話しながらお弁当をいただく機会がありました。それが本当に楽しくて、心がじんわりと温まる時間だったのです。</div>
<div>　</div>
<div>　もしみなさんの周りに、寂しそうにしている人がいたら、ほんの少しの勇気を出して「一緒に食べよう」と声をかけてみてください。その一言こそが、カトリックの言う「愛の教え」を今この場所で実践することそのものになります。一人で食べるご飯よりも、みんなで食べるご飯の方がずっと美味しい。その温かさを知る人が増えれば、世界はもっと優しくなります。</div>
<div>みなさんがお互いを大切にし合い、不二聖心という素晴らしい共同体の中で、豊かな時間を過ごせますように願っています。</div>
<div>これで宗教朝礼を終わります。</div>
<div></div>
<div style="text-align: right;">J.K.(数学科・情報科)</div>
<div style="text-align: right;"></div>
</div>
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</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96130/">
<title>2026年6月3日の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96130/</link>
<description>
&#160;　私は今から40年ほど前に聖心女子大学に入学しました。その頃の私は「大学生になったら絶対に一人暮らしをしたい」と言い張っていました。けれど両親に「一人暮らしは社会人になってからでもできるのだから、学生のうちに共同生活を体験しなさい。将来必ず良かったと思えるはずだから」と説得され、しぶしぶながら学寮での大学生生活を始めることになりました。

　その当時の学寮は西寮と北寮に分かれ、１年生は全員西寮の4人部屋での生活でした。唯一のプライベート空間は寝るときにカーテンを閉めたベッドの上のみ。お風呂も皆で大浴場、電話をかける時にはありったけの10円玉を握りしめて公衆電話の順番待ちの行列に並ぶという生活に、初めは不満だらけでした。しかしそのような生活にもいつしか慣れ、仲良くなった友人たちとその日の出来事などを語り合いながら夕食をいただき、週末には皆で大騒ぎをしながら一緒に食事を作ったり、消灯時間の後に誰かの部屋にこっそりお菓子を持って集まり夜通しおしゃべりをするなど、どんどん楽しみが増え、あっという間に４年が過ぎてしまいました。大学を卒業して住むところが変わっても、学寮の友人たちとは時折長電話でお互いの消息を伝え合いながら、ずっと友人関係が続いてきました。そしていつしか私の中では親しい友人というと、学寮で生活を共にしてきた友人たちとなっていました。

　７年前に北海道胆振東部地震で札幌周辺が3日間停電となった時に、学寮での友人の一人が「情報が入らないだろうから」と電池式のラジオとたくさんの電池を送ってくれました。また、もう一人の友人は「コンビニに何も商品がない様子をテレビで見たから」とペットボトルのお水と食料品を送ってくれました。届いたのは電気が復旧した後でしたけれど、離れて住む友人たちの心遣いに本当に感激しました。家族ではないけれど、どんなに遠くにいても身近に感じられる存在、どんなに長い間会えずにいてもすぐに打ち解けることができる存在。私たちのこの関係はこの先もかわらずに続くはずです。

　そして先日の晴佐久神父様のお話を伺っているうちに、私と友人たちの間にも「一緒御飯」が存在したことに思い当たりました。食事に限らず、自分を飾らずに、相手の欠点もあるがままに受け入れながら一緒に楽しい時間を過ごすことができた、これが私たちの「一緒ご飯」であり、仲間としての強い絆の土台となったものだと確信できました。「自分をとりつくろったり、無理に恰好をつけながらではおいしく食事をいただくことはできない。疲れて果てて途中で嫌になってしまうはず・・」と、そんなことを考えていると両親の顔が目に浮かびました。あの時両親が何を根拠に「学寮での共同生活が将来良かったと思える日が来る」と言ったのか、今はもう聞くこともできなくなってしまいましたが、「ほら、言った通りだったでしょう」と得意げに微笑んでいるように思えました。

　家族を始め、人との関わりやご縁は不思議なものです。どんなに遠くにいても身近に感じられる存在、どんなに長い間会えずにいてもすぐに打ち解けることができる存在、そんな生涯の宝物となる仲間に出会えたことに、私は今、心から感謝しています。
皆さんが友達と何気なく過ごしている時間や、寄宿舎で一緒に食事をする時間も、将来の皆さんを支えるかけがえのない絆の土台になっているかもしれません。どうぞ今ある出会いと、これからのご縁を大切に過ごしてください。&#160;

H.S.（英語科）

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<dc:date>2026-06-03T21:20:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178178540924521200" class="cms-content-parts-sin178178540924528200">
<p>&#160;<span style="letter-spacing: 0.1em;">　私は今から40年ほど前に聖心女子大学に入学しました。その頃の私は「大学生になったら絶対に一人暮らしをしたい」と言い張っていました。けれど両親に「一人暮らしは社会人になってからでもできるのだから、学生のうちに共同生活を体験しなさい。将来必ず良かったと思えるはずだから」と説得され、しぶしぶながら学寮での大学生生活を始めることになりました。</span></p>
<div></div>
<div>　その当時の学寮は西寮と北寮に分かれ、１年生は全員西寮の4人部屋での生活でした。唯一のプライベート空間は寝るときにカーテンを閉めたベッドの上のみ。お風呂も皆で大浴場、電話をかける時にはありったけの10円玉を握りしめて公衆電話の順番待ちの行列に並ぶという生活に、初めは不満だらけでした。しかしそのような生活にもいつしか慣れ、仲良くなった友人たちとその日の出来事などを語り合いながら夕食をいただき、週末には皆で大騒ぎをしながら一緒に食事を作ったり、消灯時間の後に誰かの部屋にこっそりお菓子を持って集まり夜通しおしゃべりをするなど、どんどん楽しみが増え、あっという間に４年が過ぎてしまいました。大学を卒業して住むところが変わっても、学寮の友人たちとは時折長電話でお互いの消息を伝え合いながら、ずっと友人関係が続いてきました。そしていつしか私の中では親しい友人というと、学寮で生活を共にしてきた友人たちとなっていました。</div>
<div></div>
<div>　７年前に北海道胆振東部地震で札幌周辺が3日間停電となった時に、学寮での友人の一人が「情報が入らないだろうから」と電池式のラジオとたくさんの電池を送ってくれました。また、もう一人の友人は「コンビニに何も商品がない様子をテレビで見たから」とペットボトルのお水と食料品を送ってくれました。届いたのは電気が復旧した後でしたけれど、離れて住む友人たちの心遣いに本当に感激しました。家族ではないけれど、どんなに遠くにいても身近に感じられる存在、どんなに長い間会えずにいてもすぐに打ち解けることができる存在。私たちのこの関係はこの先もかわらずに続くはずです。</div>
<div></div>
<div>　そして先日の晴佐久神父様のお話を伺っているうちに、私と友人たちの間にも「一緒御飯」が存在したことに思い当たりました。食事に限らず、自分を飾らずに、相手の欠点もあるがままに受け入れながら一緒に楽しい時間を過ごすことができた、これが私たちの「一緒ご飯」であり、仲間としての強い絆の土台となったものだと確信できました。「自分をとりつくろったり、無理に恰好をつけながらではおいしく食事をいただくことはできない。疲れて果てて途中で嫌になってしまうはず・・」と、そんなことを考えていると両親の顔が目に浮かびました。あの時両親が何を根拠に「学寮での共同生活が将来良かったと思える日が来る」と言ったのか、今はもう聞くこともできなくなってしまいましたが、「ほら、言った通りだったでしょう」と得意げに微笑んでいるように思えました。</div>
<div></div>
<div>　家族を始め、人との関わりやご縁は不思議なものです。どんなに遠くにいても身近に感じられる存在、どんなに長い間会えずにいてもすぐに打ち解けることができる存在、そんな生涯の宝物となる仲間に出会えたことに、私は今、心から感謝しています。</div>
<div>皆さんが友達と何気なく過ごしている時間や、寄宿舎で一緒に食事をする時間も、将来の皆さんを支えるかけがえのない絆の土台になっているかもしれません。どうぞ今ある出会いと、これからのご縁を大切に過ごしてください。&#160;</div>
<div></div>
<div style="text-align: right;">H.S.（英語科）</div>
<div></div>
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</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96129/">
<title>2026年5月27日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96129/</link>
<description>&#160;　先日の体育大会では、限られた時間の中で精一杯準備や練習を行い、当日も様々な制約がある中で、全力を尽くした皆さんの姿に心を打たれ、たくさん元気をもらいました。皆さんを見ていて、「限界のある状況の中でも、知恵を使って工夫を凝らすことができます」「骨惜しみせず働くことができます」という「18歳のプロファイル」の言葉を思い浮かべました。 　この言葉を自分の生き方で示した人たちに、私は以前出会ったことがあります。今から15年前、2011年、東日本大震災があった年のことです。私は縁があって日本難民支援協会が主催する「難民と行く災害ボランティア」という企画に参加しました。この企画は、日本で生活している難民の方々が、自分たちを受け入れてくれた日本の人たちに恩返しをしたい、災害で避難している人々の役に立ちたい、という想いで実現したものです。私が参加した日程では、ミャンマーや中東出身の難民6名に日本のスタッフや学生ボランティア、留学生を含めた23人で岩手県陸前高田市に行き、清掃や炊き出しなどを行いました。最初は、被災地に行って自分にできることがあるのか、難民の方々とうまくコミュニケーションがとれるのか不安でしたが、実際に現地に行ってみると、仲間の行動力にたくさん助けられました。 　陸前高田で最初に行った活動は、津波の被害を受けた畑の清掃でしたが、いきなり問題が発生しました。畑の中にトラクターのような機械が埋まっていて、それを撤去しないと清掃ができない状態でした。色々と道具は持ってきたけど、埋まっているトラクターを掘り起こすなら重機が必要で、今日は諦めて帰るしかない、という結論になりかけた時、難民の方が「ここにあるもので動かせますよ」と言いました。よく見ると周囲には木材がたくさん落ちていました。ぬかるんだ地面に何本か木材を差してトラクターの下に入れて、みんなで木材をぐいっと押すと、トラクターが持ち上がり、撤去することができました。「てこの原理」は知識としては知っていましたが、ここでそれが使えるなんて思いつきませんでした。今までいかに机の上だけの勉強しかしてこなかったのかと反省しました。 　炊き出しのボランティアでは、難民の方の中に料理が得意な方がいて、避難所で生活をしている方々に料理を作ることになりました。キャンプ場の調理場を借りて調理を始めようとしたら、包丁が刃こぼれしたり錆びたりしてそのままでは使えませんでした。このときも最初は、諦めようかという雰囲気になりましたが、メンバーの一人が、砥石になる石を屋外で見つけてきてくれたので、無事に炊き出しを行うことができました。後で私たちも少し食べさせてもらいました。疲れがたまり、参加者の雰囲気が少し暗くなっていた中で、温かい料理のおかげで、みんなの顔に笑顔が戻りました。この料理を作ってくれた方は、本名も出身の国も明らかにできない方でした。難民の中には、政治的な理由で迫害を受け、避難先でも命の危険がある方がいます。そのため私たちは難民の方と写真を撮ったり、連絡先を交換したりすることが禁止されていました。そのような危険がある中でも、被災した人たちのために自分の力を役立てようとされた姿が心に残りました。 活動の最終日に、難民グループのリーダーの方からかけていただいた言葉は、今でも折に触れて思い出されます。「私たちは日本人を尊敬しているし、感謝もしている。でも君たちは学生だから、言っておきたいことがある。日本には立派な会社人はたくさんいるけど、本当の社会人は少ないように感じる。」 「会社人」と「社会人」のちがいは何だろう、今の自分自身の在り方はどちらなのだろう、この問いは私の中で今もずっと宿題になっています。 　今週末には聖マグダレナ・ソフィアの祝日があります。他者のために物惜しみせず尽くした創立者の精神に触れ、自分自身を見つめ、生き方を考える一日にしていきたいですね。 以上で宗教朝礼を終わります。 M.O.（社会科　地歴・公民科） </description>
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<dc:date>2026-05-27T21:15:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178178517589180600" class="cms-content-parts-sin178178517589194900"><p>&#160;　先日の体育大会では、限られた時間の中で精一杯準備や練習を行い、当日も様々な制約がある中で、全力を尽くした皆さんの姿に心を打たれ、たくさん元気をもらいました。皆さんを見ていて、「限界のある状況の中でも、知恵を使って工夫を凝らすことができます」「骨惜しみせず働くことができます」という「18歳のプロファイル」の言葉を思い浮かべました。</p> <div>　この言葉を自分の生き方で示した人たちに、私は以前出会ったことがあります。今から15年前、2011年、東日本大震災があった年のことです。私は縁があって日本難民支援協会が主催する「難民と行く災害ボランティア」という企画に参加しました。この企画は、日本で生活している難民の方々が、自分たちを受け入れてくれた日本の人たちに恩返しをしたい、災害で避難している人々の役に立ちたい、という想いで実現したものです。私が参加した日程では、ミャンマーや中東出身の難民6名に日本のスタッフや学生ボランティア、留学生を含めた23人で岩手県陸前高田市に行き、清掃や炊き出しなどを行いました。最初は、被災地に行って自分にできることがあるのか、難民の方々とうまくコミュニケーションがとれるのか不安でしたが、実際に現地に行ってみると、仲間の行動力にたくさん助けられました。</div> <div>　陸前高田で最初に行った活動は、津波の被害を受けた畑の清掃でしたが、いきなり問題が発生しました。畑の中にトラクターのような機械が埋まっていて、それを撤去しないと清掃ができない状態でした。色々と道具は持ってきたけど、埋まっているトラクターを掘り起こすなら重機が必要で、今日は諦めて帰るしかない、という結論になりかけた時、難民の方が「ここにあるもので動かせますよ」と言いました。よく見ると周囲には木材がたくさん落ちていました。ぬかるんだ地面に何本か木材を差してトラクターの下に入れて、みんなで木材をぐいっと押すと、トラクターが持ち上がり、撤去することができました。「てこの原理」は知識としては知っていましたが、ここでそれが使えるなんて思いつきませんでした。今までいかに机の上だけの勉強しかしてこなかったのかと反省しました。</div> <div>　炊き出しのボランティアでは、難民の方の中に料理が得意な方がいて、避難所で生活をしている方々に料理を作ることになりました。キャンプ場の調理場を借りて調理を始めようとしたら、包丁が刃こぼれしたり錆びたりしてそのままでは使えませんでした。このときも最初は、諦めようかという雰囲気になりましたが、メンバーの一人が、砥石になる石を屋外で見つけてきてくれたので、無事に炊き出しを行うことができました。後で私たちも少し食べさせてもらいました。疲れがたまり、参加者の雰囲気が少し暗くなっていた中で、温かい料理のおかげで、みんなの顔に笑顔が戻りました。この料理を作ってくれた方は、本名も出身の国も明らかにできない方でした。難民の中には、政治的な理由で迫害を受け、避難先でも命の危険がある方がいます。そのため私たちは難民の方と写真を撮ったり、連絡先を交換したりすることが禁止されていました。そのような危険がある中でも、被災した人たちのために自分の力を役立てようとされた姿が心に残りました。</div> <div>活動の最終日に、難民グループのリーダーの方からかけていただいた言葉は、今でも折に触れて思い出されます。「私たちは日本人を尊敬しているし、感謝もしている。でも君たちは学生だから、言っておきたいことがある。日本には立派な会社人はたくさんいるけど、本当の社会人は少ないように感じる。」</div> <div>「会社人」と「社会人」のちがいは何だろう、今の自分自身の在り方はどちらなのだろう、この問いは私の中で今もずっと宿題になっています。</div> <div>　今週末には聖マグダレナ・ソフィアの祝日があります。他者のために物惜しみせず尽くした創立者の精神に触れ、自分自身を見つめ、生き方を考える一日にしていきたいですね。<br /></div> <div>以上で宗教朝礼を終わります。</div> <div></div> <div><br />M.O.（社会科　地歴・公民科）</div> <div></div><p></p></div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96128/">
<title>2026年5月27日放送の宗教朝礼から</title>
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<description>&#160;　先日の体育大会では、限られた時間の中で精一杯準備や練習を行い、当日も様々な制約がある中で、全力を尽くした皆さんの姿に心を打たれ、たくさん元気をもらいました。皆さんを見ていて、「限界のある状況の中でも、知恵を使って工夫を凝らすことができます」「骨惜しみせず働くことができます」という「18歳のプロファイル」の言葉を思い浮かべました。
　この言葉を自分の生き方で示した人たちに、私は以前出会ったことがあります。今から15年前、2011年、東日本大震災があった年のことです。私は縁があって日本難民支援協会が主催する「難民と行く災害ボランティア」という企画に参加しました。この企画は、日本で生活している難民の方々が、自分たちを受け入れてくれた日本の人たちに恩返しをしたい、災害で避難している人々の役に立ちたい、という想いで実現したものです。私が参加した日程では、ミャンマーや中東出身の難民6名に日本のスタッフや学生ボランティア、留学生を含めた23人で岩手県陸前高田市に行き、清掃や炊き出しなどを行いました。最初は、被災地に行って自分にできることがあるのか、難民の方々とうまくコミュニケーションがとれるのか不安でしたが、実際に現地に行ってみると、仲間の行動力にたくさん助けられました。
　陸前高田で最初に行った活動は、津波の被害を受けた畑の清掃でしたが、いきなり問題が発生しました。畑の中にトラクターのような機械が埋まっていて、それを撤去しないと清掃ができない状態でした。色々と道具は持ってきたけど、埋まっているトラクターを掘り起こすなら重機が必要で、今日は諦めて帰るしかない、という結論になりかけた時、難民の方が「ここにあるもので動かせますよ」と言いました。よく見ると周囲には木材がたくさん落ちていました。ぬかるんだ地面に何本か木材を差してトラクターの下に入れて、みんなで木材をぐいっと押すと、トラクターが持ち上がり、撤去することができました。「てこの原理」は知識としては知っていましたが、ここでそれが使えるなんて思いつきませんでした。今までいかに机の上だけの勉強しかしてこなかったのかと反省しました。
　炊き出しのボランティアでは、難民の方の中に料理が得意な方がいて、避難所で生活をしている方々に料理を作ることになりました。キャンプ場の調理場を借りて調理を始めようとしたら、包丁が刃こぼれしたり錆びたりしてそのままでは使えませんでした。このときも最初は、諦めようかという雰囲気になりましたが、メンバーの一人が、砥石になる石を屋外で見つけてきてくれたので、無事に炊き出しを行うことができました。後で私たちも少し食べさせてもらいました。疲れがたまり、参加者の雰囲気が少し暗くなっていた中で、温かい料理のおかげで、みんなの顔に笑顔が戻りました。この料理を作ってくれた方は、本名も出身の国も明らかにできない方でした。難民の中には、政治的な理由で迫害を受け、避難先でも命の危険がある方がいます。そのため私たちは難民の方と写真を撮ったり、連絡先を交換したりすることが禁止されていました。そのような危険がある中でも、被災した人たちのために自分の力を役立てようとされた姿が心に残りました。
活動の最終日に、難民グループのリーダーの方からかけていただいた言葉は、今でも折に触れて思い出されます。「私たちは日本人を尊敬しているし、感謝もしている。でも君たちは学生だから、言っておきたいことがある。日本には立派な会社人はたくさんいるけど、本当の社会人は少ないように感じる。」
「会社人」と「社会人」のちがいは何だろう、今の自分自身の在り方はどちらなのだろう、この問いは私の中で今もずっと宿題になっています。
　今週末には聖マグダレナ・ソフィアの祝日があります。他者のために物惜しみせず尽くした創立者の精神に触れ、自分自身を見つめ、生き方を考える一日にしていきたいですね。
以上で宗教朝礼を終わります。

M.O.（社会科　地歴・公民科）
</description>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178178517396679000" class="cms-content-parts-sin178178517396687000"><p>&#160;　先日の体育大会では、限られた時間の中で精一杯準備や練習を行い、当日も様々な制約がある中で、全力を尽くした皆さんの姿に心を打たれ、たくさん元気をもらいました。皆さんを見ていて、「限界のある状況の中でも、知恵を使って工夫を凝らすことができます」「骨惜しみせず働くことができます」という「18歳のプロファイル」の言葉を思い浮かべました。</p>
<div>　この言葉を自分の生き方で示した人たちに、私は以前出会ったことがあります。今から15年前、2011年、東日本大震災があった年のことです。私は縁があって日本難民支援協会が主催する「難民と行く災害ボランティア」という企画に参加しました。この企画は、日本で生活している難民の方々が、自分たちを受け入れてくれた日本の人たちに恩返しをしたい、災害で避難している人々の役に立ちたい、という想いで実現したものです。私が参加した日程では、ミャンマーや中東出身の難民6名に日本のスタッフや学生ボランティア、留学生を含めた23人で岩手県陸前高田市に行き、清掃や炊き出しなどを行いました。最初は、被災地に行って自分にできることがあるのか、難民の方々とうまくコミュニケーションがとれるのか不安でしたが、実際に現地に行ってみると、仲間の行動力にたくさん助けられました。</div>
<div>　陸前高田で最初に行った活動は、津波の被害を受けた畑の清掃でしたが、いきなり問題が発生しました。畑の中にトラクターのような機械が埋まっていて、それを撤去しないと清掃ができない状態でした。色々と道具は持ってきたけど、埋まっているトラクターを掘り起こすなら重機が必要で、今日は諦めて帰るしかない、という結論になりかけた時、難民の方が「ここにあるもので動かせますよ」と言いました。よく見ると周囲には木材がたくさん落ちていました。ぬかるんだ地面に何本か木材を差してトラクターの下に入れて、みんなで木材をぐいっと押すと、トラクターが持ち上がり、撤去することができました。「てこの原理」は知識としては知っていましたが、ここでそれが使えるなんて思いつきませんでした。今までいかに机の上だけの勉強しかしてこなかったのかと反省しました。</div>
<div>　炊き出しのボランティアでは、難民の方の中に料理が得意な方がいて、避難所で生活をしている方々に料理を作ることになりました。キャンプ場の調理場を借りて調理を始めようとしたら、包丁が刃こぼれしたり錆びたりしてそのままでは使えませんでした。このときも最初は、諦めようかという雰囲気になりましたが、メンバーの一人が、砥石になる石を屋外で見つけてきてくれたので、無事に炊き出しを行うことができました。後で私たちも少し食べさせてもらいました。疲れがたまり、参加者の雰囲気が少し暗くなっていた中で、温かい料理のおかげで、みんなの顔に笑顔が戻りました。この料理を作ってくれた方は、本名も出身の国も明らかにできない方でした。難民の中には、政治的な理由で迫害を受け、避難先でも命の危険がある方がいます。そのため私たちは難民の方と写真を撮ったり、連絡先を交換したりすることが禁止されていました。そのような危険がある中でも、被災した人たちのために自分の力を役立てようとされた姿が心に残りました。</div>
<div>活動の最終日に、難民グループのリーダーの方からかけていただいた言葉は、今でも折に触れて思い出されます。「私たちは日本人を尊敬しているし、感謝もしている。でも君たちは学生だから、言っておきたいことがある。日本には立派な会社人はたくさんいるけど、本当の社会人は少ないように感じる。」</div>
<div>「会社人」と「社会人」のちがいは何だろう、今の自分自身の在り方はどちらなのだろう、この問いは私の中で今もずっと宿題になっています。</div>
<div>　今週末には聖マグダレナ・ソフィアの祝日があります。他者のために物惜しみせず尽くした創立者の精神に触れ、自分自身を見つめ、生き方を考える一日にしていきたいですね。</div>
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<div>M.O.（社会科　地歴・公民科）</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96127/">
<title>2026年5月27日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96127/</link>
<description>&#160;　先日の体育大会では、限られた時間の中で精一杯準備や練習を行い、当日も様々な制約がある中で、全力を尽くした皆さんの姿に心を打たれ、たくさん元気をもらいました。皆さんを見ていて、「限界のある状況の中でも、知恵を使って工夫を凝らすことができます」「骨惜しみせず働くことができます」という「18歳のプロファイル」の言葉を思い浮かべました。
　この言葉を自分の生き方で示した人たちに、私は以前出会ったことがあります。今から15年前、2011年、東日本大震災があった年のことです。私は縁があって日本難民支援協会が主催する「難民と行く災害ボランティア」という企画に参加しました。この企画は、日本で生活している難民の方々が、自分たちを受け入れてくれた日本の人たちに恩返しをしたい、災害で避難している人々の役に立ちたい、という想いで実現したものです。私が参加した日程では、ミャンマーや中東出身の難民6名に日本のスタッフや学生ボランティア、留学生を含めた23人で岩手県陸前高田市に行き、清掃や炊き出しなどを行いました。最初は、被災地に行って自分にできることがあるのか、難民の方々とうまくコミュニケーションがとれるのか不安でしたが、実際に現地に行ってみると、仲間の行動力にたくさん助けられました。
　陸前高田で最初に行った活動は、津波の被害を受けた畑の清掃でしたが、いきなり問題が発生しました。畑の中にトラクターのような機械が埋まっていて、それを撤去しないと清掃ができない状態でした。色々と道具は持ってきたけど、埋まっているトラクターを掘り起こすなら重機が必要で、今日は諦めて帰るしかない、という結論になりかけた時、難民の方が「ここにあるもので動かせますよ」と言いました。よく見ると周囲には木材がたくさん落ちていました。ぬかるんだ地面に何本か木材を差してトラクターの下に入れて、みんなで木材をぐいっと押すと、トラクターが持ち上がり、撤去することができました。「てこの原理」は知識としては知っていましたが、ここでそれが使えるなんて思いつきませんでした。今までいかに机の上だけの勉強しかしてこなかったのかと反省しました。
　炊き出しのボランティアでは、難民の方の中に料理が得意な方がいて、避難所で生活をしている方々に料理を作ることになりました。キャンプ場の調理場を借りて調理を始めようとしたら、包丁が刃こぼれしたり錆びたりしてそのままでは使えませんでした。このときも最初は、諦めようかという雰囲気になりましたが、メンバーの一人が、砥石になる石を屋外で見つけてきてくれたので、無事に炊き出しを行うことができました。後で私たちも少し食べさせてもらいました。疲れがたまり、参加者の雰囲気が少し暗くなっていた中で、温かい料理のおかげで、みんなの顔に笑顔が戻りました。この料理を作ってくれた方は、本名も出身の国も明らかにできない方でした。難民の中には、政治的な理由で迫害を受け、避難先でも命の危険がある方がいます。そのため私たちは難民の方と写真を撮ったり、連絡先を交換したりすることが禁止されていました。そのような危険がある中でも、被災した人たちのために自分の力を役立てようとされた姿が心に残りました。
活動の最終日に、難民グループのリーダーの方からかけていただいた言葉は、今でも折に触れて思い出されます。「私たちは日本人を尊敬しているし、感謝もしている。でも君たちは学生だから、言っておきたいことがある。日本には立派な会社人はたくさんいるけど、本当の社会人は少ないように感じる。」
「会社人」と「社会人」のちがいは何だろう、今の自分自身の在り方はどちらなのだろう、この問いは私の中で今もずっと宿題になっています。
　今週末には聖マグダレナ・ソフィアの祝日があります。他者のために物惜しみせず尽くした創立者の精神に触れ、自分自身を見つめ、生き方を考える一日にしていきたいですね。
以上で宗教朝礼を終わります。

M.O.（社会科　地歴・公民科）
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-05-27T21:15:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178178517377579200" class="cms-content-parts-sin178178517377587300"><p>&#160;　先日の体育大会では、限られた時間の中で精一杯準備や練習を行い、当日も様々な制約がある中で、全力を尽くした皆さんの姿に心を打たれ、たくさん元気をもらいました。皆さんを見ていて、「限界のある状況の中でも、知恵を使って工夫を凝らすことができます」「骨惜しみせず働くことができます」という「18歳のプロファイル」の言葉を思い浮かべました。</p>
<div>　この言葉を自分の生き方で示した人たちに、私は以前出会ったことがあります。今から15年前、2011年、東日本大震災があった年のことです。私は縁があって日本難民支援協会が主催する「難民と行く災害ボランティア」という企画に参加しました。この企画は、日本で生活している難民の方々が、自分たちを受け入れてくれた日本の人たちに恩返しをしたい、災害で避難している人々の役に立ちたい、という想いで実現したものです。私が参加した日程では、ミャンマーや中東出身の難民6名に日本のスタッフや学生ボランティア、留学生を含めた23人で岩手県陸前高田市に行き、清掃や炊き出しなどを行いました。最初は、被災地に行って自分にできることがあるのか、難民の方々とうまくコミュニケーションがとれるのか不安でしたが、実際に現地に行ってみると、仲間の行動力にたくさん助けられました。</div>
<div>　陸前高田で最初に行った活動は、津波の被害を受けた畑の清掃でしたが、いきなり問題が発生しました。畑の中にトラクターのような機械が埋まっていて、それを撤去しないと清掃ができない状態でした。色々と道具は持ってきたけど、埋まっているトラクターを掘り起こすなら重機が必要で、今日は諦めて帰るしかない、という結論になりかけた時、難民の方が「ここにあるもので動かせますよ」と言いました。よく見ると周囲には木材がたくさん落ちていました。ぬかるんだ地面に何本か木材を差してトラクターの下に入れて、みんなで木材をぐいっと押すと、トラクターが持ち上がり、撤去することができました。「てこの原理」は知識としては知っていましたが、ここでそれが使えるなんて思いつきませんでした。今までいかに机の上だけの勉強しかしてこなかったのかと反省しました。</div>
<div>　炊き出しのボランティアでは、難民の方の中に料理が得意な方がいて、避難所で生活をしている方々に料理を作ることになりました。キャンプ場の調理場を借りて調理を始めようとしたら、包丁が刃こぼれしたり錆びたりしてそのままでは使えませんでした。このときも最初は、諦めようかという雰囲気になりましたが、メンバーの一人が、砥石になる石を屋外で見つけてきてくれたので、無事に炊き出しを行うことができました。後で私たちも少し食べさせてもらいました。疲れがたまり、参加者の雰囲気が少し暗くなっていた中で、温かい料理のおかげで、みんなの顔に笑顔が戻りました。この料理を作ってくれた方は、本名も出身の国も明らかにできない方でした。難民の中には、政治的な理由で迫害を受け、避難先でも命の危険がある方がいます。そのため私たちは難民の方と写真を撮ったり、連絡先を交換したりすることが禁止されていました。そのような危険がある中でも、被災した人たちのために自分の力を役立てようとされた姿が心に残りました。</div>
<div>活動の最終日に、難民グループのリーダーの方からかけていただいた言葉は、今でも折に触れて思い出されます。「私たちは日本人を尊敬しているし、感謝もしている。でも君たちは学生だから、言っておきたいことがある。日本には立派な会社人はたくさんいるけど、本当の社会人は少ないように感じる。」</div>
<div>「会社人」と「社会人」のちがいは何だろう、今の自分自身の在り方はどちらなのだろう、この問いは私の中で今もずっと宿題になっています。</div>
<div>　今週末には聖マグダレナ・ソフィアの祝日があります。他者のために物惜しみせず尽くした創立者の精神に触れ、自分自身を見つめ、生き方を考える一日にしていきたいですね。</div>
<div>以上で宗教朝礼を終わります。</div>
<div></div>
<div>M.O.（社会科　地歴・公民科）</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96120/">
<title>2026年5月20日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96120/</link>
<description>
　今週金曜日はいよいよ体育大会ですね。各学年の団結・各色の勝利に向けて全力で練習をしている真っ只中で、色々悩みや疲れも溜まっていると思います。この数分は少しでも心を落ち着かせることができるよう、暗い話にはなってしまうのですが、頑張る勇気・人を思いやる心を少しでも養うことができいれば幸いです。&#160;

　　僕が高校１年生の時の12/24クリスマスイヴに、大切な友人の1人が天国へと旅立ちました。そのことを知ったのは命日の2日後。彼は友人の間ではいわゆるいじられキャラ的な面があったので、最初は誰かの趣味の悪いいたずらだと信じることが出来ませんでした。しかし徐々にそれが真実であることを理解したとき、悲しみよりも先に「なんでだろう」という疑念で頭がいっぱいでした。この前まで普通にみんなと話していて、亡くなる３日前も元気に部活に励んでいる姿を見たばかりなのに、と。葬儀は密葬で行われたため、彼の最後の顔を拝むことも出来ず、今でも彼がなぜ自ら命を絶ったかは分かりません。

　その後悲しみからも立ち直り、同級生のみんなも前を向いて各々の道を歩んでいますが、今でもふとした時に僕は彼のことを思い出します。仮に今彼が生きていたとして、関わりが全くない可能性も十分あり得ますが、そのような別れ方をしてしまったので、これからも僕は彼のことを忘れることは決してないでしょう。&#160;

　少し前ですが、色々なことが重なってしまい、生きることに希望を見出せない時期が自分にはありました。自分で命を捨てようとは思わないけど、寝たまま目覚めなければ良いのに、交通事故にあってそのまま&#8230;と、とことん追い詰められていました。今ではもう回復しましたが、その時に初めて彼の気持ちが少し理解できた気がしました。もう色々限界で何もかもがどうでも良くもなってしまった。もし彼がその時の僕よりも苦しい状況にいたとしたら、正直僕には彼を引き留められる自信がありません。

　人間は恐らく、同じような立場にならないと、本当の他者の気持ちは分からないのだろうなと学びました。そんな僕から１つ皆さんに言えることは「これからの人生、色々なことを経験して欲しい」ということです。もちろん悲しい経験をするべきとは思いませんが、人生経験が豊富な人の言葉には、年齢関係なく重みがあるなと感じます。

　女優兼タレントの芦田愛菜さんは17歳の時のインタビューでこんな発言をされていました。

「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切った訳ではなく、その人の見えなかった部分が見えただけで、その時にそれもその人なんだと受け止められる揺るがない自分がいることが、信じることだと思いました。」

　僕としては子役のイメージが未だに強い彼女ですが、この歳でこんなに達観した見方ができるのかととても驚きました。これも芸能界という競争の激しい環境で育ってきた、彼女だからこその言葉だと感じています。

　みなさんにもこの学院生活の中で、沢山の知識・経験を経て、困っている人に手を差し伸べられる・寄り添おうとすることができる人になって欲しいです。みなさんの人生に沢山の幸がありますように。これで宗教朝礼を終わります。

K.M.（数学科）


</description>
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<dc:date>2026-05-20T08:40:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin177876236891856800" class="cms-content-parts-sin177876236891871300">
<div>　今週金曜日はいよいよ体育大会ですね。各学年の団結・各色の勝利に向けて全力で練習をしている真っ只中で、色々悩みや疲れも溜まっていると思います。この数分は少しでも心を落ち着かせることができるよう、暗い話にはなってしまうのですが、頑張る勇気・人を思いやる心を少しでも養うことができいれば幸いです。&#160;</div>
<div></div>
<div>　　僕が高校１年生の時の12/24クリスマスイヴに、大切な友人の1人が天国へと旅立ちました。そのことを知ったのは命日の2日後。彼は友人の間ではいわゆるいじられキャラ的な面があったので、最初は誰かの趣味の悪いいたずらだと信じることが出来ませんでした。しかし徐々にそれが真実であることを理解したとき、悲しみよりも先に「なんでだろう」という疑念で頭がいっぱいでした。この前まで普通にみんなと話していて、亡くなる３日前も元気に部活に励んでいる姿を見たばかりなのに、と。葬儀は密葬で行われたため、彼の最後の顔を拝むことも出来ず、今でも彼がなぜ自ら命を絶ったかは分かりません。</div>
<div></div>
<div>　その後悲しみからも立ち直り、同級生のみんなも前を向いて各々の道を歩んでいますが、今でもふとした時に僕は彼のことを思い出します。仮に今彼が生きていたとして、関わりが全くない可能性も十分あり得ますが、そのような別れ方をしてしまったので、これからも僕は彼のことを忘れることは決してないでしょう。&#160;</div>
<div></div>
<div>　少し前ですが、色々なことが重なってしまい、生きることに希望を見出せない時期が自分にはありました。自分で命を捨てようとは思わないけど、寝たまま目覚めなければ良いのに、交通事故にあってそのまま&#8230;と、とことん追い詰められていました。今ではもう回復しましたが、その時に初めて彼の気持ちが少し理解できた気がしました。もう色々限界で何もかもがどうでも良くもなってしまった。もし彼がその時の僕よりも苦しい状況にいたとしたら、正直僕には彼を引き留められる自信がありません。</div>
<div></div>
<div>　人間は恐らく、同じような立場にならないと、本当の他者の気持ちは分からないのだろうなと学びました。そんな僕から１つ皆さんに言えることは「これからの人生、色々なことを経験して欲しい」ということです。もちろん悲しい経験をするべきとは思いませんが、人生経験が豊富な人の言葉には、年齢関係なく重みがあるなと感じます。</div>
<div></div>
<div>　女優兼タレントの芦田愛菜さんは17歳の時のインタビューでこんな発言をされていました。</div>
<div></div>
<div>「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切った訳ではなく、その人の見えなかった部分が見えただけで、その時にそれもその人なんだと受け止められる揺るがない自分がいることが、信じることだと思いました。」</div>
<div></div>
<div>　僕としては子役のイメージが未だに強い彼女ですが、この歳でこんなに達観した見方ができるのかととても驚きました。これも芸能界という競争の激しい環境で育ってきた、彼女だからこその言葉だと感じています。</div>
<div></div>
<div>　みなさんにもこの学院生活の中で、沢山の知識・経験を経て、困っている人に手を差し伸べられる・寄り添おうとすることができる人になって欲しいです。みなさんの人生に沢山の幸がありますように。これで宗教朝礼を終わります。</div>
<div></div>
<div style="text-align: right;">K.M.（数学科）</div>
<p></p>
<p dir="ltr" style="color: rgb(0, 0, 0); font-family: Helvetica, Arial, &#34;ヒラギノ角ゴ Pro&#34;, &#34;Hiragino Kaku Gothic Pro&#34;, メイリオ, Meiryo, &#34;ＭＳ Ｐゴシック&#34;, &#34;MS PGothic&#34;, sans-serif; font-size: medium; letter-spacing: normal; line-height: 1.38; text-align: right; margin-top: 0pt; margin-bottom: 0pt;"></p>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96121/">
<title>2026年5月20日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96121/</link>
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　今週金曜日はいよいよ体育大会ですね。各学年の団結・各色の勝利に向けて全力で練習をしている真っ只中で、色々悩みや疲れも溜まっていると思います。この数分は少しでも心を落ち着かせることができるよう、暗い話にはなってしまうのですが、頑張る勇気・人を思いやる心を少しでも養うことができいれば幸いです。&#160;

　　僕が高校１年生の時の12/24クリスマスイヴに、大切な友人の1人が天国へと旅立ちました。そのことを知ったのは命日の2日後。彼は友人の間ではいわゆるいじられキャラ的な面があったので、最初は誰かの趣味の悪いいたずらだと信じることが出来ませんでした。しかし徐々にそれが真実であることを理解したとき、悲しみよりも先に「なんでだろう」という疑念で頭がいっぱいでした。この前まで普通にみんなと話していて、亡くなる３日前も元気に部活に励んでいる姿を見たばかりなのに、と。葬儀は密葬で行われたため、彼の最後の顔を拝むことも出来ず、今でも彼がなぜ自ら命を絶ったかは分かりません。

　その後悲しみからも立ち直り、同級生のみんなも前を向いて各々の道を歩んでいますが、今でもふとした時に僕は彼のことを思い出します。仮に今彼が生きていたとして、関わりが全くない可能性も十分あり得ますが、そのような別れ方をしてしまったので、これからも僕は彼のことを忘れることは決してないでしょう。&#160;

　少し前ですが、色々なことが重なってしまい、生きることに希望を見出せない時期が自分にはありました。自分で命を捨てようとは思わないけど、寝たまま目覚めなければ良いのに、交通事故にあってそのまま&#8230;と、とことん追い詰められていました。今ではもう回復しましたが、その時に初めて彼の気持ちが少し理解できた気がしました。もう色々限界で何もかもがどうでも良くもなってしまった。もし彼がその時の僕よりも苦しい状況にいたとしたら、正直僕には彼を引き留められる自信がありません。

　人間は恐らく、同じような立場にならないと、本当の他者の気持ちは分からないのだろうなと学びました。そんな僕から１つ皆さんに言えることは「これからの人生、色々なことを経験して欲しい」ということです。もちろん悲しい経験をするべきとは思いませんが、人生経験が豊富な人の言葉には、年齢関係なく重みがあるなと感じます。

　女優兼タレントの芦田愛菜さんは17歳の時のインタビューでこんな発言をされていました。

「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切った訳ではなく、その人の見えなかった部分が見えただけで、その時にそれもその人なんだと受け止められる揺るがない自分がいることが、信じることだと思いました。」

　僕としては子役のイメージが未だに強い彼女ですが、この歳でこんなに達観した見方ができるのかととても驚きました。これも芸能界という競争の激しい環境で育ってきた、彼女だからこその言葉だと感じています。

　みなさんにもこの学院生活の中で、沢山の知識・経験を経て、困っている人に手を差し伸べられる・寄り添おうとすることができる人になって欲しいです。みなさんの人生に沢山の幸がありますように。これで宗教朝礼を終わります。

K.M.（数学科）


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<dc:date>2026-05-20T08:35:00+09:00</dc:date>
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<div>　今週金曜日はいよいよ体育大会ですね。各学年の団結・各色の勝利に向けて全力で練習をしている真っ只中で、色々悩みや疲れも溜まっていると思います。この数分は少しでも心を落ち着かせることができるよう、暗い話にはなってしまうのですが、頑張る勇気・人を思いやる心を少しでも養うことができいれば幸いです。&#160;</div>
<div></div>
<div>　　僕が高校１年生の時の12/24クリスマスイヴに、大切な友人の1人が天国へと旅立ちました。そのことを知ったのは命日の2日後。彼は友人の間ではいわゆるいじられキャラ的な面があったので、最初は誰かの趣味の悪いいたずらだと信じることが出来ませんでした。しかし徐々にそれが真実であることを理解したとき、悲しみよりも先に「なんでだろう」という疑念で頭がいっぱいでした。この前まで普通にみんなと話していて、亡くなる３日前も元気に部活に励んでいる姿を見たばかりなのに、と。葬儀は密葬で行われたため、彼の最後の顔を拝むことも出来ず、今でも彼がなぜ自ら命を絶ったかは分かりません。</div>
<div></div>
<div>　その後悲しみからも立ち直り、同級生のみんなも前を向いて各々の道を歩んでいますが、今でもふとした時に僕は彼のことを思い出します。仮に今彼が生きていたとして、関わりが全くない可能性も十分あり得ますが、そのような別れ方をしてしまったので、これからも僕は彼のことを忘れることは決してないでしょう。&#160;</div>
<div></div>
<div>　少し前ですが、色々なことが重なってしまい、生きることに希望を見出せない時期が自分にはありました。自分で命を捨てようとは思わないけど、寝たまま目覚めなければ良いのに、交通事故にあってそのまま&#8230;と、とことん追い詰められていました。今ではもう回復しましたが、その時に初めて彼の気持ちが少し理解できた気がしました。もう色々限界で何もかもがどうでも良くもなってしまった。もし彼がその時の僕よりも苦しい状況にいたとしたら、正直僕には彼を引き留められる自信がありません。</div>
<div></div>
<div>　人間は恐らく、同じような立場にならないと、本当の他者の気持ちは分からないのだろうなと学びました。そんな僕から１つ皆さんに言えることは「これからの人生、色々なことを経験して欲しい」ということです。もちろん悲しい経験をするべきとは思いませんが、人生経験が豊富な人の言葉には、年齢関係なく重みがあるなと感じます。</div>
<div></div>
<div>　女優兼タレントの芦田愛菜さんは17歳の時のインタビューでこんな発言をされていました。</div>
<div></div>
<div>「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切った訳ではなく、その人の見えなかった部分が見えただけで、その時にそれもその人なんだと受け止められる揺るがない自分がいることが、信じることだと思いました。」</div>
<div></div>
<div>　僕としては子役のイメージが未だに強い彼女ですが、この歳でこんなに達観した見方ができるのかととても驚きました。これも芸能界という競争の激しい環境で育ってきた、彼女だからこその言葉だと感じています。</div>
<div></div>
<div>　みなさんにもこの学院生活の中で、沢山の知識・経験を経て、困っている人に手を差し伸べられる・寄り添おうとすることができる人になって欲しいです。みなさんの人生に沢山の幸がありますように。これで宗教朝礼を終わります。</div>
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<div style="text-align: right;">K.M.（数学科）</div>
<p></p>
<p dir="ltr" style="color: rgb(0, 0, 0); font-family: Helvetica, Arial, &#34;ヒラギノ角ゴ Pro&#34;, &#34;Hiragino Kaku Gothic Pro&#34;, メイリオ, Meiryo, &#34;ＭＳ Ｐゴシック&#34;, &#34;MS PGothic&#34;, sans-serif; font-size: medium; letter-spacing: normal; line-height: 1.38; text-align: right; margin-top: 0pt; margin-bottom: 0pt;"></p>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96118/">
<title>2026年5月13日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96118/</link>
<description>
&#160;おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。

いきいきとした緑の中に、夏の気配を感じる季節になりました。
体育大会に向けて、準備や練習に協力して取り組むみなさんの姿が、多く見られます。
良い体育大会となるよう、心からお祈りしています。

さて、カトリック教会では、5月を「聖母月」と呼びます。
この前の日曜日は母の日、そして明日の朝礼では「マリア様の祈り」が行われます。
主の復活の喜びと希望に満ちたこの5月は、神の母である聖母マリアを讃え、お祈りする月です。
私にとって5月は、なんとなく心が落ち着き、どんな自分でありたいかを考えたり、身近な大切な人たちに感謝を伝えたくなる月です。

「大切な人」と聞いて、みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか。
家族や友人、上級生・下級生、心の支えになっている存在&#8230;
それぞれに、大切な人がいるのではないでしょうか。

私には、今でも心に残っている後悔があります。
それは、数年前、家族で飼っていたワンちゃんのことです。
家に帰ると、しっぽを取れそうなくらい振って、「おかえり〜」と迎えてくれる。
誰かがつらいときには、静かにそっと、そばにいてくれる。
そんな日常が、私たち家族にとって、当たり前の光景でした。
ですが、ある日突然、その日常は終わりを迎えました。

家に帰ったとき、立ち止まって、荷物を置いて、ゆっくり抱きしめればよかった。
最後にかけた言葉は何だっただろう。最後に「大好きだよ」と伝えたのは、いつだっただろう。
次々と後悔が溢れ、涙が止まらない日々を過ごしていました。
そんな時、同じように深い悲しみの中にいる母が、命があるうちにしかできない大切なことを、私に語ってくれました。

私たちは、さまざまな人や命と関わりながら生活しています。
けれど、その存在が近ければ近いほど、感謝の気持ちはどこか照れ臭くて、「言わなくても分かるだろう」と思ってしまったり、それなのに、感情的なことはつい口にしてしまったり&#8230;
そんな経験が、誰にでもあるのではないでしょうか。

挨拶や「ありがとう」
これらはどれも小さな言葉ですが、確かな言葉のプレゼントであり、その一言が相手の心をあたためます。

私は、みなさんと交わす挨拶が大好きです。
私はクラスでのお祈りの後、少し間を置いて、しっかりみんなの方を向いて、大きな声と笑顔で挨拶をすることを意識しています。
「おはようございます。」のときには、
「今日もみんなに会えて嬉しいよ。頑張ろうね。」という気持ちを。
「さようなら」のときには、
「今日もありがとう。どうか明日も、みんなが元気に登校してきてくれますように。」
という気持ちを込めています。
きっと、今みなさんの近くにいる先生方も、同じ気持ちだと思います。

「また明日ね」と言い合えることの尊さも、当たり前のようで、決して当たり前ではありません。
少し考えすぎかもしれませんが、明日もこうして教室に集まれる保証はどこにもありません。
もしかしたら、人によっては少し憂鬱に感じてしまう学校生活も、いつか、恋しくてたまらなくなる日が来るかもしれません。
私たちは、目の前にある現状に不満を感じてしまいがちです。
でも、それを失って初めて気づくものが、たくさんあります。

ここで、一冊の絵本を紹介します。
ハンス・ウィルヘルムの「ずーっと　ずっと　だいすきだよ」というお話です。
この物語には、エルフィーという犬と、男の子が登場します。
二人は毎日一緒に過ごし、家族みんなに愛されていました。
けれど、家族はエルフィーのことが大好きでも、その気持ちを言葉にすることはあまりありませんでした。そんな中、男の子だけは毎晩、こう伝えていました。
「エルフィー、ずーっと、ずっと、だいすきだよ」と。
やがてエルフィーは亡くなり、家族は大きな悲しみに包まれます。
でも男の子は、少しだけ違いました。毎日、「大好きだよ」と伝えていたからです。
私はこのお話を読んだとき、自分の経験と重なり、胸がぎゅっと締め付けられました。

もし、大切な人に明日会えなくなるとしたら、今日どんな言葉をかけたいですか。

言葉は形には残りません。でも、その温もりは必ず、相手の心の中に残り続けます。
マリア様が、静かな愛でイエス様を見守り続けたように、私たちも、身近な人に感謝の気持ちを言葉にして届ける意識と勇気を持てたらと思います。

みなさんが今日も一日、誰かと心を通わせながら楽しく過ごせることを願っています。
これで、宗教朝礼を終わります。

H.S.（芸術科）

</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2026-05-13T14:40:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin177865110723076100" class="cms-content-parts-sin177865110723084000">
<p>&#160;おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。</p>
<div></div>
<div>いきいきとした緑の中に、夏の気配を感じる季節になりました。</div>
<div>体育大会に向けて、準備や練習に協力して取り組むみなさんの姿が、多く見られます。</div>
<div>良い体育大会となるよう、心からお祈りしています。</div>
<div></div>
<div>さて、カトリック教会では、5月を「聖母月」と呼びます。</div>
<div>この前の日曜日は母の日、そして明日の朝礼では「マリア様の祈り」が行われます。</div>
<div>主の復活の喜びと希望に満ちたこの5月は、神の母である聖母マリアを讃え、お祈りする月です。</div>
<div>私にとって5月は、なんとなく心が落ち着き、どんな自分でありたいかを考えたり、身近な大切な人たちに感謝を伝えたくなる月です。</div>
<div></div>
<div>「大切な人」と聞いて、みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか。</div>
<div>家族や友人、上級生・下級生、心の支えになっている存在&#8230;</div>
<div>それぞれに、大切な人がいるのではないでしょうか。</div>
<div></div>
<div>私には、今でも心に残っている後悔があります。</div>
<div>それは、数年前、家族で飼っていたワンちゃんのことです。</div>
<div>家に帰ると、しっぽを取れそうなくらい振って、「おかえり〜」と迎えてくれる。</div>
<div>誰かがつらいときには、静かにそっと、そばにいてくれる。</div>
<div>そんな日常が、私たち家族にとって、当たり前の光景でした。</div>
<div>ですが、ある日突然、その日常は終わりを迎えました。</div>
<div></div>
<div>家に帰ったとき、立ち止まって、荷物を置いて、ゆっくり抱きしめればよかった。</div>
<div>最後にかけた言葉は何だっただろう。最後に「大好きだよ」と伝えたのは、いつだっただろう。</div>
<div>次々と後悔が溢れ、涙が止まらない日々を過ごしていました。</div>
<div>そんな時、同じように深い悲しみの中にいる母が、命があるうちにしかできない大切なことを、私に語ってくれました。</div>
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<div>私たちは、さまざまな人や命と関わりながら生活しています。</div>
<div>けれど、その存在が近ければ近いほど、感謝の気持ちはどこか照れ臭くて、「言わなくても分かるだろう」と思ってしまったり、それなのに、感情的なことはつい口にしてしまったり&#8230;</div>
<div>そんな経験が、誰にでもあるのではないでしょうか。</div>
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<div>挨拶や「ありがとう」</div>
<div>これらはどれも小さな言葉ですが、確かな言葉のプレゼントであり、その一言が相手の心をあたためます。</div>
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<div>私はクラスでのお祈りの後、少し間を置いて、しっかりみんなの方を向いて、大きな声と笑顔で挨拶をすることを意識しています。</div>
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<div></div>
<div>「また明日ね」と言い合えることの尊さも、当たり前のようで、決して当たり前ではありません。</div>
<div>少し考えすぎかもしれませんが、明日もこうして教室に集まれる保証はどこにもありません。</div>
<div>もしかしたら、人によっては少し憂鬱に感じてしまう学校生活も、いつか、恋しくてたまらなくなる日が来るかもしれません。</div>
<div>私たちは、目の前にある現状に不満を感じてしまいがちです。</div>
<div>でも、それを失って初めて気づくものが、たくさんあります。</div>
<div></div>
<div>ここで、一冊の絵本を紹介します。</div>
<div>ハンス・ウィルヘルムの「ずーっと　ずっと　だいすきだよ」というお話です。</div>
<div>この物語には、エルフィーという犬と、男の子が登場します。</div>
<div>二人は毎日一緒に過ごし、家族みんなに愛されていました。</div>
<div>けれど、家族はエルフィーのことが大好きでも、その気持ちを言葉にすることはあまりありませんでした。そんな中、男の子だけは毎晩、こう伝えていました。</div>
<div>「エルフィー、ずーっと、ずっと、だいすきだよ」と。</div>
<div>やがてエルフィーは亡くなり、家族は大きな悲しみに包まれます。</div>
<div>でも男の子は、少しだけ違いました。毎日、「大好きだよ」と伝えていたからです。</div>
<div>私はこのお話を読んだとき、自分の経験と重なり、胸がぎゅっと締め付けられました。</div>
<div></div>
<div>もし、大切な人に明日会えなくなるとしたら、今日どんな言葉をかけたいですか。</div>
<div></div>
<div>言葉は形には残りません。でも、その温もりは必ず、相手の心の中に残り続けます。</div>
<div>マリア様が、静かな愛でイエス様を見守り続けたように、私たちも、身近な人に感謝の気持ちを言葉にして届ける意識と勇気を持てたらと思います。</div>
<div></div>
<div>みなさんが今日も一日、誰かと心を通わせながら楽しく過ごせることを願っています。</div>
<div>これで、宗教朝礼を終わります。</div>
<div></div>
<div>H.S.（芸術科）</div>
<div></div>
</div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96113/">
<title>2026年4月22日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96113/</link>
<description>&#160;私は昨年、25年ぶりに裾野に来ました。　今、不二聖心の学校生活を垣間見ながらなんと幸せな生徒たちだろうと、現場にいたときにはそこまで見えなかったことがよく見えるようになりました。　
なにがそんなに幸せなのかというと、先生方、保護者の皆さまなど、大人全員が皆さんの教育にかけて下さっている愛情です。つまり神様の愛と同じ種類の本物の愛情です。皆さんがこのことを本当にわかるのは大人になってからかもしれません。　それくらい本気で教育されているという幸せです。
　
不二聖心の新年度は、先生方がミサで皆さんのために祈ることから始まります。これってすごいことだと思いませんか？　
　
私が特に感動しているのが宗教朝礼です。　ホームページで長いこと読んでいますが、そこで何に感動するかというと、先生方が、表現は皆さんに分かるようにしておられるけれども、内容は皆さんを子ども扱いせずに、人間同士として、人生の様々な事を本気で伝えておられるという事です。　ですから大人が聞いても味わい深いのです。　おとなになってからも読み返してみて下さい。　きっと今は分からないメッセージに助けられると思います。

それから中三の卒業研究です。ただでさえ忙しい先生方が、あらゆるテーマが飛び出してくる卒業研究に一人一人本気で立ち向かわれる事。　専門分野でないと指導の先生も勉強されること。　提出後に忙しい中でそれを読まれる事。　面接は皆さんにとっても大変でしょうが、先生方はご自分の指導されたのとは違うテーマにも本気で面接をしてくださいます。これが皆さんの将来の勉強や活動につながっていくこともあるし、そうでなくても、この経験は必ず人生の力になります。　幸せな中三だと私は毎年感動していました。　ですから、秋のつどいで卒業研究を見るのをいつも楽しみにしています。そしてこの卒業研究で身に着けた能力はその後の大学での勉強や、社会生活にも役に立っているようです。　

オリエンテーリングやクロスカントリーなどのために先生方が暗くなっても準備しておられるのを見ると、これを生徒への愛というのだとつくづく思います。天気が悪い時は本当に大変です。
この大自然も皆さんの心と体の成長に大きく貢献しています。　ホームページの「フィールド日記」を読むと目の前の自然の美しさに感動します。そして体育大会も街中の学校のように、声の大きさに気を付けながらではなく、遠慮なく大きな声を出すことができるのは、大自然の中の学校だからです。
　
そして皆さんのために多分犠牲を払って不二聖心を選んでくださったご家族の愛です。聖心の教育は、生徒一人一人の人生全体を視野に入れた息の長い教育です。「わたしを変える、世界が変わる」、これは一晩で達成される事ではありませんが、一生の幸せにつながります。
今の時代に、学校を選ぶのにここまで考える人は多くはないかもしれません。皆さんのご家族は皆さんが人生全体に渡って本当の幸せを生きる事ができる事を願って、不二聖心に入学させてくださったのでしょうと思います。　


昨年の小中高校生の自殺は532人、統計のある1980年以降で一番多い数になりました。
皆さんが死にたくなるようなときがあるかどうか分かりませんが人間が成長するためにはきついなと思う事をとおることも意味があります。　皆さんもいやなこと、大変な事にもぶつかると思います。　そういう時には、宗教朝礼を読んでみるとか、先生方に相談するとか、助けを探してみて下さい。

　そして、今は面倒だと思う事があるかもしれないけれども、お祈りを身に着けることは、自分のためにもお互いの助け合いのためにも大きな力になります。　人生には祈ることでしか手伝えないことが沢山あります。でも大人になってから祈りで助け合えるのはしあわせな事です。

　神さまは、私たちがどんな状況の時も、つまり良い人間でいるか駄目な人間だと感じるかに関係なく、必ず私たち一人一人と一緒にいて下さる方だという事を、不二聖心の生活の中で体験していってください。

K.I.(修道院)

</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2026-04-22T11:05:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin177682400503852800" class="cms-content-parts-sin177682400503860600"><p>&#160;私は昨年、25年ぶりに裾野に来ました。　今、不二聖心の学校生活を垣間見ながらなんと幸せな生徒たちだろうと、現場にいたときにはそこまで見えなかったことがよく見えるようになりました。　</p>
<div>なにがそんなに幸せなのかというと、先生方、保護者の皆さまなど、大人全員が皆さんの教育にかけて下さっている愛情です。つまり神様の愛と同じ種類の本物の愛情です。皆さんがこのことを本当にわかるのは大人になってからかもしれません。　それくらい本気で教育されているという幸せです。</div>
<div>　</div>
<div>不二聖心の新年度は、先生方がミサで皆さんのために祈ることから始まります。これってすごいことだと思いませんか？　</div>
<div>　</div>
<div>私が特に感動しているのが宗教朝礼です。　ホームページで長いこと読んでいますが、そこで何に感動するかというと、先生方が、表現は皆さんに分かるようにしておられるけれども、内容は皆さんを子ども扱いせずに、人間同士として、人生の様々な事を本気で伝えておられるという事です。　ですから大人が聞いても味わい深いのです。　おとなになってからも読み返してみて下さい。　きっと今は分からないメッセージに助けられると思います。</div>
<div></div>
<div>それから中三の卒業研究です。ただでさえ忙しい先生方が、あらゆるテーマが飛び出してくる卒業研究に一人一人本気で立ち向かわれる事。　専門分野でないと指導の先生も勉強されること。　提出後に忙しい中でそれを読まれる事。　面接は皆さんにとっても大変でしょうが、先生方はご自分の指導されたのとは違うテーマにも本気で面接をしてくださいます。これが皆さんの将来の勉強や活動につながっていくこともあるし、そうでなくても、この経験は必ず人生の力になります。　幸せな中三だと私は毎年感動していました。　ですから、秋のつどいで卒業研究を見るのをいつも楽しみにしています。そしてこの卒業研究で身に着けた能力はその後の大学での勉強や、社会生活にも役に立っているようです。　</div>
<div></div>
<div>オリエンテーリングやクロスカントリーなどのために先生方が暗くなっても準備しておられるのを見ると、これを生徒への愛というのだとつくづく思います。天気が悪い時は本当に大変です。</div>
<div>この大自然も皆さんの心と体の成長に大きく貢献しています。　ホームページの「フィールド日記」を読むと目の前の自然の美しさに感動します。そして体育大会も街中の学校のように、声の大きさに気を付けながらではなく、遠慮なく大きな声を出すことができるのは、大自然の中の学校だからです。</div>
<div>　</div>
<div>そして皆さんのために多分犠牲を払って不二聖心を選んでくださったご家族の愛です。聖心の教育は、生徒一人一人の人生全体を視野に入れた息の長い教育です。「わたしを変える、世界が変わる」、これは一晩で達成される事ではありませんが、一生の幸せにつながります。</div>
<div>今の時代に、学校を選ぶのにここまで考える人は多くはないかもしれません。皆さんのご家族は皆さんが人生全体に渡って本当の幸せを生きる事ができる事を願って、不二聖心に入学させてくださったのでしょうと思います。　</div>
<div></div>
<div></div>
<div>昨年の小中高校生の自殺は532人、統計のある1980年以降で一番多い数になりました。</div>
<div>皆さんが死にたくなるようなときがあるかどうか分かりませんが人間が成長するためにはきついなと思う事をとおることも意味があります。　皆さんもいやなこと、大変な事にもぶつかると思います。　そういう時には、宗教朝礼を読んでみるとか、先生方に相談するとか、助けを探してみて下さい。</div>
<div></div>
<div>　そして、今は面倒だと思う事があるかもしれないけれども、お祈りを身に着けることは、自分のためにもお互いの助け合いのためにも大きな力になります。　人生には祈ることでしか手伝えないことが沢山あります。でも大人になってから祈りで助け合えるのはしあわせな事です。</div>
<div></div>
<div>　神さまは、私たちがどんな状況の時も、つまり良い人間でいるか駄目な人間だと感じるかに関係なく、必ず私たち一人一人と一緒にいて下さる方だという事を、不二聖心の生活の中で体験していってください。</div>
<div></div>
<div style="text-align: right;">K.I.(修道院)</div>
<div></div>
<p></p></div>
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</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96103/">
<title>2026年2月18日</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96103/</link>
<description>&#160;今日は灰の水曜日、四旬節が始まります。 高校1年生が宗教の授業の中で四旬節のエコカレンダーを作成しました。（画像をクリックしていただけますとカレンダーのファイルが開きます。） このカレンダーの言葉とともに復活祭までの歩みをご一緒にしていただければ幸いです。 </description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-02-18T00:35:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin177134291423913700" class="cms-content-parts-sin177134291423923800"><p>&#160;今日は灰の水曜日、四旬節が始まります。<br /> 高校1年生が宗教の授業の中で四旬節のエコカレンダーを作成しました。<br />（画像をクリックしていただけますとカレンダーのファイルが開きます。）<br /> このカレンダーの言葉とともに復活祭までの歩みをご一緒にしていただければ幸いです。<br /> <a href="/files/PDFpublic/2025/files2026021800411823.pdf" target="_blank" rel="otherurl"><img src="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/images/teachersmessage/images2026021800474036.jpg" width="347" height="240" alt="" /></a></p></div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96101/">
<title>2026年2月11日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96101/</link>
<description>&#160;私はこの冬休み、娘と一緒に映画「ズートピア２」を観ました。２の鑑賞前に前作の「ズートピア」も初めて観たのですが、これほどの名作を10年も放置していたなんて、自分でも勿体無いことをしたと、今さらながら後悔しました。

ズートピアとは物語の舞台となる都市の名前です。動物園「ズー」と理想郷「ユートピア」を組み合わせた名前の通り、かつては敵対していた肉食動物と草食動物が、種族の違いを超えて共に暮らす巨大都市です。ズートピアでは「誰でも何にでもなれる」という輝かしい理想が掲げられ、様々な動物たちが共に暮らし、自由で平等な多文化共生社会　が実現している、ように見えます。けれど、実際には様々な問題を抱えており、そしてそれらは、私たち人間社会が抱える課題と鏡合わせのように対応しています。

例えば主人公のウサギのジュディは、警察官になりたい、と小さい頃に宣言しますが、友達からは馬鹿にされ、両親からもこれまで警察官になったウサギはいない、とたしなめられます。警察学校に入った後も苦労は続きます。様々なトレーニングのあり方、トイレや会議場など警察学校の設備や制度そのものが、大型動物向けに設計され、小動物にとって適切ではないものでした。私たちの社会でも、職業選択の自由、ジェンダー平等などが謳われつつも、現実には政治や経営、社会生活の場が、特定の属性を持つ人々にとって有利な設計となり、その設計に合わない人たちを排除していることがあります。

ズートピアで肉食動物が皆優遇されているわけでもありません。もう一人の主人公、キツネのニックも、周囲からはキツネだというだけで「ずる賢い」「嘘つき」「詐欺師」というレッテルを貼られ、幼い頃には自身の夢を諦めた経験がありました。ズートピアの理想の裏側には根深い偏見、そしてそこから生まれる差別がありました。偏見を嫌い、正義感あふれるジュディですら、キツネのニックに初めて話しかける際、無意識に「キツネよけスプレー」に手を伸ばしてしまう場面が描かれていました。

「多文化共生」という言葉は耳に心地よいものですが、そう簡単に実現できるものではないようです。自分と異なる価値観、文化、習慣を持つ「他者」と隣り合わせで生きることは、時に摩擦を生み、苛立ちや疲れを引き起こします。私たちが無意識にもつ偏見から逃れるためには、どうしたら良いのでしょうか。

北九州市で30年以上にわたりホームレス支援や困窮者保護に力を尽くし続けている、NPO法人「抱樸（ほうぼく）」の理事長で牧師である奥田知志（おくだともし）さん、という方がいらっしゃいます。この方がある対談で、次のように語っていました。

時々、私が（ホームレスの方に）「いや苦労されましたね。わかりますよ。本当にしんどかったね」って言った瞬間に、「おまえに俺の何がわかるんだ」ってぼろくそに怒られることがあるんですよ。やっぱり人間って簡単にわかってもらっちゃ困るんです。人間の尊厳というのは、厳しいものですよね。尊く厳しいのが尊厳です。他者である限りは乗り越えられない壁がある。絶対的な他者性みたいなものの前で、しかし、「おまえのことなんかわかるか」で終わらせるんじゃなくて、それでもそのおじさんの話を聞こうとする。共感も大事だけど、共感が不可能だっていうことにまず共感しないと始まらない。「共感不可能性の共感」なんて言い方をしてきましたが、ここを無視して一足跳びに共感を目指しちゃうと、一足跳びに答えを探している世界と変わらない。それは当事者に対して失礼な話になる。

皆さんの不二聖心での生活も、一つの小さな「ズートピア」かもしれません。皆さんは授業や奉仕活動、友人との関わりを通して、自分とは異なる「他者」と出会ってきましたし、これからも出会っていきます。その際、相手を自分の物差しでカテゴライズし、分かったつもりになる誘惑に駆られることもあるでしょう。ここで大切なのは、相手との違いを安易に埋めることではなく、自分の中にある偏見を自覚し、葛藤を抱えながらも、粘り強く目の前にいる一人の『あなた』という存在に深く向き合い、じっくりと対話を続けていくことではないでしょうか。先日行われた中学校国語弁論大会でも、この偏見と差別について語ってくださった方がいて、とても嬉しく思いました。

映画「ズートピア」の中で、ある行為によってニックを深く傷つけてしまったジュディは、一度ニックと離れます。しかしその後、橋のたもとでニックに謝り、事件解決に向けて二人は再び手を取り合うのでした。橋、という舞台はとても象徴的です。歴代の教皇様も、しばしば分断の象徴として「壁」、相手とのつながりの象徴として「橋」、の言葉を使われてきました。

最後に、レオ十四世教皇様の言葉を紹介します。昨年、教皇選挙によって選出されたあとの、最初の挨拶です。
「わたしたちはキリストの弟子です。キリストはわたしたちに先立って歩んでくださいます。世界はこの方の光を必要としています。人類は、神とその愛に達するための橋として、この方を必要としています。皆さんもわたしたちを助けてください。対話と出会いによって互いに橋をかけるために。わたしたちが皆、一つに結ばれて、常に平和のうちにある唯一の民となることができるために」

高校３年生にとっては、不二聖心で過ごす日々も、いよいよ残りわずかとなりました。皆さんはこれまで、この学び舎の中で、多くの「橋」を多くの人との間に架けてきました。不二聖心で学んだことを大切にして、それぞれの次のステップでも「壁」を壊し、「橋」を架ける人として、活躍していってほしいと願っています。
これで宗教朝礼を終わります。

参考文献・映画
ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ「ズートピア」（2016年、バイロン・ハワード監督）
奥田知志・永井玲衣「『希望のまちプロジェクト』レポート　人と人との『間』から」（集英社「すばる」2026年1月号p61）
教皇レオ十四世の最初の祝福　サンピエトロ大聖堂バルコニーにて　
https://www.cbcj.catholic.jp/2025/05/09/32332/

S.N.(社会科・地歴公民科）

</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-02-11T12:00:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin177095173883952300" class="cms-content-parts-sin177095173883960500"><p>&#160;私はこの冬休み、娘と一緒に映画「ズートピア２」を観ました。２の鑑賞前に前作の「ズートピア」も初めて観たのですが、これほどの名作を10年も放置していたなんて、自分でも勿体無いことをしたと、今さらながら後悔しました。</p>
<div></div>
<div>ズートピアとは物語の舞台となる都市の名前です。動物園「ズー」と理想郷「ユートピア」を組み合わせた名前の通り、かつては敵対していた肉食動物と草食動物が、種族の違いを超えて共に暮らす巨大都市です。ズートピアでは「誰でも何にでもなれる」という輝かしい理想が掲げられ、様々な動物たちが共に暮らし、自由で平等な多文化共生社会　が実現している、ように見えます。けれど、実際には様々な問題を抱えており、そしてそれらは、私たち人間社会が抱える課題と鏡合わせのように対応しています。</div>
<div></div>
<div>例えば主人公のウサギのジュディは、警察官になりたい、と小さい頃に宣言しますが、友達からは馬鹿にされ、両親からもこれまで警察官になったウサギはいない、とたしなめられます。警察学校に入った後も苦労は続きます。様々なトレーニングのあり方、トイレや会議場など警察学校の設備や制度そのものが、大型動物向けに設計され、小動物にとって適切ではないものでした。私たちの社会でも、職業選択の自由、ジェンダー平等などが謳われつつも、現実には政治や経営、社会生活の場が、特定の属性を持つ人々にとって有利な設計となり、その設計に合わない人たちを排除していることがあります。</div>
<div></div>
<div>ズートピアで肉食動物が皆優遇されているわけでもありません。もう一人の主人公、キツネのニックも、周囲からはキツネだというだけで「ずる賢い」「嘘つき」「詐欺師」というレッテルを貼られ、幼い頃には自身の夢を諦めた経験がありました。ズートピアの理想の裏側には根深い偏見、そしてそこから生まれる差別がありました。偏見を嫌い、正義感あふれるジュディですら、キツネのニックに初めて話しかける際、無意識に「キツネよけスプレー」に手を伸ばしてしまう場面が描かれていました。</div>
<div></div>
<div>「多文化共生」という言葉は耳に心地よいものですが、そう簡単に実現できるものではないようです。自分と異なる価値観、文化、習慣を持つ「他者」と隣り合わせで生きることは、時に摩擦を生み、苛立ちや疲れを引き起こします。私たちが無意識にもつ偏見から逃れるためには、どうしたら良いのでしょうか。</div>
<div></div>
<div>北九州市で30年以上にわたりホームレス支援や困窮者保護に力を尽くし続けている、NPO法人「抱樸（ほうぼく）」の理事長で牧師である奥田知志（おくだともし）さん、という方がいらっしゃいます。この方がある対談で、次のように語っていました。</div>
<div></div>
<div>時々、私が（ホームレスの方に）「いや苦労されましたね。わかりますよ。本当にしんどかったね」って言った瞬間に、「おまえに俺の何がわかるんだ」ってぼろくそに怒られることがあるんですよ。やっぱり人間って簡単にわかってもらっちゃ困るんです。人間の尊厳というのは、厳しいものですよね。尊く厳しいのが尊厳です。他者である限りは乗り越えられない壁がある。絶対的な他者性みたいなものの前で、しかし、「おまえのことなんかわかるか」で終わらせるんじゃなくて、それでもそのおじさんの話を聞こうとする。共感も大事だけど、共感が不可能だっていうことにまず共感しないと始まらない。「共感不可能性の共感」なんて言い方をしてきましたが、ここを無視して一足跳びに共感を目指しちゃうと、一足跳びに答えを探している世界と変わらない。それは当事者に対して失礼な話になる。</div>
<div></div>
<div>皆さんの不二聖心での生活も、一つの小さな「ズートピア」かもしれません。皆さんは授業や奉仕活動、友人との関わりを通して、自分とは異なる「他者」と出会ってきましたし、これからも出会っていきます。その際、相手を自分の物差しでカテゴライズし、分かったつもりになる誘惑に駆られることもあるでしょう。ここで大切なのは、相手との違いを安易に埋めることではなく、自分の中にある偏見を自覚し、葛藤を抱えながらも、粘り強く目の前にいる一人の『あなた』という存在に深く向き合い、じっくりと対話を続けていくことではないでしょうか。先日行われた中学校国語弁論大会でも、この偏見と差別について語ってくださった方がいて、とても嬉しく思いました。</div>
<div></div>
<div>映画「ズートピア」の中で、ある行為によってニックを深く傷つけてしまったジュディは、一度ニックと離れます。しかしその後、橋のたもとでニックに謝り、事件解決に向けて二人は再び手を取り合うのでした。橋、という舞台はとても象徴的です。歴代の教皇様も、しばしば分断の象徴として「壁」、相手とのつながりの象徴として「橋」、の言葉を使われてきました。</div>
<div></div>
<div>最後に、レオ十四世教皇様の言葉を紹介します。昨年、教皇選挙によって選出されたあとの、最初の挨拶です。</div>
<div>「わたしたちはキリストの弟子です。キリストはわたしたちに先立って歩んでくださいます。世界はこの方の光を必要としています。人類は、神とその愛に達するための橋として、この方を必要としています。皆さんもわたしたちを助けてください。対話と出会いによって互いに橋をかけるために。わたしたちが皆、一つに結ばれて、常に平和のうちにある唯一の民となることができるために」</div>
<div></div>
<div>高校３年生にとっては、不二聖心で過ごす日々も、いよいよ残りわずかとなりました。皆さんはこれまで、この学び舎の中で、多くの「橋」を多くの人との間に架けてきました。不二聖心で学んだことを大切にして、それぞれの次のステップでも「壁」を壊し、「橋」を架ける人として、活躍していってほしいと願っています。</div>
<div>これで宗教朝礼を終わります。</div>
<div></div>
<div>参考文献・映画</div>
<div>ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ「ズートピア」（2016年、バイロン・ハワード監督）</div>
<div>奥田知志・永井玲衣「『希望のまちプロジェクト』レポート　人と人との『間』から」（集英社「すばる」2026年1月号p61）</div>
<div>教皇レオ十四世の最初の祝福　サンピエトロ大聖堂バルコニーにて　</div>
<div>https://www.cbcj.catholic.jp/2025/05/09/32332/</div>
<div style="text-align: right;"></div>
<div style="text-align: right;">S.N.(社会科・地歴公民科）</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96091/">
<title>2026年1月21日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96091/</link>
<description>
　宗教朝礼で何を話そうかすぐにアイデアが浮かばなかったので、AIに相談したところ、とても素晴らしい宗教的な内容を提案されたのですが、たぶん自分では絶対に思いつかないような言葉や内容が含まれていてそれを使うのは違和感を感じ、今回は宗教から少しはずれますが、自分が今感じていることを伝えたいと思います。
先日、テレビを見ていたらある地域で中学生対象に人権に関する標語を募集したところ、優秀な作品が７作選ばれ、作成した中学生５名を集めてどのようにその標語を考えたかを調査するという企画の番組がありました。５名中３名がAIで作成したと答えていました。AIを使わなかった生徒は自分で考えないと心がこもっていないと言い、AIを使った生徒は素晴らしい内容ならどう作成しようと問題ないと答えていました。
　現在、大学では課題作成をAIに丸投げして提出し、自分では考えない学生が増えている一方で、時間をかけて考え一生懸命課題を作成する学生もいます。そしてAIで作成した学生の方が高い評価がつき、自分で作成したまじめな学生には低い評価がつき自己肯定感が下がり自分のやり方に悩んでいる人が多くいるという報道を見ました。
私にも大学２年と４年の息子がいますが、日頃、教科書やノートを使っている様子がなく、パソコンばかりいじっていて勉強している気配がないのでちゃんと授業を受けているのか心配になって聞いたことがあります。テキストはクラウド上に載っており、板書の内容はタブレットで撮影しているので教科書もノートも必要ないとそっけなく返答されました。分厚い数学の専門書を持ち歩いていた時代との世代間ギャプにショックを受けました。
　それに関連して気になるニュースが先週ネットの記事にありました。その記事を読みます。
&#160;タブレット学習が定着した今も、新春の書き初めは小学校の定番行事だ。ところがキーボードやスマホ入力が当たり前になった昨今は、漢字の書き順などを正しく書けない子どもが増えているという。かたや大人も手書きする機会は激減しており、いざペンで書こうとして、漢字が出てこない、脳が衰えているのでは、と焦った経験がある人は少なくないはずだ。手書きをしなくなったことで、人間はどう変わったのか。順天堂大学医学部の矢野裕一朗教授に話を聞いた。
スマホやPCの入力と手書き、脳に及ぼす影響は何が違うのか？
　手書きではすべて書き写すのは不可能なので、脳が瞬時に情報を要約して優先順をつけ、自分の言葉で概念を再構築する必要に迫られます。結果、手書きした学生の方が記憶の定着率も理解度も圧倒的に高い。
　デジタルは情報の保存に長けているが、知識として定着させるにはアナログの方が効果が高いことが実証されている。
　昨今は板書を写真に撮る学生も増えていますが、記憶の定着という観点からはマイナスに働く可能性があります。これは単なる精神論ではなく、心理学で、写真撮影による記憶喪失効果として知られる現象です。データに保存したことで安心感を得てしまい、復習をしなくなってしまうわけです。大切なことは後から必ずノートに書き写すなど、アナログとデジタルの使い分けを提案したいところです。
　スマホが常に手元にある現代、写真を撮って覚えた気になってしまうという勘違い現象にドキッとした大人も多いのではないでしょうか。デジタルツールやAIは、仕事や生活のあらゆる場面で切っても切り離せなくなっています。
　定型的な業務処理やミスのない遂行において、デジタルツールは最強のパフォーマンスを発揮します。とはいえ、デジタルの示す正解は、誰もが到達できるコモディティ化された正解に陥りがちであるという側面も否定できません。
　対して、アナログな個人的記憶や経験といった独自の文脈から引き出された言葉やアイデアには、他者には模倣できないオリジナリティ溢れる価値があります。処理速度を求めるならデジタル、独自の価値を創出するならアナログ。この使い分けこそが、ビジネスパーソンのパフォーマンスを最大化する鍵となるでしょう。
　子どもから大人まで、日々デジタルの恩恵にあずかる現代人。今は気にならなくとも、その影響が深刻化するのは近い将来かもしれません。
脳科学には、使わなければ失われるという鉄則があり、神経回路のシナプス結合も使わなければどんどん弱まってしまいます。文章の作成をAIに任せきりになったり、特に手書きという高度なマルチタスク（指先の操作+記憶の検索+言語構成）をやめてしまうことは、脳への血流と刺激を遮断することに等しく、脳の老化を加速させるリスク要因になります。
AIの弊害が表面化するのは5～10年後、老害が低年齢化すると予想される。
　さらに興味深いのが、スマホで文字入力している時と手書きで文字を書いている時の脳血流を比較測定した研究です。スマホ入力ではあまり働いていない脳の前頭前野が、手書きをしている時は活発に働き、血流量が増加していることが確認されました。思考やコミュニケーションを司る前頭前野は加齢とともに最も早く機能低下が始まりやすい部位であり、ここが衰えるとイライラしたり、怒りっぽくなったりと感情の抑制が効かなくなります。昨今ではいわゆる&#8220;老害&#8221;的な行動の原因が、加齢に伴う前頭前野の衰えと関連していることが知られています。この現状に対し、矢野教授は、ＡＩ等の進歩により数年後には自分で考えることをしなくなり脳の老化の低年齢化がクローズアップされるだろうと警鐘を鳴らしています。　※１　　
&#160;
この記事を読んで、社会全体がデジタルやAIに依存しすぎると全世代で感情の抑制が効かない人が増えるのでは不安になりました。
　最後に私ごとで恐縮ですが、今年１月２日に１４年間飼っていたポメラニアンが息を引き取りました。昨年の１２月中旬から元気がなくなり自力で食事が出来なくなったので冬休みには毎日動物病院に朝預けて、強制給餌をしてもらい夕方に迎えにいく日々が続きました。何とか年は越せたもののどんどん瘦せ細っていきました。１月２日朝預けて、夕方、思いついていつもより１時間位早く病院に迎えに行くと看護師さんが今日は比較的元気で何とか食事を食べられたので今連れてきますと言ってくれました。安心した直後、獣医さんが来て急に心臓が止まりかけていますと慌てています。
　急いで心臓マッサージをしてもらいましたが、乾電池が切れたように動きが止まり命が途絶えました。
　迎えに来るまで死ぬのを待っていてくれたのかも知れませんが、その日に限って１時間早く迎えにいったために最期を看取ることが出来ました。それが偶然ではなく神様が導いてくれた気がしてなりません。そして無事天国に着けるよう神様にお祈りをしました。
　AIに相談することは出来ますが、本当の意味で寂しさや悲しさを癒したり、祈りを捧げることが出来るとは思えません。それは神様にしか出来ないような気がします。私自身AIに依存しすぎないように関わっていきたいと思います。皆さんもスマホやＡＩとの関わり方について一度考えてみて下さい。
J.K.（数学科・情報科）

&#160;※１　山陽新聞web記事（2026年01月16日）https://www.sanyonews.jp/article/1858414?kw=4
&#160;
&#160;
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</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-01-21T09:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div id="cms-editor-minieditor-sin176904070298764900" class="cms-content-parts-sin176904070298775000">
<p class="MsoNormal">　宗教朝礼で何を話そうかすぐにアイデアが浮かばなかったので、<span lang="EN-US">AI</span>に相談したところ、とても素晴らしい宗教的な内容を提案されたのですが、たぶん自分では絶対に思いつかないような言葉や内容が含まれていてそれを使うのは違和感を感じ、今回は宗教から少しはずれますが、自分が今感じていることを伝えたいと思います。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent:10.5pt;mso-char-indent-count:1.0">先日、テレビを見ていたらある地域で中学生対象に人権に関する標語を募集したところ、優秀な作品が７作選ばれ、作成した中学生５名を集めてどのようにその標語を考えたかを調査するという企画の番組がありました。５名中３名が<span lang="EN-US">AI</span>で作成したと答えていました。<span lang="EN-US">AI</span>を使わなかった生徒は自分で考えないと心がこもっていないと言い、<span lang="EN-US">AI</span>を使った生徒は素晴らしい内容ならどう作成しようと問題ないと答えていました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　現在、大学では課題作成を<span lang="EN-US">AI</span>に丸投げして提出し、自分では考えない学生が増えている一方で、時間をかけて考え一生懸命課題を作成する学生もいます。そして<span lang="EN-US">AI</span>で作成した学生の方が高い評価がつき、自分で作成したまじめな学生には低い評価がつき自己肯定感が下がり自分のやり方に悩んでいる人が多くいるという報道を見ました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span><br />
私にも大学２年と４年の息子がいますが、日頃、教科書やノートを使っている様子がなく、パソコンばかりいじっていて勉強している気配がないのでちゃんと授業を受けているのか心配になって聞いたことがあります。テキストはクラウド上に載っており、板書の内容はタブレットで撮影しているので教科書もノートも必要ないとそっけなく返答されました。分厚い数学の専門書を持ち歩いていた時代との世代間ギャプにショックを受けました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　それに関連して気になるニュースが先週ネットの記事にありました。その記事を読みます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;"><span lang="EN-US">&#160;</span>タブレット学習が定着した今も、新春の書き初めは小学校の定番行事だ。ところがキーボードやスマホ入力が当たり前になった昨今は、漢字の書き順などを正しく書けない子どもが増えているという。かたや大人も手書きする機会は激減しており、いざペンで書こうとして、漢字が出てこない、脳が衰えているのでは、と焦った経験がある人は少なくないはずだ。手書きをしなくなったことで、人間はどう変わったのか。順天堂大学医学部の矢野裕一朗教授に話を聞いた。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; margin-left: 40px;">スマホや<span lang="EN-US">PC</span>の入力と手書き、脳に及ぼす影響は何が違うのか？<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　手書きではすべて書き写すのは不可能なので、脳が瞬時に情報を要約して優先順をつけ、自分の言葉で概念を再構築する必要に迫られます。結果、手書きした学生の方が記憶の定着率も理解度も圧倒的に高い。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　デジタルは情報の保存に長けているが、知識として定着させるにはアナログの方が効果が高いことが実証されている。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　昨今は板書を写真に撮る学生も増えていますが、記憶の定着という観点からはマイナスに働く可能性があります。これは単なる精神論ではなく、心理学で、写真撮影による記憶喪失効果として知られる現象です。データに保存したことで安心感を得てしまい、復習をしなくなってしまうわけです。大切なことは後から必ずノートに書き写すなど、アナログとデジタルの使い分けを提案したいところです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　スマホが常に手元にある現代、写真を撮って覚えた気になってしまうという勘違い現象にドキッとした大人も多いのではないでしょうか。デジタルツールや<span lang="EN-US">AI</span>は、仕事や生活のあらゆる場面で切っても切り離せなくなっています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　定型的な業務処理やミスのない遂行において、デジタルツールは最強のパフォーマンスを発揮します。とはいえ、デジタルの示す正解は、誰もが到達できるコモディティ化された正解に陥りがちであるという側面も否定できません。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　対して、アナログな個人的記憶や経験といった独自の文脈から引き出された言葉やアイデアには、他者には模倣できないオリジナリティ溢れる価値があります。処理速度を求めるならデジタル、独自の価値を創出するならアナログ。この使い分けこそが、ビジネスパーソンのパフォーマンスを最大化する鍵となるでしょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　子どもから大人まで、日々デジタルの恩恵にあずかる現代人。今は気にならなくとも、その影響が深刻化するのは近い将来かもしれません。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; margin-left: 40px;">脳科学には、使わなければ失われるという鉄則があり、神経回路のシナプス結合も使わなければどんどん弱まってしまいます。文章の作成を<span lang="EN-US">AI</span>に任せきりになったり、特に手書きという高度なマルチタスク（指先の操作<span lang="EN-US">+</span>記憶の検索<span lang="EN-US">+</span>言語構成）をやめてしまうことは、脳への血流と刺激を遮断することに等しく、脳の老化を加速させるリスク要因になります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; margin-left: 40px;"><span lang="EN-US">AI</span>の弊害が表面化するのは<span lang="EN-US">5</span>～<span lang="EN-US">10</span>年後、老害が低年齢化すると予想される。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　さらに興味深いのが、スマホで文字入力している時と手書きで文字を書いている時の脳血流を比較測定した研究です。スマホ入力ではあまり働いていない脳の前頭前野が、手書きをしている時は活発に働き、血流量が増加していることが確認されました。思考やコミュニケーションを司る前頭前野は加齢とともに最も早く機能低下が始まりやすい部位であり、ここが衰えるとイライラしたり、怒りっぽくなったりと感情の抑制が効かなくなります。昨今ではいわゆる<span lang="EN-US">&#8220;</span>老害<span lang="EN-US">&#8221;</span>的な行動の原因が、加齢に伴う前頭前野の衰えと関連していることが知られています。この現状に対し、矢野教授は、ＡＩ等の進歩により数年後には自分で考えることをしなくなり脳の老化の低年齢化がクローズアップされるだろうと警鐘を鳴らしています。　※１　　</p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent:10.5pt;mso-char-indent-count:1.0">この記事を読んで、社会全体がデジタルや<span lang="EN-US">AI</span>に依存しすぎると全世代で感情の抑制が効かない人が増えるのでは不安になりました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　最後に私ごとで恐縮ですが、今年１月２日に１４年間飼っていたポメラニアンが息を引き取りました。昨年の１２月中旬から元気がなくなり自力で食事が出来なくなったので冬休みには毎日動物病院に朝預けて、強制給餌をしてもらい夕方に迎えにいく日々が続きました。何とか年は越せたもののどんどん瘦せ細っていきました。１月２日朝預けて、夕方、思いついていつもより１時間位早く病院に迎えに行くと看護師さんが今日は比較的元気で何とか食事を食べられたので今連れてきますと言ってくれました。安心した直後、獣医さんが来て急に心臓が止まりかけていますと慌てています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　急いで心臓マッサージをしてもらいましたが、乾電池が切れたように動きが止まり命が途絶えました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　迎えに来るまで死ぬのを待っていてくれたのかも知れませんが、その日に限って１時間早く迎えにいったために最期を看取ることが出来ました。それが偶然ではなく神様が導いてくれた気がしてなりません。そして無事<span style="letter-spacing: 0.1em;">天国に着けるよう神様にお祈りをしました。</span></p>
<p class="MsoNormal">　<span lang="EN-US">AI</span>に相談することは出来ますが、本当の意味で寂しさや悲しさを癒したり、祈りを捧げることが出来るとは思えません。それは神様にしか出来ないような気がします。私自身<span lang="EN-US">AI</span>に依存しすぎないように関わっていきたいと思います。皆さんもスマホやＡＩとの関わり方について一度考えてみて下さい。</p>
<p class="MsoNormal" style="text-align: right;">J.K.（数学科・情報科）</p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span>※１　山陽新聞<span lang="EN-US">web</span>記事（<span lang="EN-US">2026</span>年<span lang="EN-US">01</span>月<span lang="EN-US">16</span>日）<a href="https://www.sanyonews.jp/article/1858414?kw=4" style="background-color: rgb(255, 255, 255); letter-spacing: 0.1em;">https://www.sanyonews.jp/article/1858414?kw=4</a></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
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<p></p>
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</div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96077/">
<title>2025年12月10日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96077/</link>
<description>&#160;いよいよ、クリスマス・キャロルが来週となりました。今年は以前のキャロルのように、一般のお客様をお迎えして、イエスのご降誕という恵みの時を多くの皆さまとともにお迎えできますね。

クリスマス・キャロル週間を過ごす今週は、学校内でどこからともなく聞こえてくる皆さんの歌声に、イエス様ご降誕の喜びの日が近づいてきていることを感じずにはいられません。街はイルミネーションが光り、クリスマスソングやクリスマスツリーの飾りに溢れ、一層賑わいが増す時期になりましたが、静けさの中でクリスマス本来の意味を考え、本当に大切なものへと心を向ける待降節の期間を過ごすのが、聖心における伝統的なクリスマスまでの過ごし方です。

これまでの期間に、さまざまな形で聖心の生徒としてのプラクティスの過ごし方、心構えについて皆さんはお話を伺ってきましたね。プラクティスは、クリスマスへの大切な心の準備期間でもあります。待降節にあたり、聖心の創立者である聖マグダレナ・ソフィア・バラの教えをもう一度辿り、心静かにこの時を過ごせる　ように考えてみましょう。
聖マグダレナ・ソフィア・バラは、静けさを大切になさっていました。「神の望みにまかせること、それこそ平和をみつける唯一の道です」というマザー・バラの言葉に象徴されるように、祈りながら忍耐強く神のなさることを待ち、彼女は優しさと思いやりを持って神のなさることに自分を捧げました。日々の生活の中に、沈黙や静けさをつくることで、心に空間ができる、つまり神様を迎えるスペースをつくることができるということを彼女の生き方は教えてくださいます。私たちは、時に慌ただしく、目の前のことに翻弄されて過ごしていると、自分の中にある大切なものにさえ気づくことが出来なくなる時があります。各クラスで決めたプラクティスの意味や、あなた自身のプラクティスの過ごし方を今一度、自分の心の深い部分で見直してみることも必要かもしれません。そうすることで、より心を落ち着けて、クリスマスを迎えることができるようになると思います。

さて、今年のクリスマス・キャロルのテーマ「Luminous (ルミナス)」は、柔らかく明るい光、輝くという意味を持つ言葉です。カトリック教会において、「希望」をテーマとした聖年の年に当たる今年２０２５年に、この希望を象徴する「光」Luminous（ルミナス）には、イエス様のご降誕をお祝いする喜びを一層輝かせたい、そんな願いが込められています。
イエス様の誕生を表すベツレヘムの星が夜空に美しく輝き、羊飼いや３人の賢者が導かれたように、クリスマス・キャロルの一つの象徴として、この光はとても大切で深い意味を持ちます。
２０００年前に、政治的に不安定で経済的な格差も激しかったユダヤ社会の貧しい人々にとって、イエス様は希望の光でした。それから長い時を経た今の時代において、私たちは未だ様々な問題を抱えています。
パレスチナやウクライナなどでは紛争が続き、また世界中で格差や貧富の問題があります。ナイジェリアのパピリでは学校が襲撃され、今も多くの子どもや大人たちがさらわれ行方不明の状態にあり、ご家族は深い恐怖と不安の中で過ごされています。日本に住む私たちは、本当に恵まれた毎日を過ごせているのです。

聖マグダレナ・ソフィア・バラが礎を築いた聖心は、世界中に広がっています。この時期、皆さんだけでなく、世界中の聖心の生徒たちは、心を一つにして祈り、歌い、イエス様のご降誕を待ち望んでいます。イエス様の存在が、世の暗闇を照らす消えない光であることを伝え、そのご降誕の喜びを分かち合う、世界中の人々が光を信じ、希望を持ち生きることの大切さを知る、今年のテーマであるLuminous（ルミナス）という言葉を心の深いところで皆が考えることが大きな意味を持ちます。
私たちが、今の自分の平和な生活に感謝し、この光を信じ、祈りの気持ちを伝えられるクリスマス・キャロルにしていきましょう。そのために、皆で平和を願いながら、共に歌い、誰かの希望となることが出来ますように。クリスマス・キャロルまでの日々を大切に過ごして行きましょう。

A.T.（図書館）</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-12-10T13:45:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176655164106334800" class="cms-content-parts-sin176655164106342500"><p>&#160;いよいよ、クリスマス・キャロルが来週となりました。今年は以前のキャロルのように、一般のお客様をお迎えして、イエスのご降誕という恵みの時を多くの皆さまとともにお迎えできますね。</p>
<div></div>
<div>クリスマス・キャロル週間を過ごす今週は、学校内でどこからともなく聞こえてくる皆さんの歌声に、イエス様ご降誕の喜びの日が近づいてきていることを感じずにはいられません。街はイルミネーションが光り、クリスマスソングやクリスマスツリーの飾りに溢れ、一層賑わいが増す時期になりましたが、静けさの中でクリスマス本来の意味を考え、本当に大切なものへと心を向ける待降節の期間を過ごすのが、聖心における伝統的なクリスマスまでの過ごし方です。</div>
<div></div>
<div>これまでの期間に、さまざまな形で聖心の生徒としてのプラクティスの過ごし方、心構えについて皆さんはお話を伺ってきましたね。プラクティスは、クリスマスへの大切な心の準備期間でもあります。待降節にあたり、聖心の創立者である聖マグダレナ・ソフィア・バラの教えをもう一度辿り、心静かにこの時を過ごせる　ように考えてみましょう。</div>
<div>聖マグダレナ・ソフィア・バラは、静けさを大切になさっていました。「神の望みにまかせること、それこそ平和をみつける唯一の道です」というマザー・バラの言葉に象徴されるように、祈りながら忍耐強く神のなさることを待ち、彼女は優しさと思いやりを持って神のなさることに自分を捧げました。日々の生活の中に、沈黙や静けさをつくることで、心に空間ができる、つまり神様を迎えるスペースをつくることができるということを彼女の生き方は教えてくださいます。私たちは、時に慌ただしく、目の前のことに翻弄されて過ごしていると、自分の中にある大切なものにさえ気づくことが出来なくなる時があります。各クラスで決めたプラクティスの意味や、あなた自身のプラクティスの過ごし方を今一度、自分の心の深い部分で見直してみることも必要かもしれません。そうすることで、より心を落ち着けて、クリスマスを迎えることができるようになると思います。</div>
<div></div>
<div>さて、今年のクリスマス・キャロルのテーマ「Luminous (ルミナス)」は、柔らかく明るい光、輝くという意味を持つ言葉です。カトリック教会において、「希望」をテーマとした聖年の年に当たる今年２０２５年に、この希望を象徴する「光」Luminous（ルミナス）には、イエス様のご降誕をお祝いする喜びを一層輝かせたい、そんな願いが込められています。</div>
<div>イエス様の誕生を表すベツレヘムの星が夜空に美しく輝き、羊飼いや３人の賢者が導かれたように、クリスマス・キャロルの一つの象徴として、この光はとても大切で深い意味を持ちます。</div>
<div>２０００年前に、政治的に不安定で経済的な格差も激しかったユダヤ社会の貧しい人々にとって、イエス様は希望の光でした。それから長い時を経た今の時代において、私たちは未だ様々な問題を抱えています。</div>
<div>パレスチナやウクライナなどでは紛争が続き、また世界中で格差や貧富の問題があります。ナイジェリアのパピリでは学校が襲撃され、今も多くの子どもや大人たちがさらわれ行方不明の状態にあり、ご家族は深い恐怖と不安の中で過ごされています。日本に住む私たちは、本当に恵まれた毎日を過ごせているのです。</div>
<div></div>
<div>聖マグダレナ・ソフィア・バラが礎を築いた聖心は、世界中に広がっています。この時期、皆さんだけでなく、世界中の聖心の生徒たちは、心を一つにして祈り、歌い、イエス様のご降誕を待ち望んでいます。イエス様の存在が、世の暗闇を照らす消えない光であることを伝え、そのご降誕の喜びを分かち合う、世界中の人々が光を信じ、希望を持ち生きることの大切さを知る、今年のテーマであるLuminous（ルミナス）という言葉を心の深いところで皆が考えることが大きな意味を持ちます。</div>
<div>私たちが、今の自分の平和な生活に感謝し、この光を信じ、祈りの気持ちを伝えられるクリスマス・キャロルにしていきましょう。そのために、皆で平和を願いながら、共に歌い、誰かの希望となることが出来ますように。クリスマス・キャロルまでの日々を大切に過ごして行きましょう。</div>
<div></div>
<div style="text-align: right;">A.T.（図書館）</div></div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96066/">
<title>2025年11月26日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96066/</link>
<description>&#160;最近、「失敗した」と感じた経験をした人はいるでしょうか。
なぜ私がこんな質問をしたかというと、あと1ヶ月で終わる2025年を振り返ったとき、私にとってこの1年は失敗が多かったように感じたからです。慌ただしい日々の中で、大事なことをうっかり忘れてしまったり、前もって気付けるはずのことを見落としてしまったり&#8230;。
「もっと早く気づけたら&#8230;。」「どうしてあの時、ちゃんとやっておかなかったんだろう。」
思わず笑ってしまうような小さな失敗から、誰かを傷つけてしまうような大きな失敗まで、その種類や大きさ・度合いはさまざまですが、きっと誰にでも「やってしまった&#8230;。」という瞬間があるのではないでしょうか。
例えば、ルールを破ってしまったこと。マナーを守れず、周囲に迷惑をかけてしまったこと。「今日こそ、テスト勉強しよう！」と思っていたのに、つい他のことに気を取られて、計画通りに進められなかったこと。慣れ親しんだ友人との会話で、「これくらい大丈夫だろう。」と思って言った一言が、相手を深く傷つけてしまったこと。
こうした日常の出来事も、1つの「失敗」だと言えるかもしれません。
できれば失敗は避けたいものです。失敗しないに越したことはありませんし、もちろん、そうならないように十分注意を払い、最善を尽くすことは大切です。しかし、どんなに気をつけていても、ふとした瞬間に失敗は起こります。中には、悪いと分かっていても、その場の勢いや流れで行動してしまうこともあるかもしれません。また、自分では正しいと思ってやったことが、結果的に失敗を招いてしまうこともあるかもしれません。
失敗の形や理由は、本当にさまざまです。
そのせいなのか、私たちは失敗に直面したとき、つい何かのせいにしたくなってしまうことがあるように思います。
「あの人がこう言ったから。」「あの時、こうしてくれなかったから。」「環境が悪かったから。」他の誰かや、状況のせいにすると、一時的に自分の心が軽くなるような気がするかもしれません。でもそれでは、失敗はただの「出来事」で終わってしまいます。残念ながら、起きてしまった過去や事実は変えられません。大切なのは、その経験と向き合うことです。そして、そこから何か大切なことに気づき、これからの考え方や行動を少しずつ変えていくことです。
「なぜ、そうなってしまったのか。」「同じことを繰り返さないためには、どうしたらいいか。」ちょっと視点を変えて考えてみると、失敗は自分を成長させる材料になります。
不二聖心で、とても大切にしている「振り返り」。みなさんもさまざまな場面で取り組んでいると思います。良いことも、悪いことも、成長の糧。みなさん、一人ひとりの強みにしてほしいと願っています。

ここで、私が大切にしている、マザー・テレサの言葉を紹介します。
「小さなことに忠実でいなさい。そこにあなたの強さが宿るのですから。」
高校１年生の方の中には、この言葉を覚えてくれている方もいるかもしれません。
派手なことをする必要はありません。むしろ、毎日の中で誰にも気づかれないような小さな誠実さこそが重要です。大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたか。マザー・テレサはそう語っています。
では、「小さなことに忠実でいること」とは、具体的にどんなことでしょうか。
私たち人間は、1日におよそ3万5千回もの決断をしていると言われています。その一つひとつの小さな行動や態度が積み重なって、自分自身や周りに、少しずつ影響を与えます。時には、選択の多さに疲れてしまうこともあるかもしれません。でも、日々の小さな誠実さを意識し、実践していくことが、私たちを内側から強くしてくれるのです。

　さて、明日からはプラクティスが始まります。プラクティスは、イエスさまを静かにお迎えする心の準備をする期間です。クリスマスというと、街ではイルミネーションが光り、にぎやかな雰囲気に包まれますが、本来の待降節は、静かに心を落ち着かせ、日々を丁寧に過ごす時間です。
みなさんはこの1年を振り返って、どんな小さな誠実さを積み重ねてきたでしょうか。どんな失敗をして、その中から何を学んだでしょうか。少し立ち止まって、自分自身を振り返ってみましょう。
そして、昨日より今日を、少しだけ優しく過ごす。昨日よりちょっとだけ、誠実に過ごす。その小さな積み重ねが、クリスマスを迎える心を整えてくれます。
今年のプラクティスがみなさんにとって、自分を見つめ、優しさと誠実さを積み重ねる時間になりますように。それが、みなさんを静かに、確かに強くしてくれるはずです。

今日も1日、良い日になりますように。

H.S.（芸術科）
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2025-11-26T22:35:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176416527557677400" class="cms-content-parts-sin176416527557684500"><p>&#160;最近、「失敗した」と感じた経験をした人はいるでしょうか。</p>
<div>なぜ私がこんな質問をしたかというと、あと1ヶ月で終わる2025年を振り返ったとき、私にとってこの1年は失敗が多かったように感じたからです。慌ただしい日々の中で、大事なことをうっかり忘れてしまったり、前もって気付けるはずのことを見落としてしまったり&#8230;。</div>
<div>「もっと早く気づけたら&#8230;。」「どうしてあの時、ちゃんとやっておかなかったんだろう。」</div>
<div>思わず笑ってしまうような小さな失敗から、誰かを傷つけてしまうような大きな失敗まで、その種類や大きさ・度合いはさまざまですが、きっと誰にでも「やってしまった&#8230;。」という瞬間があるのではないでしょうか。</div>
<div>例えば、ルールを破ってしまったこと。マナーを守れず、周囲に迷惑をかけてしまったこと。「今日こそ、テスト勉強しよう！」と思っていたのに、つい他のことに気を取られて、計画通りに進められなかったこと。慣れ親しんだ友人との会話で、「これくらい大丈夫だろう。」と思って言った一言が、相手を深く傷つけてしまったこと。</div>
<div>こうした日常の出来事も、1つの「失敗」だと言えるかもしれません。</div>
<div>できれば失敗は避けたいものです。失敗しないに越したことはありませんし、もちろん、そうならないように十分注意を払い、最善を尽くすことは大切です。しかし、どんなに気をつけていても、ふとした瞬間に失敗は起こります。中には、悪いと分かっていても、その場の勢いや流れで行動してしまうこともあるかもしれません。また、自分では正しいと思ってやったことが、結果的に失敗を招いてしまうこともあるかもしれません。</div>
<div>失敗の形や理由は、本当にさまざまです。</div>
<div>そのせいなのか、私たちは失敗に直面したとき、つい何かのせいにしたくなってしまうことがあるように思います。</div>
<div>「あの人がこう言ったから。」「あの時、こうしてくれなかったから。」「環境が悪かったから。」他の誰かや、状況のせいにすると、一時的に自分の心が軽くなるような気がするかもしれません。でもそれでは、失敗はただの「出来事」で終わってしまいます。残念ながら、起きてしまった過去や事実は変えられません。大切なのは、その経験と向き合うことです。そして、そこから何か大切なことに気づき、これからの考え方や行動を少しずつ変えていくことです。</div>
<div>「なぜ、そうなってしまったのか。」「同じことを繰り返さないためには、どうしたらいいか。」ちょっと視点を変えて考えてみると、失敗は自分を成長させる材料になります。</div>
<div>不二聖心で、とても大切にしている「振り返り」。みなさんもさまざまな場面で取り組んでいると思います。良いことも、悪いことも、成長の糧。みなさん、一人ひとりの強みにしてほしいと願っています。</div>
<div></div>
<div>ここで、私が大切にしている、マザー・テレサの言葉を紹介します。</div>
<div>「小さなことに忠実でいなさい。そこにあなたの強さが宿るのですから。」</div>
<div>高校１年生の方の中には、この言葉を覚えてくれている方もいるかもしれません。</div>
<div>派手なことをする必要はありません。むしろ、毎日の中で誰にも気づかれないような小さな誠実さこそが重要です。大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたか。マザー・テレサはそう語っています。</div>
<div>では、「小さなことに忠実でいること」とは、具体的にどんなことでしょうか。</div>
<div>私たち人間は、1日におよそ3万5千回もの決断をしていると言われています。その一つひとつの小さな行動や態度が積み重なって、自分自身や周りに、少しずつ影響を与えます。時には、選択の多さに疲れてしまうこともあるかもしれません。でも、日々の小さな誠実さを意識し、実践していくことが、私たちを内側から強くしてくれるのです。</div>
<div></div>
<div>　さて、明日からはプラクティスが始まります。プラクティスは、イエスさまを静かにお迎えする心の準備をする期間です。クリスマスというと、街ではイルミネーションが光り、にぎやかな雰囲気に包まれますが、本来の待降節は、静かに心を落ち着かせ、日々を丁寧に過ごす時間です。</div>
<div>みなさんはこの1年を振り返って、どんな小さな誠実さを積み重ねてきたでしょうか。どんな失敗をして、その中から何を学んだでしょうか。少し立ち止まって、自分自身を振り返ってみましょう。</div>
<div>そして、昨日より今日を、少しだけ優しく過ごす。昨日よりちょっとだけ、誠実に過ごす。その小さな積み重ねが、クリスマスを迎える心を整えてくれます。</div>
<div>今年のプラクティスがみなさんにとって、自分を見つめ、優しさと誠実さを積み重ねる時間になりますように。それが、みなさんを静かに、確かに強くしてくれるはずです。</div>
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<div>今日も1日、良い日になりますように。</div>
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<div style="text-align: right;">H.S.（芸術科）</div>
<div></div></div>
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<title>2025年11月12日放送の宗教朝礼から</title>
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　昨日の追悼ミサでは、静かで温かな雰囲気の中、全校で亡くなった方のためにお祈りを捧げ、大切な時間を過ごすことができました。
　この時期を迎えると思い出すことがあります。6年ほど前、私はある生徒の進路指導を担当していました。その生徒は看護師を目指していて、私たちは志望理由書の作成や面接試験に向けて対話を重ねていました。ある日、その生徒から「先生は身近な人を亡くしたことがありますか」と聞かれました。「ある」と答えると、その時どんな気持ちだったか、どうやって身近な人の死を乗り越えたのかを聞きたいと言われました。彼女は今まで身近な人の死を経験したことがなく、看護師という人の生死に関わる道を志すなか、人の死とどう向き合うのかということについて不安に感じていたそうです。彼女が勇気を出してその問いを考えようとしていること、真剣に向き合おうとしていることが伝わってきたので、私はうまく答えられなくても、本当に心で感じたことを伝えて一緒に考えたいと思いました。そこで4歳から17歳まで一緒に暮らしていた私の祖母のことを話しました。
子どもの頃の私はおばあちゃん子で、家に帰ってくると祖母の部屋に行き、一緒にお茶を飲みながらお話して過ごしました。生活の基本的なことの多くは祖母から教わりました。私が中学・高校に上がる頃には、祖母は体調を崩して入退院を繰返すようになり、私も部活や塾などで一緒に過ごす時間は少なくなっていきました。高２の終わりごろに祖母を亡くしたとき、私はもっと祖母のお見舞いに行っていればよかった、介護ももっと手伝えば良かった、あんなにかわいがってもらったのに、おばあちゃん孝行できなかったと後悔しました。母にそのことを話したら「おばあちゃんの人生は苦労が多かったけれど、孫と過ごした時間が人生で一番幸せだった。生まれてきてくれたことがおばあちゃん孝行だった。だから何も心配しなくていい。」と言葉をかけてもらい、少しずつ祖母の死から立ち直ることができました。
その生徒との対話を通じて、祖母の死について改めて向き合うことができた後、ちょうど昨日のように追悼ミサに与る機会がありました。そのごミサの中で、神父様が「私たちは亡くなった人のためにお祈りをするけれど、亡くなった人もまた私たちのために祈ってくれている」とお話し下さり、それを聞いてはっとさせられました。わたしは今まで、自分の進路や人間関係、仕事のことなどで思い悩んだときに、祖母の部屋で過ごした時を思い出すことがありました。以前それは、自分の心が弱っていて、幼い時のことを思い出して安心したいからだと思っていました。でもその時から、「今、祖母が私のためにお祈りしてくれている」と感じるようになりました。「亡くなった人はいつでも見守っていてくれる、お祈りしてくれている」という言葉は以前にも聞いたことがあり、信じていたつもりではありましたが、まだ実感を伴っていませんでした。そのときから「単なる聞いたことある話」ではなく私にとって「真実」になりました。そして大切なことに気づく機会をくれたあの生徒にも、また一つ発見があったと早く伝えなければと思いました。
私と話したことで彼女が何を感じたのか、何か得るものがあったのかは分かりません。問いの答えは彼女が自分の人生の中で見つけていくものだと思います。これからも日々の生活の中で頭を悩ませる難問に出会い、今信じているものが明日は信じられなくなることもあるかもしれません。それでも一つひとつのことに真摯に向きあうことで、素晴らしい気づきや出会いもまたあるのだと信じて歩んで行きたいと思います。以上で宗教朝礼を終わります。
M.O.（社会科）
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<dc:date>2025-11-12T21:55:00+09:00</dc:date>
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<p>　昨日の追悼ミサでは、静かで温かな雰囲気の中、全校で亡くなった方のためにお祈りを捧げ、大切な時間を過ごすことができました。</p>
<p>　この時期を迎えると思い出すことがあります。6年ほど前、私はある生徒の進路指導を担当していました。その生徒は看護師を目指していて、私たちは志望理由書の作成や面接試験に向けて対話を重ねていました。ある日、その生徒から「先生は身近な人を亡くしたことがありますか」と聞かれました。「ある」と答えると、その時どんな気持ちだったか、どうやって身近な人の死を乗り越えたのかを聞きたいと言われました。彼女は今まで身近な人の死を経験したことがなく、看護師という人の生死に関わる道を志すなか、人の死とどう向き合うのかということについて不安に感じていたそうです。彼女が勇気を出してその問いを考えようとしていること、真剣に向き合おうとしていることが伝わってきたので、私はうまく答えられなくても、本当に心で感じたことを伝えて一緒に考えたいと思いました。そこで4歳から17歳まで一緒に暮らしていた私の祖母のことを話しました。</p>
<p>子どもの頃の私はおばあちゃん子で、家に帰ってくると祖母の部屋に行き、一緒にお茶を飲みながらお話して過ごしました。生活の基本的なことの多くは祖母から教わりました。私が中学・高校に上がる頃には、祖母は体調を崩して入退院を繰返すようになり、私も部活や塾などで一緒に過ごす時間は少なくなっていきました。高２の終わりごろに祖母を亡くしたとき、私はもっと祖母のお見舞いに行っていればよかった、介護ももっと手伝えば良かった、あんなにかわいがってもらったのに、おばあちゃん孝行できなかったと後悔しました。母にそのことを話したら「おばあちゃんの人生は苦労が多かったけれど、孫と過ごした時間が人生で一番幸せだった。生まれてきてくれたことがおばあちゃん孝行だった。だから何も心配しなくていい。」と言葉をかけてもらい、少しずつ祖母の死から立ち直ることができました。</p>
<p>その生徒との対話を通じて、祖母の死について改めて向き合うことができた後、ちょうど昨日のように追悼ミサに与る機会がありました。そのごミサの中で、神父様が「私たちは亡くなった人のためにお祈りをするけれど、亡くなった人もまた私たちのために祈ってくれている」とお話し下さり、それを聞いてはっとさせられました。わたしは今まで、自分の進路や人間関係、仕事のことなどで思い悩んだときに、祖母の部屋で過ごした時を思い出すことがありました。以前それは、自分の心が弱っていて、幼い時のことを思い出して安心したいからだと思っていました。でもその時から、「今、祖母が私のためにお祈りしてくれている」と感じるようになりました。「亡くなった人はいつでも見守っていてくれる、お祈りしてくれている」という言葉は以前にも聞いたことがあり、信じていたつもりではありましたが、まだ実感を伴っていませんでした。そのときから「単なる聞いたことある話」ではなく私にとって「真実」になりました。そして大切なことに気づく機会をくれたあの生徒にも、また一つ発見があったと早く伝えなければと思いました。</p>
<p>私と話したことで彼女が何を感じたのか、何か得るものがあったのかは分かりません。問いの答えは彼女が自分の人生の中で見つけていくものだと思います。これからも日々の生活の中で頭を悩ませる難問に出会い、今信じているものが明日は信じられなくなることもあるかもしれません。それでも一つひとつのことに真摯に向きあうことで、素晴らしい気づきや出会いもまたあるのだと信じて歩んで行きたいと思います。以上で宗教朝礼を終わります。</p>
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