シスター・先生から(宗教朝礼)

2015.02.25

2015年2月25日放送の宗教朝礼から

これから宗教朝礼を始めます。
2014年1月27日に可児藤吉という生態学者を取り上げて読書会を行いました。この読書会は、参加した生徒のみなさんの生き生きとした反応、真剣なまなざし、深い感想が印象として心に残り、僕にとって忘れ難い読書会となりました。この読書会で取り上げた可児藤吉は、今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた生態学者であり、河川環境についての様々な調査をしたことで知られています。例えば彼が1936年から1937年にわたって行った調査に「加茂川の水温同時観測の記録」という調査があります。これは京都の加茂川の上流から下流までの4つの地点で1時間おきに24時間水温をはかるという調査です。2年間に計5回の調査を実施しました。調査機器の発達していない時代、調査は人間の力で行うしかありませんでした。4カ所で5回ですから、彼を除けば計15人の調査担当者が必要ということになります。その徹夜の調査に、のべ15人の京都大学の研究者仲間が協力をしました。この事実は、可児藤吉という人物がいかに人望のある人であったかを示しています。協力者の一人、内田俊郎は、「これらは皆、強く依頼されたからやった手伝いではなく、私たちの友情に基づくものだったことは言うまでもない」という言葉を残しました。
可児藤吉に興味を持って調べ始めたころ、資料が乏しくなかなか彼の業績を知ることはできませんでした。唯一、水温同時観測の協力者であり後に京都大学名誉教授となった森下正明の研究記念財団のホームページだけが、詳しく可児藤吉の業績について伝えていました。それだけではありません。可児藤吉全集に収められている文章のほとんどが電子データとしてホームページにアップされていたのです。全集の文章を電子データ化してアップするのは、容易なことではありません。しかもそのホームページは森下正明のホームページであって、可児藤吉のホームページではないのです。なぜこんなに惜しげもなく親切な情報提供がなされているのか、可児藤吉について調べながらいつも不思議に思っていました。
2015年1月、あることがきっかけで、ホームページの管理者の方と知り合うことができました。その方は大阪府堺市にあるプール学院大学教授で森下正明京大名誉教授の甥の丸山政行先生でした。先生は、ある志を持ってホームページでの情報提供をなさっていたのでした。
その志には可児藤吉の歩んだ人生が深く関わっていました。
可児藤吉は、1943年に一兵卒として召集され、船で南方の戦線へと向かうことになりました。そして1944年7月18日にサイパンで戦死します。丸山先生は、可児藤吉の無念の戦死を思い、このような悲劇を繰り返さないために、可児藤吉の業績を世に詳しく伝える活動をなさっていたのでした。最初にいただいたメールには、「可兒先生の戦死 この悲しい事を繰り返さないため平和への誓いを強くして、教鞭をとっています。」とありました。
読書会で僕が伝えようとしたことと同じことを丸山先生もお考えになっていたことを知り、深い感動を覚えました。
可児藤吉は戦地に向かう前に、友人の牧野四子吉、文子夫妻の家に一泊します。その時、彼は、「どこへ、どんな島へ行くのかしれないけれど、そこでまた何か出来ることを勉強しよう、ノートと鉛筆だけはうんと持っていくのだ」と言ったそうです。文子さんは、そんな可児藤吉のために、黒いラシャのきれで、可児藤吉が用意した鉛筆30本を入れるための袋をつくってあげました。
1944年7月7日にサイパンで世界史上、稀にみる愚かな作戦が実施されます。当時サイパンにいた日本兵のほぼ全員の約4000人が兵力において圧倒的にまさるアメリカ軍に万歳を叫びながら突入していったのです。この中に可児藤吉が含まれていた可能性は高いと思われます。この「バンザイ攻撃」で重傷を負った可児藤吉が約10日後に死亡したのではないかと僕は想像しています。
牧野文子さんは、1944年10月19日に可児藤吉の墓参りをします。可児藤吉の墓には、白木の角棒に「故陸軍上等兵可児藤吉の墓」と書かれていたそうです。軍国主義を憎んだ可児藤吉の肩書が陸軍上等兵とだけ書かれ、彼が研究員として所属していた川村多実二先生の京都大学動物学教室の名前はどこにも書かれていなかったのです。
2015年1月以降、可児藤吉に関係することで、いくつか新たに知り得たことがありました。一つは、可児藤吉の出身地の岡山県勝央町が、裾野市に近く不二聖心に通う生徒も住んでいる小山町と姉妹都市であるということです。小山町は金太郎のモデルとなった坂田金時の生まれた土地で勝央町は終焉の地という縁から生まれた姉妹都市関係です。偶然にも勝央町を以前に訪ねたことのあった父からは、「勝央町史跡・文化財ガイドマップ」が送られてきました。おかげで可児藤吉という優秀な生態学者を育てた町の文化的風土を知ることができました。丸山先生は勝央町に可児薬局という薬局が今も存在することをお調べになりました。可児薬局は可児藤吉と関係のある方の薬局である可能性があり、もしそうだとすれば、ほとんど資料が残されていない可児藤吉の少年時代、青年時代についても新たに知ることができそうです。丸山先生からは、「蒔苗先生が授業で取り上げられた事を知ったのをきっかけに、また坂田金時とのご縁もあり2月~3月の春の研究期間中に(勝央町を)訪ねてみようと思っています。」という、嬉しいメールをいただきました。
可児藤吉について一つ知るごとに、可児藤吉への思いが一つ深まり、戦争について改めて考え、今もサイパンの地のどこかに埋っているであろう、鉛筆の入った黒い布袋のことを思っています。不二聖心にとって、戦後70年の2015年に、朝礼で新たにアシジの聖フランシスコの「平和の祈り」を唱えるようになったことは、たいへん意味のあることです。これからも可児藤吉について学び続け、心を込めて「私をあなたの平和の道具としてお使いください」という祈りを唱えていきたいと思います。
これで宗教朝礼を終わります。
                                   H.M.(国語科・宗教科)

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