シスター・先生から(宗教朝礼)

2021.02.17

2021年2月17日放送の宗教朝礼から

 おはようございます。宗教朝礼を始めます。

「宗教」を意味する英語の “religion”という単語。皆さんはその成り立ちを知っていますか?
ある説によれば、re-ligare という言葉から来たといわれています。 “re”には「再び」、 “ligare”には「結ぶ」の意味があり、 “religion”とは、「神様と人間がその関わりを何度も結びなおすこと」を意味します。これはキリスト教を指すと考えられます。罪をおかして神様から心が離れてしまった人間が、イエス・キリストの死と復活を通して、再び、神様との結びつきを作り直せる宗教。皆さんに一番わかりやすい言葉で言うなら、「神様は何度でもあなたを許してくださる、そして再びあなたに期待してくださる=何度でも生き方をやり直すことを認めてくれる宗教」がキリスト教ということです。ここには、神様の愛の深さがあらわれていると思いませんか?
私は、不二聖心の卒業生ではありませんが、皆さんと同じように、カトリックの学校で中高時代をすごしてきました。楽しいこともたくさんあったはずですが、なぜか今思い出すことは、中学から高校にかけて、常に心に抱えていた「もやもや」です。中3のある時期から「なぜ私は生きているのか?」「なんのために生きているのか?」「なぜこの学校で学んでいるのか」「自分はどこに向かって歩んでいるのか」なんだかよく分からなくなり、一人になったとき、夜寝るとき、いつもこの問いがぐるぐるするようになりました。答えのない問いです。
沢山勉強して臨んだはずのテストなのに、戻ってくると、ケアレスミスが色々あったり、些細なことで親から注意をうけたり、友達との関わりのなかで、言わなくてもよい一言を言ってしまって、相手とぎくしゃくしてしまったり・・・と「自分はなんてだめな人間なんだろう」と、自分の理想と現実のギャップにとても悲しく毎日でした。そんなある日、校長先生だったあるシスターが、全校集会で、「100%完璧な人間などどこにもいません。不完全だからこそ人間らしいのです。足りない自分、弱い自分、小さい自分を、ありのままの自分の姿として受け止めてあげましょう。あなたが足りないと持っていることは、神様のまなざしもとでは関係ありません。」と仰いました。この「ありのままの自分を受け止めればよいのですよ」という言葉が当時の私の心にとても深く響きました。
 世間一般では、失敗よりも成功を、過程よりも結果を出すこと、できないよりできること、
弱いよりも強くあることが、その人が社会で認められる基準のように考えられています。ですがキリスト教の視点に立った時、神様の目線での人の価値基準は、人間目線での価値基準をはるかに超えた、別の次元に存在することを実感した時でもありました。
 100%ではない欠けたところのある「わたし」や「あなた」に、神様は特に目を注いでくださる、という考え方は、私自身にキリスト教の学校で学べてよかった、という安心感を与えてくれました。
 
新約聖書 ルカによる福音書19章に次のようなたとえ話が載っています。
「徴税人ザアカイ」
 
  イエスはエリコに入り、街を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は
徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので群衆に遮られて見ることができなかった。それでイエスをみるために走って先回りし、イチジク桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所にくると、上を見上げて言われた。ザアカイ急いで降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。ザアカイは急いで降りてきて喜んでイエスを迎えた。これを見た人はみなつぶやいた。「あの人は罪深い男のところにいって宿をとった」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かをだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」イエスは言われた。「今日救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われたものを救うためにきた。」
(『聖書』日本聖書協会 新約聖書 ルカによる福音書19章1節~10節より)
当時ローマ人の手下となって、ユダヤ人から税金を必要以上に多く取り立て私服をこやしていたことで、お金持ちではあったけれどもユダヤの社会では嫌悪され差別されていた徴税人のザアカイ。皆がイエスを見ようと集まる中、ザアカイも一緒にやってきましたが、背が低く徴税人である彼に誰も周りは気をとめようとせず、彼はイエスが見ることができませんでした。そこで大きな木の上にのぼり、そこからイエスを見下ろしていたら、通りかかったイエスがなんと最初に声をかけたのはこのザアカイだったのです。「おりてきなさい、今日はあなたの家にとまりたい」というイエスの言葉によって、ザアカイは、はっと立ち上がり、それまで税金をとりたてていた自分から、「財産の半分を貧しい人に施し、だれかからお金をだましとっていたら4倍にして返します」と、生き方と180度、変えていきます。
このお話は、心が神様から離れていた人が神の愛の眼差しにふれ、生き方の軸を神様のほうへ戻していく、回心のたとえ話として、よく読まれます。
このお話から、足りないところだらけの人間であっても、ありのままを受けいれ変わっていきたいと望んだ時、神様が力を貸してくださる、仮に、心が神様から離れていたことがあっても、そういう自分に気がつき、もう一度本来の自分に立ち戻りたいと切に望めば、それは神に届き、いつでも受けいれてくださるというメッセージを私は受け取りました。まさに、最初に話した「宗教」を意味する英語religion の語源、re-ligare 「神様は再び人間との結びつきを作り直してしてくださる=弱いあなたを受け止め、いつも期待し続けてくださっている」ことにつながります。
中学2年生は祈りの会の2日目をむかえています。他の学年は明日から祈りの会を過ごします。カトリック教会では、今日は「灰の水曜日」にあたり、今日から、復活祭(イースター)にむけて、四旬節という大事な期間が始まります。自分を振り返り、神様から離れていた自分の心の軸を、再び神様に向け直していく時期です。ありのままの自分の弱さ、足りなさをうけとめ、生き方を変えていく喜びの日々としていくことができるよう、祈りたいと思います。
                       
   これで宗教朝礼終わります。
                              (英語科・宗教科 Y.S)