シスター・先生から(宗教朝礼)

2022.10.19

2022年10月19日放送の宗教朝礼から

 

おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。 

後期の授業が始まり一週間がたちました。みなさん、前期や試験の振り返りをし、新しい気持ちで学校生活に取り組んでいることと思います。秋のつどいも近づき、忙しい日々を送っている人もいるでしょう。 

さて、皆さんはなんのために学んでいますか?

「なんのために学ぶのか」。たびたびこの宗教朝礼でも取り上げられるテーマで、私も生徒の皆さんから質問されることもよくあります。私の場合、その答えは一つではなくて、時や場合・相手によって変わることもありますし、考え直したり何通りも出てきたりします。今回はそのうちの一つを皆さんと共有したいと思います。

私はこの夏、幼児虐待や少女にまつわる危険をテーマにした本を何冊か読みました。そのうちの一冊は以前不二聖心にも講演に来てくださった石井光太氏のもので、子どもを虐待した親や、その親、周辺の人々に丁寧にあたったルポルタージュです。その中で石井氏が述べていることは、「我々は虐待で子どもが亡くなると、その親を、なんてひどいことをするのだ、とまるで鬼畜のように非難する。しかしその親は本当に鬼畜のような人間なのか」ということです。私も実際、本を読む限りでは、虐待した親のことを鬼畜のようには思えませんでした。代わりに何回も思ったのは、「なんでこんなことになるのだろう」ということです。

私が本を読んでいて感じたのは、子どもを虐待で殺してしまった親やその近しい人、たとえば親のさらにその親、兄弟、母親の再婚相手や恋人など、に共通していることは、「教育をちゃんと受けていない」ということです。声を大にして言っておきますが、ここで言う「教育」というのは、学校の成績を高くするためのものではありません。こつこつと物事に取り組む集中力と忍耐力、挫折してもあきらめないで努力すること、そこから得られる達成感、周囲と関係を保つこと、責任感、そして何より、「自分で考える力」を学ぶための教育です。虐待した母親はそろって「子育ての方法も、どうしたらいいかも誰も教えてくれなかった」「どうしたらいいかわからなくて、でもなんとかなると思った」と言っています。子育ては本当に大変です。育児書や子育て支援、インターネットなど、情報を知るところはありますが、それは一つの型であって、自分の場合に当てはまるとは限りません。もちろん喜びや楽しみもたくさんありますが、子育てはそれ以上に不安と忍耐の連続です。この本に出てくる子どもの親やさらにその親たちは、大変な事態を前にしたとき、「どうしようどうしよう」「なんとかしなきゃいけないけどわからないからそのまま」「そのうちなんとかなるでしょ」と自分で考えることを放棄して安易で楽な方に流されてしまいます。しかし、彼らを責めることこそ安易にしてはいけない、と思います。彼らはそれらを「教えてもらっていなかった」のです。教えてもらったことのない、身についていないことを急にやれと言われてもできないのは当然です。

では、集中力や忍耐力、努力すること、達成感、人間関係を保つこと、責任感、そして「自分で考える力」、を学ぶのはどこでしょう。それはやはり学校です。学校は、知識や教養を身につけながら、いえ、もしかしたら知識や教養の方が後回しでいいかもしれません、それよりも忍耐力や努力、考える力を身につける場所なのだと私は思います。

ディズニーランドや話題のお店などで行列を作っている人を見ると、私は自分のことも含めてよく思います。「こんなに長時間並んでいても誰も文句を言わない。しかしそれなら、なぜ運転していて前のクルマが遅いとイライラしたり煽ったりする人がいるのだろう。レジが遅いだけで腹を立てたり、前の人で改札が閉じてしまって舌打ちしたりする人がいるのだろう。なぜここでこんなに待てるのに、別の場所では待てないんだろう」。それはつまり、自分のしたいことならできるけれど、自分が望まないことはイヤ、と思っているからだと思います。しかし、世の中は自分の好きなことだけしてはいられません。自分の好きなことだけやっていられるならいいのです、だって好きだからスイスイできちゃう。文句もありません。しかし、それだけだと、何か大変なことが起きたり不測の事態になったり、自分がしたくはないけれどしなくてはならないことに直面したときに、対応できません。だって「身についていない」のだから。

だから学校は校則も厳しいですし、勉強を頑張りなさいと言うし、提出物や宿題など口うるさく言います。私は国語の教員なので国語に関して言えば、作文、多くの人は作文と言うだけで「げー」と言います。「私は自分の頭の中でわかっているから書く必要はないんです」と言う人も。でも、そう、「自分だけ」しか分かっていないんです。作文にすると、読む「相手」のことを意識するから上手に書かなきゃ、と思い、それがイヤなのだと思いますが、この「相手を意識する」というのは社会においてとても大切なことだと皆さんわかりますね。相手に自分の気持ちや考えを言葉で伝えることは大切です。だから最初は下手でもいいのです。繰り返しやってみることで上手になっていき、学校を卒業する頃、それは生きていく上で大切な力になっていることでしょう。数学もそうです。こんな公式や定理、他のどこで使うんだ!?と私も学生時代は何度も叫びましたが、多くの人にとってはそれを覚えることが最終目的ではありません。順を追って論理的に答えを導いていくことが大切なのだと思います。Aという要素とBという解き方とCという公式があって、それらを組み合わせて考えるとこうなるんだなと、自分で根気強く考えて答えにたどり着く力がいちばん重要なのだと思います。他の教科についても同じです。単語や用語の暗記、提出物を期限通りに出す、なども、それだけが目的ではなく、ちゃんとそれを「教えてもらって」、そして「自分で考えて」行っていくという力を身につけるためのものだと思います。

とは言っても、イヤなものはイヤなんだ!と思う人はいるでしょうね。私も勉強はあまり好きではありませんでした。それもあって、私は「学生時代に戻りたい」なんて思ったこと一度もありません。二度と戻りたくないです。でも、大人になって「勉強していて損した」と思ったことはただの一度もありません。逆に、授業をしていて、同僚の先生方と話していて、ニュースや本を読んでいて、子育てをしていて、「あのとき勉強していてよかった、これを知っていてよかった」と思うこと、学んでいなければ知りえなかったこと、気づけなかったことは数え切れないくらいあります。

最初の話に戻って、本に出てきた親たちは、学校に行っていない、やめてしまった、という人がほとんどでした。彼らは忍耐も達成感も自分で考えることも知らないまま親になり、またその子どもも同じ道をたどってしまうことが多いそうです。幼児虐待をなくすには、子どもを産み育てる環境を整えるまえに、その前のもっと前のところできちんとした「教育」をすることが大事なのだと私は思います。虐待に限らず、今起こっているさまざまな問題にも、これは絶対に必要です。幸いにも私は教師なので、皆さんと「なんのために勉強するのか」について、これからも真剣に考えていこうと思います。 

これで宗教朝礼を終わります。

M.S.(国語科)