シスター・先生から(宗教朝礼)

2016.05.11

2016年5月11日放送の宗教朝礼から

 おはようございます。宗教朝礼を始めます。今日は、皆さんにひとつ考えて頂きたいことがあります。それは、「私たちは、なんのために生きているのか。」ということです。私は時々、ふとこのような疑問が頭に浮かぶことがあります。そこで今回はひとつ、「人間の生き方」に焦点を当ててお話をしたいと思います。

 皆さんは今、生きているという実感がありますか。もちろん、朝起きて、身支度をして、学校に来ているわけですから、死んでいるはずはありません。毎日友人に会い、勉強をして、ご飯を食べ、お喋りをして、他にも様々な活動を通して、1日を終え、眠りにつきます。こうした日常的な出来事は、普段、無意識のうちに繰り返されています。ある意味、皆さんにとっては「当たり前」のことです。ですが、この日常は、果たして本当に「当たり前」なことなのでしょうか。もしも、皆さんが突然、人間としての能力を失ってしまったら、いったいどうなるでしょうか。
私は3年前に、初めて身近な人物の「死」を経験しました。父方の祖母は、2005年頃から「認知症」の症状が明らかとなり、その8年後に亡くなりました。
皆さんは「認知症」と聞いて、どのような印象を受けますか。よく耳にすることがあるこの病気は、様々な原因で脳の神経細胞の働きが鈍り、死んでしまうために障害が起こり、社会生活に困難が生じる状態のことを指します。症状としては記憶が失われてしまう記憶障害、判断力の低下、時間、場所、名前などがわからなくなってしまう見当識障害、また妄想、幻覚、徘徊といった精神症状や、うつ、不安感、無気力といった感情障害が起こるケースもあります。高齢化に伴い物忘れが増えていくことはある種、自然なことですが、認知症では、「自分が何かを忘れている」ということ自体も忘れてしまうのが特徴です。このような症状から、他者から相手にされなくなってしまったり、安易に認知症ということばを用いて物忘れが激しい人の行動をからかったりすることもしばしば見受けられます。
私自身も、祖母が認知症と判明する前までは、恥ずかしながら「いやな病気だな」というくらいの気持ちしかありませんでした。そして、この事実を知ると同時に、認知症の症状は「治る」ことはなく、「進行していくのみ」だということを再認識しました。現在では承認された治療薬もあるようですが、私はその時「死を待つのみ」ということを意味している現実に大きな衝撃を受けました。
祖母とも家族とも離れて暮らしていた私は、長期休暇の際などに家族と共に、祖母に会いにいき、様子を見てきました。世話好きで、遊びに行くといつも美味しい手料理を振る舞い、もてなしてくれた祖母は、だんだんと元気がなくなり、口数が減り、次第に喋ることが困難になっていきました。また、自力歩行も不能となり、食事をうまく飲み込むことができなくなる嚥下障害も進んでいきました。
明らかな症状の進行を目の当たりにし、祖母の夫である祖父や、息子である父は、どのような思いでいたのでしょうか。考えるだけで、心苦しくなります。ところが、祖父も父も、私たちの前では、一切後ろ向きの言動は見せず、むしろ明るく、あたたかく祖母に接していたのです。食事に招いては祖母の食事を手助けし、冗談を言って笑い合い、一緒にその場で過ごすことを第一に考えていたようでした。なかなか表情を変えることができなくなってしまった祖母にも、時折笑顔が見られたことが、今でも強く印象に残っています。介護をするだけでも一苦労であるはずなのに、できる限り祖母を1人にしないようにと、率先して家族と接する機会を作っていた父の姿は、今振り返ると、最後の親孝行だったのかもしれません。
死亡する危険が高まった祖母は入院をし、点滴による水分補給を開始して延命措置はとらず、死を迎えました。
人間は、いつどこで死を迎えるか定かではありません。もしかすると、明日、突然交通事故に遭ってしまうかもしれませんし、自然災害が起こり、平凡に暮らしていけなくなることも、日本国内において現実に起こっています。また、人間は生まれつき何かの障害をもって誕生することもあれば、後天的に生じる障害だってあります。それによって、人生が大きく左右することも、稀ではありません。
今、自分の中に、気に食わない部分や、何かの病気や、障害、あるいは、友人関係や、家庭の事情など、悩んでいることはありますか。きっと、毎日ちょっとした「嫌なこと」や「不安」に、直面しているかと思います。でも、それが人間です。1人1人個性があって当たり前です。様々な出来事や感情に振り回されながら、「自分」を確立させ、生きていくのが人間です。
私は高校時代に、ある聖書の箇所に触れ、それ以来いつも励まされていることばがあります。それは、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」ということばです。
いつ、何が起こるかわからない私たちの人生は、何らかの出来事によって、今までの「当たり前」が大きく変わり、試練という大きな山を登っていく必要があるかもしれません。死をもって完結してしまう私たちの人生は、突然命が失われることがない限り、様々な道を辿っていきます。祖母自身は、「認知症」という病気から逃れ、耐えたという実感を持つことはなくても、人生の最後に、家族や身近な存在である私たちに、大きな試練とあたたかい絆を与えてくれました。
たとえ苦難がおとずれたとしても、それをただ単にマイナスに捉えるのではなく、その出来事があったからこその今の自分があるのだと、胸を張って言える人生を送って下さい。きっと神様は、あなたにそれを乗り越えてほしいからこそ試練を与えるのだと思います。
これで宗教朝礼を終わります。
Y.K.(英語科)