シスター・先生から(宗教朝礼)

2016.05.18

2016年5月18日放送の宗教朝礼から

 おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。

先週の日曜日、朝からけだるく、掃除機をかけているのもしんどくなって、横になっていました。昔からそういう体質で、病気ではないので心配は不要なのですが、たまにこんなことがあるので、とても不便です。
 忘れもしない高校1年生の3月。私はいつものごとく疲れてしまって、学校を早退しました。食欲はみるみる落ち、しまいには自分では起き上がることさえできなくなり、大きな病院に入院することになってしまいました。実は、その2週間ほどの記憶があまりありません。というのも、自分が起きているのか眠っているのかもわからない状態だったのです。点滴と簡単な治療で体力は回復し、のんびりと入院生活を送っていました。
 当時の私と言えば、学校のクラスの中で孤独ではありませんでしたが、お友達と話していても、なんとなく会話も合わないし、一人で遊んでいる方が楽しいなと思っているような女の子でした。
しかし、そんな私だったのに、クラスの女の子5名ほどが病院までお見舞いに来てくれたのです。それほど話したことのないある子が、「大丈夫?何か気が紛れるものって思って、これ買ってきたよ!」と言って何冊もファッション雑誌をプレゼントしてくれました。そして、お金を出し合って買ってきてくれた、デパートの特別なプリンをみんなで食べて。久しぶりに授業の話や、お友達の話、先生の話をきいて、驚いて、笑って。「一人が好き」なんて思っていた私なのに、友達って、いいな、と心から思いました。本当に、本当に嬉しかったのです。彼女たちには、今でも感謝しています。
彼女たちが私にくれた思いやり。彼女たちにとっては、私はクラスの仲間であり、毎日べたべたと仲良くしていなくても、何かあるときは助けてあげて、優しい言葉をかける必要のある、大事なクラスメイトだったのだと思います。
もう一つお話をしましょう。
私の大好きなアニメのワンシーンです。ある血のつながらない幼い兄弟が、お互いがお互いを受け入れられないままいました。悪者に追われていた二人は、それぞれが牢屋に入れられてしまいます。牢屋と牢屋の間は、手を伸ばせばお互いの指ぐらいはつかめる範囲です。食事も与えられず、何日も日が過ぎていきました。二人はお腹がすいて、このまま餓死するのではないかと思っていたその時。弟の手元になぜかりんごが転がってきます。兄は言います。「そのりんごはお前のものだ。お前はこれで生き延びられる。」しかし、弟のとった行動は、意外なものでした。半分だけ食べて半分残った林檎を、牢屋から手をめいっぱい伸ばして、兄に渡そうとしているのです。兄も手をめいっぱいに伸ばし、りんごを受け取りました。一つのりんごを二人で割って食べることで、二人は結果、生き延びることができたという印象的なシーンです。
りんごの象徴的な意味に関しては様々な伝説や言い伝えがありますが、今のお話は、「生命」の象徴として作られたのではないかと思います。真っ赤なりんごは「命」そのものであり、血のつながらない二人が、「命」そのものを分け合うことで、共に生きていく運命を背負う。もっと言えば、半分残ったりんごは兄を思いやる心そのものであり、「心」を分かち合って食べたとも考えられるでしょう。
みなさんは、4月の新年度祈りのつどいの際に、林檎ではなくとも、パンを分け合いました。
聖書の中に「私の信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえもわたしにそむいてくびすをあげた(詩篇41-9:聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌)」とあるように、キリスト教におけるパンには「信頼」という意味が込められています。
それよりも大切なのは、パンはキリストの肉体、ぶどう酒は流された血を表すということでしょう。ミサで洗礼を受けた信者は、キリストの一部であるパンとぶどう酒を拝領することで、キリストへの信仰を誓います。この時のパンは、「聖体」と呼び、洗礼を受けていなければ食べることができません。
祈りのつどいのパンは「聖体」とは異なるのですが、私にはあの日食べたパンが、信仰を越えた意味として、とても深いものだと思えて仕方ありません。 
クラスの仲間とひとつのパンを分け合うことは、仲間意識を高め、お互いの結束を強める意味があると思います。私たちがたまたま集められた集団ではなくて、共に学び合う仲間として、歩みを共にしていくために、あのパンは食べるものなのではないでしょうか。
みなさん、クラス、学年、そして学校の一人一人の仲間のことを思い浮かべてください。私たちは、1年間を共に過ごす仲間なのだから、一緒に喜んだり、泣いたり、感動したり、笑いあったり、時には意見の違いで衝突したり、いがみ合ったり、嫉みあったりすることもあるでしょう。しかし、あのパンを食べた以上、私たちは切っても切れない結びつきが生まれてしまいました。
誰かが困っている時、助けてあげなければならない時、私がその昔、友達にもらった暖かい心遣い、そして、「半分のりんご」という思いやりを兄に分けた弟と同じ心をみなさんも思いだし、行動にうつせるような女性になってください。
これで宗教朝礼を終わります。
M.O.(国語科)