シスター・先生から(宗教朝礼)

2017.02.01

2017年2月1日放送の宗教朝礼から

 これから宗教朝礼を始めます。

スコセッシ監督の映画『沈黙』の公開を機に、遠藤周作の作品について書かれた文章を改めていろいろと読み直しています。何度読み返しても心を打たれる文章は、高校3年生の祈りの会でお世話になった川村信三神父様のお書きになった「遠藤周作のペトロ・カスイ岐部―『銃と十字架』にこめられたもの」(『時のしるしを読み解いて』所収)というエッセイです。遠藤周作の代表作である『沈黙』と同時期に構想が練られたと言われる『銃と十字架』という作品について、神父様は次のようにお書きになっています。

 日本的・母性的な神へのあこがれと西洋的・父性的神の厳格さの間に、日本人はどれほど苦悩したか。そのテーマを遠藤周作ほど徹底して追い続けた作家はおらず、今後も現れそうにない。最晩年の『深い河』に至るまで、遠藤は、日本人の信仰のありかたを、どちらかといえば、弱く、模範的でない、普通の人間の中に見いだし続けた。
 しかし、私にとっては、『沈黙』や『深い河』以上に強烈に印象づけられた遠藤作品がある。ペトロ・カスイ岐部という、歴史的に忘れ去られた日本人宣教師であり殉教者の実話をもとにした『銃と十字架』という小品である。
 一般読書人向けの作品ではなく、遠藤文学の中ではあまり目立たない存在である。今となっては全集以外では読むことが困難なマイナー作といえる。作者自身、この小品が多くの読者を獲得するとは考えていなかったようだ。ただ、この作品には、誰かに理解されることよりも、作者自身が書かざるを得ない衝動を抑えきれないような迫力を感じる。『沈黙』をはるかに凌ぐ、遠藤の信仰の赤裸々な魂の叫びを聞く思いがするのである。
 
 神父様は、遠藤文学の中に「弱い人間」だけではなく、ペトロ・カスイ岐部のような「強い人」が描かれていることを忘れてはならないと説きます。有馬セミナリヨという、安土桃山時代に九州の有馬につくられたイエズス会の教育機関で学んだカスイ岐部は迫害を逃れてマカオに移り住み、司祭になるためにアラビア砂漠を横断してローマに至りそこでイエズス会に入会します。司祭となったカスイ岐部は迫害のさなかの寛永年間に帰国します。その後、彼は、幕府にとらえられて筆舌に尽くしがたい拷問を受けますが、穴吊りの刑にあっても信仰を守りぬきます。最後には、斬首され焼かれて果てます。まさに「強い人」の一生であったと言えるでしょう。
 苦難に耐えて強く生きる姿は私たちの心を打ちます。ペトロ岐部が遠藤周作の心を打ったのと同じように、僕の心をゆさぶった一人のキリシタンの女性がいます。幕末の時代に長崎の浦上に生まれた岩永マキという女性です。
明治2年(1869年)に浦上の地を追われ、迫害の結果、岡山まで連れてこられた岩永マキは、ついには日生海岸から船に乗せられ瀬戸内海の鶴島という孤島に移住させられます。重労働を課せられる中で、キリスト教を棄てることを迫られますが、岩永マキは屈することなく信仰を守りぬきました。迫害を耐え抜いたマキはついに浦上への帰郷を果します。しかし、そこに待っていたのはさらなる苦難の生活でした。栄養状態の決して良くない浦上の人たちを赤痢が襲ったのです。伝染病の流行によって多くの人が病に倒れていく中、マキは浦上の人々を必死に看病し続けます。赤痢の患者の看病をしている自分が知らないうちに家族に赤痢をうつしてしまうことを恐れて彼女は家に帰らずに仲間たちと小屋に寝泊まりして看病を続けます。看病の甲斐もなく亡くなってしまった人がいると、今度はその子供を自分の子として引き取り養育を始めます。病気の流行がおさまっても、いろいろな理由で子どもを預けたり捨てたりする人はあとを絶ちませんでした。生涯に岩永マキが自分の籍に入れた孤児は294人に及ぶと言われます。
 彼女の強さを鍛え上げていった原点はキリシタン迫害の時代の鶴島での生活にあります。僕は2年前の秋にどうしても鶴島を一目見てみたくなりました。現在は無人島になっている鶴島に定期便で渡ることはできませんが、他の場所から一目見ることは可能ではないかと考え、車で日生海岸に向かいました。先ず鹿久居島に渡り、さらに別の橋を渡って頭島に行きました。頭島で車を降り、しばらく貝殻が堆く積まれた海岸の道を歩いて途中から岩場を進み釣り客に訪ねながら何とか鶴島の見える場所を目指しました。やがて釣り客もまばらになり、岩場をさらに少し進むと海の向こうに浮かぶ小さな島が見えました。それが鶴島でした。明治3年(1870年)に島に送られた浦上のキリシタンは117名、明治6年(1873年)に信仰の自由が認められるまで島での生活は続きました。開墾と改宗を強いられる厳しい暮しの中で18人が命を落しました。その中にはマキの父親も含まれています。キリシタンの強さのシンボルのように瀬戸内の海に鶴島はありました。
 島での厳しい暮らしは岩永マキに赤痢をも恐れぬ行動力を培い大勢の孤児を我が子として育てる大きな愛を育みました。どんな苦難も私達にとって必ず向き合う意味があります。それはその苦難によって私達は確実に強められていくからです。多くのキリシタンはそのことを私たちに教えてくれています。
 『沈黙』のスコセッシ監督は私が『沈黙』の時代に生きていたとして、あのキリシタンたちのように強く生きられたかどうかはわからないと語っています。我々が仰ぎ見るキリシタンの強さに、困難な時代を生きる私たちは今こそ学ぶべきではないでしょうか。
 これで宗教朝礼を終わります。
H.M.(国語科・宗教科)