シスター・先生から(宗教朝礼)

2018.05.16

2018年5月16日放送の宗教朝礼から

  4月から不二聖心に入ったみなさん、早いもので不二聖心での生活も一か月がたちました。

お友達の名前は全員覚えましたか?迷路のような学校の教室の場所は覚えたでしょうか。
私自身、新しいことの連続や新年度の忙しさに、このままではいけないと思いながらも慌ただしい生活を送りながら、あっという間に一か月過ごしていたように思います。
 大型連休中に実家に帰った際にあるお話に出会いました。今日はその一部をそのままご紹介したいと思います。        
 文字にも、人間や動物と同様に魂があるんだ。魂があるから、それぞれの文字には性格もあって、いいやつもいれば意地の悪い奴もいるし、強みもあれば、弱点もある。
 ある夏の夜、いつものように文字さんたちが集まって宴会を開いていた時のことだ。困ったことに“あ”さんはいつものお決まりの自慢話を始めたんだ。「ぼくは一番偉い。なぜなら、あいうえお順でも、アルファベット順でも“あ”という音を表す文字が一番初めにくるからだ」
 そこで今度は“ぬ”さんが、「それだったら、私が一番じゃない?だって私は一番使われる回数が少ないのよ。珍しいものに高い価値が付くのは世界共通じゃないかしら。」
 他の文字たちもそれぞれ理由をつけては自分が一番だと主張し始め、大騒ぎ、そんな時誰かが大声でこう叫んだ。
 「だれが一番偉いかはわからないけど、だれが一番偉くないかは知っている。それは小さなツさ。だって彼は音を出さないから。そんなの文字でもなんでもないさ」
 あたりはしばらくの間、しーんとなった。そして突然大きな声で笑い出し、「そうそう」とうなずきながらそれっきりそのことを忘れてしまった。
 小さな“つ”はとても悲しかった。
―文字としての資格がないならこの世に僕のいる場所もないんじゃないのかなあ?
―口がきけないなら、いつまでも立派な文字になれないんだろうな。訳立たずの僕が消えて、だれがさみしがる?
そう思った小さな“つ”は置き手紙をして家を出ていきます。「僕は大切ではないので、消えることにしました。さようなら」
 ちいさな”つ”が村から姿を消した次の日、すべての印刷物から、人の会話からちいさな”つ”が消えてしまいました。すると、人々の中に大きな誤解が生まれていきます。
 ある弁護士が、依頼人に「訴えますか?それとも訴えませんか?あなたからOKがあれば訴えますよ」と言いたかったのに「歌えますか?歌えませんか?カラオケがあれば歌えますよ」と口から出てしまい、依頼人は怒って帰ってしまいます。
困った他の50音は小さな”つ”に手紙を書きます。もちろん、小さな”つ”のない状態で。
 いしゅうかんまえ、私たちは自分たちと比べて、君を取るに足らない、ちぽけな存在と言いました。
 このとき、私たちはとても大きな間違いをしたのです。君は私たちのこの世のすべての人にとて、かけがえのない存在です。
 たしかにきみは音を出せないけれど、沈黙という瞬間を作ります。沈黙がなくて、音が存在できますか?沈黙がない音とは、影のない光、谷のない山、黒が存在しない白と同じです。
 同じように沈黙がなければ、音はただの雑音でしかないのです。ほかの文字たちはどんなに努力しても、君のように沈黙を作り出すことはできません。沈黙を作り出せる君は、だれにも負けず大きな役割をになているのです。お願いです。はやくかえてきてください。ずと待ています。
 
 さて、この後の続きは今回はお話ししませんが、みなさんにとってこの話をどのように聞いたでしょうか。この作品は、「小さなつが消えた日」という題名でドイツ人のステファノ・フォン・ローさんが日本語で書いたものです。 私は、この話を読んだとき、最初に聖書のコリント信徒への手紙一 12章が思い浮かびました。知っていらっしゃる方も多いと思います。ご紹介します。
 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
  中学1年生のみなさん、入学式の日に「私たちは神様に呼ばれて集まったのだ」というお言葉がシスター大原からあったことを今一度ここで思い出してください。中2以上のみなさん、たくさんの仲間の顔を今思い浮かべていますか?
 いろんな地域に集まったみなさんは、この学校ならではのぶつかりあいがたくさんあることでしょう。でも、みなさんはそれぞれがこの学校で光るパワーとその役割を担っています。
 数日後に行われる体育大会でも同じことが言えます。同じメンバーで同じ競技をすること、同じ係、同じ応援をすること、学年でダンスを踊ることは二度とないでしょう。
 ちいさな”つ”のように、体育大会には係別を中心に、様々人がいなければ成り立つことはありません。そして、どんなに小さな仕事でも、応援一人ひとり、ダンス一人ひとりの動きも、欠けてしまっては体育大会は作り上げられないものだと私は思っています。そして、小さな”つ”のように、体育大会のあの熱気と楽しさはそれぞれが沈黙のうちに「自分が体育大会で大切にしたいことは何か」自分に問いかけ、その大切にしたいことに向かって取り組んでこそ一層増すものであるとも思います。高3を中心に作り上げた体育大会が、神様にここに呼ばれたみなさんによってこの上なく素敵な体育大会になることを祈っています。 これで宗教朝礼を終わります。
   
  参考文献:「小さなつが消えた日」 ステファノ・フォン・ロー 三修社
R.I.(英語科)