シスター・先生から(宗教朝礼)

2018.10.10

2018年10月10日放送の宗教朝礼から

 皆さん、おはようございます。宗教朝礼を始めます。

54年前の今日、東京オリンピックの開会式が行われました。皆さんは今までにオリンピックの開会式をご覧になったことはありますか?開会式は選手入場だけでなく、オリンピックの歴史や開催国独自の文化を歌や映像、演技など、様々な形で表現するため、まさに祭典の始まりといってよいでしょう。そのため、開会式の盛り上がりが大会成功のカギともいえます。1964年10月10日の東京は前日の雨とうってかわって晴天でした。開会式の実況を担当したアナウンサーは、「世界の青空を全部東京に持ってきてしまったような素晴らしい秋晴れです。」と解説するほどでした。そしてこの開会式はオリンピック史上初、衛生中継を通してアメリカやイギリスで生中継が行われました。開会式のクライマックスは、飛行機雲を使って、空に五輪の形を描くというものでした。当日は秋晴れの青空の中に、くっきりと、五輪のマークが描かれ、開会式は大成功を収めました。しかし、この企画は当日まで1回も成功したことがなく、まさに奇跡の1回が本番で起きたのです。
この奇跡の出来事は、ただ偶然に起こったものなのでしょうか?今日は奇跡についてお話したいと思います。
聖書の中に、奇跡について書かれている箇所がありますね。そこにはイエスが少ないパンと魚を増やして群衆に与えたり、ケガや病気を治されたりするなどの出来事が書かれています。なぜ、イエスはこのような奇跡を起こしたのでしょうか?自分が特別な存在であることを知らしめるためでしょうか?それともただの思い付きで奇跡を起こしたのでしょうか?私は、これらの奇跡はすべて「救いのため」にイエスが起こしたものだと考えます。人々に救いの手を差し伸べ、生きる希望をお与えになり、世の中の混乱や不安を取り除いたのではないかと考えます。では、この奇跡をうけた人々は、ただ無作為に選ばれたのでしょうか?私が思うに、彼らは空腹や病気によって、生死をさまような辛い時間を長く過ごし、なんとかこの現状を変えることが出来ないかと、あの手この手を尽くして努力を続け、もうできることが何もないと絶望のうちにひれ伏している時に、イエスからの救いの手を受けることができたのではないかと考えます。
話をオリンピックの開会式に戻します。パイロットたちは一年半も前からこの日のために準備を重ねましたが、あらゆる方法を試しても練習で成功することはできませんでした。そのため、当日に成功するまでは不安でいっぱいであったと思います。なぜなら、世界中の人々の視線が自分たちに向けられ、今までできた事のない事をやるのですから。そんな窮地に追いやられた彼らに救いの手が差し伸べられ、奇跡的に成功することが出来たんだとおもいます。
聖書の群衆とこのパイロットに共通することは、「努力を続ける」ことだと思います。当然ですが、奇跡が起こったと実感する時は、その出来事が起こった後です。それはあくまで結果論です。私たちが大切にしなければならないことは、奇跡が起こるかどうかは誰もわからないけれど、とにかく今できる最善の努力を重ねていくことだと思います。その結果、思っている成果が残れば、自分の努力を認めてあげればよいし、成果が出なければ、逃げることなく努力を続けなければいけません。聖書の空腹や病気に苦しむ群衆や開会式のパイロットも、最後まで諦めていなかったはずです。つまり、奇跡は、あらゆる努力を重ねても成果が出ず、本当に力尽きて諦めかけている時に起こるかもしれない出来事だと思います。
奇跡とよべるような出来事を経験するのは、人生の中で、1回あるかもしれなし、0回かもしれません。努力していても成果がでないこともたくさんありますし、全力で努力を続けたからといって、必ず全員が思っている結果を残すことはできません。しかし、成果がでないからといって、努力することから逃げてしまっては、小さな成果もでないし、ましてや奇跡とよべるような劇的な状況など、起こるはずがありません。
私たちはこの先の長い人生の中で、いろいろな辛い経験もすることと思います。期末試験で思う結果が残らなかった人もいるでしょう。大きな目標に向かって、先の見えないトンネルを突き進んでいる人もいると思います。なかなか成果が出ない時も、このまま進んでよいものかと不安になっても、その現状から逃げようとせずに、目の前の課題に向き合い、自分が信じる道を突き進む努力を続けていかなければいけません。それでも成果がでず、もうダメだと諦めかけたときに、もしかしたら神様が私たちに救いの手を差し伸べてくれるかもしれません。
これで、宗教朝礼を終わります。
T.H.(保健体育科)