シスター・先生から(宗教朝礼)

2019.02.27

2019年2月27日放送の宗教朝礼~

 これから宗教朝礼を始めます。

 2018年12月15日の朝日新聞に社会学者の加藤諦三が新聞記者に語った話が載っていました。
加藤諦三は、1973年にアメリカのマサチューセッツ州コンコードの刑務所で受刑者たちにインタビュー調査をしました。インタビューをしたのは強盗犯を中心とした86人で、もしインタビューをしている間に人質にとられた場合には事件解決のために射殺されることも了承するとサインした上での調査でした。
 加藤諦三は、受刑者たちに「何を最も恐れるか」という質問をしました。「貧困」という答えが12%しかいなかったなかで60%という高い割合の答えがありました。6割の受刑者が「何を最も恐れるか」という問いかけに対して、「意味のない人生」と答えたのです。加藤諦三はこの調査を通して、「人間は心の最も深いところで自らの人生の意味を求める」と確信したのです。
 この記事を読んで、以前読んだ松浦悟郎司教様の文章を思い出しました。その文章を次に引用します。
学生時代「ぼくの中の朝と夜」というドキュメンタリー映画がありました。それは筋ジストロフィーの子どもたちのベッドスクール(院内学級)を扱ったドキュメンタリーでした。そこの子どもたちにとっては、ベッドの上が学校になったり遊び場になったりしているんですね。この病気は二十歳から三十歳のあいだで亡くなるケースが多いとの解説がありました。先輩たちがだんだんなくなっていくことを彼らは知っています。そういう状況の中で、彼らは一つのことを恐れているというのです。死を恐れているのではありません。自分はなぜ不自由な身体に生まれてきたのか、自分にどんな生きる意味があるのかを知らないまま死ぬのが怖いというのです。だから彼らは生きる意味を必死になって探していました。友達としゃべる、遊ぶ、勉強する。一つ一つのことすべてに彼らの人生がかかっているような真剣な生き方でした。薄れゆく意識の中、最期までむずかしい物理の本を開けようとしている子ども。鉛筆をポトリと落とす最期のときまで、詩を書き続けていた子ども。人間は、生きる意味を知らなかったら死ぬこともできない、言い換えるなら、生きる意味を知ったとき、人間は真に死を受け入れることができる、そのことを強烈に示してくれました。
 この松浦悟郎司教様の文章に出てくる子どもたちも「人間は心の最も深いところで自らの人生の意味を求める」ことを教えてくれています。
 NHK全国中学生合唱コンクールの課題曲になったSuper flyの「Gift」という曲に「食べたいごはんがあるから生きていく意味がある」という歌詞があります。食べたいごはんがあるのは素敵なことではありますが、それは「心の最も深いところで求める生きる意味」となり得るでしょうか。おそらく難しいでしょう。「食べたいごはん」を食べてひと時の満足感にひたっても、「生きる意味を求める」心の飢えはそれだけで満たされることはないからです。
 それでは「生きる意味」を見つけるために私たちは何をすればよいのでしょう。
 2019年の秋には、教皇フランシスコの来日が予定されています。これは、38年ぶりの教皇様の来日になります。前回は1981年で、来日した教皇はヨハネ・パウロ二世でした。この年に不二聖心のヨハネパウロホールは造られています。
 ヨハネ・パウロ二世が、来日した時の記録が残っています。教皇は若者たちとの集いの中で、「何のために生きるのか、一緒に考えてみたいのです。」と若者たちに呼びかけられました。そして次のようなことをおっしゃいました。
日本の青少年の皆さん、いつも、この美しい国の自然に眼を向けてください。
特に、この自然を創られた神に眼をあげてみてください。
神の美しさと偉大さは、自然と人間の中に輝いています。
自然の美を観る時、皆さんの驚きが、ただそれだけに留まってはなりません。
『懺悔録』で有名なアウグスティヌスは、「眼を私たちのかなたに向けなさい。私たちは、神から創られたものにすぎない」という内心の声を聞きました。
皆さんも、心の奥で叫んでいる同じ声に耳を傾けてください。
 「生きる意味」を知るために教皇様が促されたのは、私たちのかなたへ眼を向けることであり、心の声に耳を傾けることでした。「Listen to your inner heart」という目標とともに歩んできた一年の終わりに、もう一度、心の深みから聞こえる声に耳を傾け、私たちの飢えを本当の意味で満たしてくれる「生きる意味」について、考えてみたいと思います。
これで宗教朝礼を終わります。
H.М.(国語科・宗教科)