シスター・先生から(宗教朝礼)

2019.06.12

2019年6月12日放送の宗教朝礼から

  おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。

「人は生きるにつれ、死と向き合うことが増える」-私が最近実感していることです。自分自身が初めて死と向き合ったのは、小学生のときでした。亡くなった母方の祖父の姿を見て、なんて人は儚い存在なんだろう、亡くなってしまったら何もかもが終わりなんだと、あのとき感じました。
 死との向き合い方が分からず、どこかで引っかかりながら生きていた20数年間、そんな自分を変えてくれたのが私の父です。あるとき、父は私に次のように語りかけました。

 自分が仕事で疲れて楽をしたいなと思ったとき、亡くなった母が「しっかりしなさい!」と自分に語りかけてくるような気がしている。だから自分はどんなに辛いときでも頑張ることができる。亡くなった母は、今もなお自分の心の中で生き続けているのだから。
 
 この話を聞いたとき、幼少期から抱え続けてきた私の心の中のわだかまりは、スッとなくなっていきました。死者は亡くなったからといって、完全にいなくなったわけではない。死者は死者として存在し、私たちにまなざしを送り続けている。そのまなざしを受けながら、より善く生きることを目指していけば良いのではないか。そんな風に考えるようになりました。
死者の存在を忘れずに生きることの重要性は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーも以下のように指摘しています。

 湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく。
 手漕ぎのボートをまっすぐに進ませるためには、進行方向と逆の方向をしっかりと見ながらボートを漕がなければなりません。人間の在り方・生き方もそれと同じように、死者が築いてきた過去をしっかりと直視することによってこそ、まっすぐ前に進んでいくことができるのではないか。それが、ポール・ヴァレリーの言葉の意味するところです。
 死について、私が最近実感していることがもう一つあります。それは、「死は理不尽にも突然訪れる」ということです。2011年3月11日に起きた東日本大震災は、そのことを多くの人に突きつけました。何の前触れもなく自分の住んできた家が流され、大切な人も突然いなくなる。そうした状況に直面している人々のことを新聞やニュースなどを通して知り、それ以来、「理不尽な死とどう向き合っていけば良いのか?」について、ずっと考えてきました。
 向き合い方は二つあると思います。「死者は完全にいなくなったと考え、理不尽な死が起こるこの世界に絶望しながら生きていくのか?」。それとも、「死者のまなざしを力とし、悲しみを乗り越えてより善く生きていくのか?」。皆さんはどちらを選びますか? 私は、死者とともに生きる後者の生き方を選びます。悲しみに打ちひしがれ、絶望している姿を死者たちは望んでいないと思うからです。きっと死者たちは、自分たちの存在を支えにしながら、より善く生きていく姿を望んでいるのではないでしょうか。
 皆さんにとって、死とは馴染みの薄いものなのかもしれません。しかし、これから生きていくなかで、きっと死と向き合うことが増えていくでしょう。あまりの悲しさや辛さに絶望してしまうかもしれません。フランスの哲学者パスカルも『パンセ』という本の中で、「死について考えると人間は不幸になってしまう」と言っています。しかし、私は「死について考えることで人は不幸になる」とは思っていません。むしろ、人は死に直面したとき、死者の存在を力に変えることで、前に進んでいくことができる、そんな存在なのではないでしょうか。
 死を目の前にして、あまりの悲しみや辛さに絶望してしまいそうになったとき、今日の話を思い出して、死者とともに力強く生きてほしいと思います。今日のこの話が皆さんの心の支えになることを願いながら、宗教朝礼を終わります。
K.K.(社会科・地歴公民科)