シスター・先生から(宗教朝礼)

2020.02.13

2020年2月12日放送の宗教朝礼から

 今日は、韓国を代表する詩人・随筆家 피천득(ピ・チョンドゥク)を紹介したいと思います。

 毎年1月、ソウル聖心のみなさんが不二聖心に来てくださいます。去年と今年、引率をなさった音楽の先生イ・ビョンジク先生が、このピ・チョンドゥク(1910-2007)を教えてくださったのです。彼の作品は、韓国の高校の教科書にも載っているそうで、大変有名なのだそうです。その中に、東京の聖心女子学院が登場する作品があり、イ・ビョンジク先生は舞台となった東京聖心を訪れることができ、大変喜んでいらっしゃいました。
題は「縁(因縁)」といい、後日私は翻訳本を手に入れました。長い作品ではないので、朗読します。
 去る4月、春川に行こうとしたが行けなくなってしまった。私は聖心女子大学に行ってみたかった。その学校に、ある秋学期、毎週1回ずつ出向いて講義をしたことがある。大変な出講を1学期間することになったのは、チュ修道女とキム修道女がわが家にお見えになったことに対する返礼もあったが、私には事情があった。
 数十年前、17歳になった春、私は初めて東京に行った。ある方の紹介で社会教育家の三浦先生のお宅に下宿することになった。芝区白金にあるその家には、ご主人夫婦と幼い娘の3人家族が住んでいた。お手伝いも書生もいなかった。目がきれいで笑い顔の朝子は、初めから私を兄のように慕った。朝に生まれたから朝子という名前がついたという。その家の庭には大きな木々があって一年草の花も多かった。私が着いた翌朝、朝子は‘スイートピー’を摘んで花瓶に挿し、私が使うことになった机の上に置いてくれた。‘スイートピー’は朝子のように幼くて可愛い花だと思った。  〈中略〉
 私が東京を離れる日の朝、朝子は、私の首に抱きつき、頬にくちづけして、使っていた小さなハンカチとはめていた小さな指輪を別れのプレゼントにくれた。隣で見ていた先生の夫人は、笑いながら“あと10年もすればよい相手になるでしょうね”と言った。私は顔が熱くなるのを感じた。私は、朝子にアンデルセンの童話の本を贈った。
 〈後略〉
(注)著作権の関係で、引用は冒頭の一部にとどめました。
出典『名作文学で学ぶ韓国語シリーズ 対訳ピ・チョンドゥク随筆集』
ピ・チョンドゥク著 李春子翻訳 (株)アルク刊 2006年
本書は絶版となっていますが、学院図書館に所蔵されています。



その後、私の心には朝子の姿が残っていた。十数年後、再び私は東京を訪れ、英文科3年の朝子と再会する。彼女は「いつの間にか清純で洗練された令嬢になっていた。その家の庭に咲いているモクレンの花のように。」私と朝子は夜遅くまで文学について語り合った。
その後、第二次世界大戦を経て韓国は独立する。朝鮮戦争もあり、私は時折朝子のことを思い巡らしていた。そうして十余年を経て1954年、私は三たび東京を訪れる。朝子はマッカーサーの司令部で翻訳の仕事をしていたことが縁で、日系2世の進駐軍将校と結婚していた。私は朝子と会うが、そこで向かい合ったのは「ユリのようにしぼんでいく朝子の顔」であった。
「恋しいと慕いながらも1度出会ってまた会えなくなったり、一生忘れられないのに会わずに生きることだってある。朝子と私は3度巡り合った。3度目は会わなかった方がよかったのだろう。」
 美しさと人生のほろ苦さの織り込まれた味わい深い作品です。私たちは自分の人生を一回しか過ごすことができませんが、こうして文学や芸術を通じてさまざまな人生を知ることができます。それが人の生き方を豊かにするのでしょう。
このお話には後日談があります。後年、朝子さんがアメリカサンフランシスコでご健在であることを韓国のテレビ番組が突き止めました。「あの人は今」というようなものでしょう。番組ではピ・チョンドゥクに朝子さんとの再会を提案したのだそうですが、彼は朝子さんについての知らせを大変喜びつつも、「若い頃の感情は、その時の感情として心にとどめる方がよい」と言って最後までひきとめたと言います。このお話も素敵だと思いませんか。

今週卒業を迎える高校3年生の皆さんにも、人生における豊かなお恵みがあることをお祈りしています。
国語科(M.H)