シスター・先生から(宗教朝礼)

2020.04.22

2020年4月22日の宗教朝礼から

 新年度が始まりました。今年は例年と違う春を迎えています。様々な不安や、環境が異なることによるストレスを抱えている人もいるかと思います。

新型コロナウイルスの影響により、世の中の状況や身近な生活が大きく変わる中で、記憶に残っていたあるお話を思い出しました。それは日本カトリック小中高連盟が年3回発行している『よき家庭』に掲載されていた、カトリック名古屋教区の松浦司教様が寄稿された文章です。読まれた人もいるかと思いますが、以下にご紹介します。
「いつも喜んでいなさい」、本当に?
聖歌にある「いつも喜んでいなさい」(一 テサロニケ5:10)とそれに続く言葉は広く知られ、好まれて引用されます。
しかし、どこかで「それは無理!」と感じている人も少なくないと思います。うまくいって喜んでいるときに「喜びなさい」という言葉は感情的にぴったりくるかもしれませんが、苦しくてとても喜べない時にこの言葉は合わないし、無理と思ってしまうからです。
以前、こんなことがありました。教区の社会活動センターに、難民申請したいが助けてほしいと数名のアフガニスタン人がやってきたのです。その背後にはもっと多くのアフガニスタンの人がいるでしょうし、彼らがどんどんやってきたらどうしよう、いったん受け入れたら教会の小さな力で本当にできるだろうか、などなど不安材料は一杯でした。しかし、スタッフたちは受け入れを決心しました。そこから大変な動きが始まりました。難民申請はことごとく却下されるし、追い詰められている彼らの苦しみに常に接することになり、無力感にとらわれたりもしました。(省略)それから数年後、様々な経験を経て一人のスタッフが次のようにつぶやきました。彼らを受け入れるときに「予想できるしんどさ」があったが、受け入れ、関わってみて「予期せぬよろこび」があったと。
その時表現された「よろこび」とは、感情的な「うれしい」というようなことではなく、心の深いところから突き上げてくる思い、あえて表現するなら「うまくいかない、つらい、でも受け入れて本当に良かった」という「深い確信」のようなものです。しんどさがなくなったよろこびではなく、しんどさそのものが「よろこび」となっているのです。そして、その「よろこび」は、次の関わりの一歩の前に立ちはだかる「関わりからくるしんどさ」を越えていく力になっているのです。「よろこび」は人間を深いところから動かしてく力だったのです。
その意味で、「いつも喜んでいなさい」に続く「どんなことにも感謝しなさい」は私にとって大切な言葉です。
(よき家庭 2019年12月号より)
 新たなことへの挑戦や生活の変化は、時に多くのしんどさを伴い、何かによろこびを感じる余裕なんてないかもしれません。しかし、そのような中にも「予期せぬよろこび」があるのではないでしょうか。新型コロナウイルスの感染拡大を阻止するために様々な活動が制限され、不自由な生活を余儀なくされている中で、多くの人たちが新しい気づきや発見をしています。人とのつながりの大切さ、当たり前にあったものの有難さ、意識せず行っていたことの重要性など、生活が変わったからこそ気づくことができたこともあるのではないでしょうか。
 不自由な時はしんどさばかりに目を向けがちですが、今あるものに感謝し、まずは自分ができることを前向きに行うことが大切であると感じます。
 最後に、日本カトリック司教協議会認可の祈り「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」を掲載します。感染者、医療従事者、経済的に大きな打撃を受けた方々など、すべての人々に必要な助けが与えられますようお祈りいたします。
いつくしみ深い神よ、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、
今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、
感染の終息に向けて取り組むすべての人、
医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。
亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、
尽きることのない安らぎに満たされますように。
不安と混乱に直面しているすべての人に、
支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神よ、
わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、
世界のすべての人と助け合って、
この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
希望と慰めのよりどころである聖マリア、
苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。
(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)
H.K.(保健室)