シスター・先生から(宗教朝礼)

2021.06.23

2021年6月23日放送の宗教朝礼から

 おはようございます。これから、宗教朝礼を始めます。

 昨年度から高校3年生は総合的な学習の時間において、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を読み、私はそれに関する講義を担当しています。フロムはこの著書の中で、人間が抱えるあらゆる不安の根源について述べているのですが、皆さんはそれは何だと思いますか。試験に失敗することでしょうか。友達とケンカをしてしまうことでしょうか。お金を失うことでしょうか。大切な人を失ってしまうことでしょうか。フロムは、不安の根源は「孤立」にある、と述べています。フロムの言葉を引用してみます。
 「孤立の経験から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源である。孤立していると、他のいっさいから切り離され、自分の人間的能力を発揮できない。(中略)人間のもっとも強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。(鈴木晶訳『愛するということ』紀伊國屋書店 2020年 p22-p23)」と。そしてフロムは、この孤立への不安から逃れるための唯一の正しい手段が「愛するということ」なのだ、と述べています。
 そして先週、ちょうどこの話をした授業の中で、高校3年生のある人から質問を受けました。「孤独からは逃れなくてはいけないのですか」「孤立は克服しなくてはいけないものなのですか」と。とても良い質問だと思います。皆さんはどう考えますか。
 皆さんは、一人でいることに不安を感じますか。常に誰かと一緒にいないと怖い、いたたまれないと感じますか。休み時間、お昼、放課後、お手洗いに行く時、家にいる時、夜寝ようとしている時、誰かと一緒にいないと不安で心がいっぱいになってしまうでしょうか。
 哲学者の池田晶子は、人々が愛を実感するためにも、「孤独」の状態であってもかまわないのだ、と言っています。『14歳からの哲学』という本から引用します。
「本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。一人でいることに耐えられない、自分の孤独に耐えられないということだね。でも、自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求めるような友だちは、やっぱり本当の友だち、本当の友情じゃないんだ。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられる者同士でなければ、生まれるものでは決してないんだ。なぜだと思う?自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね(『14歳からの哲学ー考えるための教科書ー』トランスビュー 2003年 p100)」
 不二聖心の生活の中でも、一人になることはたびたび大切にされてきています。中学2年生以上の人は祈りの会の中で、一人で沈黙で振り返りをする、という経験を持っていますね。友達と一緒にいるのではなく、あえて一人になるように、言葉をかけられたはずです。一人になるということ、一人になって振り返りをするということは「自分自身と対話をする」ということだと私は考えます。
 対話をする、ということはとても大切な営みです。池田晶子を敬愛する一人である批評家の若松英輔は、対話に関して、次のように述べています。「会話が対話になるためには、相手のいわないこと、いわないで感じていることを、非言語的な〈コトバ〉として、みんなで感じ、支え合っていかなければなりません(『14歳の教室 どう読みどう生きるか』NHK出版 2021年 p152)」と。言葉として誰かの口から直接発されていなくても、人間は何かしらを受け取ることができます。相手と沈黙で過ごす時間も、対話の時間とすることができます。相手がいなくとも、対話はできます。「自分との対話」ということもまさにそうです。風景とも対話ができます。読書、とはすなわち、本との、そして著者との対話です。皆さんが行う日々のお祈りは、目に見えない神様との対話とも言えます。対話とは、目の前に誰かがいることが成立条件ではありません。今ここにいない、見えない存在に対して想いを向けていくことも、対話になるのです。目の前にいる人はもちろん、今ここにいない存在とも「つながり」を持つこと。それはまさに「愛するということ」に他ならない、と私は考えます。
 それでもやっぱり一人は不安だな、と思う人に向けて、エールとなる言葉を送りたいと思います。若松英輔はこの学校名にも使われている「不二」という言葉について、柳宗悦の思想を紹介しつつ、次のように述べています。「仏教には「不二」という言葉もあります。二つではない、ということなのですが、それは「一」を意味しません。二つのものが、二つのままで、「不二」である、抗しがたい「つながり」によって結びつく状態を指しています。それは、決して「ニ」になることがないもの、ともいえる。(中略)「二に在って一に達する道」、これが「不二」の世界である(若松英輔ほか『「利他」とは何か』集英社新書 2021年 p115,p118)」と。「不二」という言葉は、「二つとない」という意味があることは聞いたことがあるでしょう。ですが、それだけではなく、二つの異なる存在を結びつける、二つの異なる存在が、異なったままでつながっていく、という意味もある、ということです。あなた自身と、あなた以外の誰か、あなたとは異なる存在とを結びつけることのできる学び舎、それが不二聖心です。不二聖心に集う皆さん、勇気を持って、自分自身と向き合うところからはじめてみませんか。今日の LHRはみこころの祝日の準備、来週はみこころの祝日です。準備、活動を行いながら、目の前にはいらっしゃらない相手に対して、思いを向けてもらえたら、心を通して「対話」をしてもらえたら、心の中で強い「つながり」を持っていただけたら、とても嬉しく思います。
 これで、宗教朝礼を終わります。
S.N.(社会科)