シスター・先生から(宗教朝礼)

2021.10.13

2021年10月13日放送の宗教朝礼から

 おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。
みなさんは、この不二聖心女子学院で学んでいて、「私は神様に呼ばれたんだ」と感じたことはありますか?私は不二聖心女子学院の教員になってから、今までにそう思える瞬間が何回かありました。私は、そういう瞬間のことを、「神様に出会う」と勝手に呼んでいます。

 この3月に、私は「神様に出会う」経験をしました。3月、長い間不二聖心で宗教の授業をもってくださっていたシスター山崎渾子が、授業からおひきになりました。春休み中に開かれたささやかな送別の会で、シスター山崎は私たちに、作家の有島武郎の書いた童話、「一ふさのぶどう」のお話をしてくださいました。

「一ふさのぶどう」と聞いて、私の意識は自分の小学生の頃に一気に引き戻されました。私は子供の頃、子供部屋で2段ベッドの上段に寝ていました。頭の上には2枚の額が飾ってあって、それは、私と妹が幼稚園を卒園するときにいただいたもので、聖書のみことばが書かれた御絵が入っていました。1枚は「岩の上に家を建てた賢い人」についてのみことば(マタイによる福音書7章24~26)で、もう1枚は、みなさんもよく知っている一節、 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネによる福音書15章第5節)」と書かれていました。金縁の、けっこうしっかりした額だったので、防災上から見ると頭の上にそんな額を掛けておくのは危険きわまりないのでしょうが、私は毎日その額を見上げて眠りについていました。同じく、そのベッドには頭の上に本棚がついている作りになっていて、私はそこにお気に入りの本を並べていました。その中にあった1冊が、シスター山崎が話してくださった、「一ふさのぶどう」だったのです。

「一ふさのぶどう」は、子供向けに書かれた本当に短いお話です。横浜の山の手にある学校に通っている、絵を描くことが大好きな「ぼく」が主人公です。「ぼく」の学校は西洋人ばかりが住んでいる町にあり、先生も生徒も西洋人ばかりでした。「ぼく」は西洋人向けのホテルや会社が並んでいる通りを過ぎ、まっさおな海に軍艦や商船が万国旗を掲げている景色の中を通学しており、その風景をなんとか絵に表したいと思うのですが、「ぼく」が持っている絵の具では、あの透き通るような海の藍色や、船の水際近くに塗ってある紅色はどうしても出せません。ふと「ぼく」は、二つ年上で大柄の、クラスメイトのジムが持っている外国製の絵の具を思い出し、それがどうしてもほしくなってしまいます。あの絵の具があれば、自分の見たままの景色を描くことができる…そう思い詰めた「ぼく」はとうとうジムの机からそれを盗んでしまいました。しかし、それはすぐにジムやその友人たちに知れることになり、「ぼく」は大好きな女性の先生の前に突き出されます。その女性の先生はどうしたと思いますか?先生は、次の授業には出なくていいからここにいなさい、と言い、窓際まで伸びていたぶどうの木から一ふさのぶどうを摘んで「ぼく」の膝にのせ、部屋を出て行きます。次の日、「ぼく」はジムやクラスメイトに会うのが怖いと思いつつも学校に行きます。すると、なんとジムが校門をくぐったところで待っていて、昨日のことなど忘れたように「ぼく」の手をとって先生の元につれていってくれたのです。先生はそんなジムに「あなたはいい子。よくわたしの言ったことがわかってくれましたね」と言い、また窓から一ふさのぶどうを摘んでそれを真ん中で切り、「ぼく」とジムに分けてくれるのです。先生の真っ白な手のひらにむらさき色のぶどうの粒が重なってとても美しかった…と、お話はここで終わりです。

小学生の私にとっては、この終わり方はまったくよくわかりませんでした。だって、「ぼく」は友人の持ち物を泥棒してしまったのです。それなのに、先生に怒られることもなく、怒っていたはずのジムも次の日になったらすっかりやさしくなっていて、一体昨日の夕方に何があったんだ?!と思うのですが、肝心の先生とジムのやりとりは書いていないのです。えー、と、もやもやが残るお話でしたが、私はその本を頭の上の本棚に並べました。ぶどうと、ぶどう。何かつながりがありそうな、でもなんだかわからない…頭の上の額と本の背表紙のぶどうの字を毎日見比べながら、私は中学卒業まで過ごしました。

今回、「一ふさのぶどう」のことをシスター山崎がお話してくださったことで、そのときのもやもやが一気に晴れたような気がしました。著者の有島武郎は小学生のときに横浜のミッションスクールに通い、後にキリスト教の信者になります。横浜の山の手にある、西洋人ばかりが通う小学校。そうか、と今になればわかります。「ぼく」が通っていた学校はキリスト教の学校だったのです。シスター山崎は「神様の愛はこの『一ふさのぶどう』に書かれていることに尽きます。時間のある方は読んでみてください。」とおっしゃったので、私はもう一度、「一ふさのぶどう」を読んでみました。もちろん、読み直しても先生がジムにどんな話をしたのかは書かれていません。教師になった今、「そこが大切なんだよ~、何を話したか教えてよ~」と思う気持ちはないわけではありませんが、書いてなくても、先生が何をジムに話したのか、ジムがそれどのように受け止めたのか、なんとなくわかるような気がするのです。「神様に出会えた」と思えた瞬間でした。

毎晩毎晩、二つのぶどうを眺めて過ごした時間は決して意味のない時間ではありませんでした。私は信者でもなく、本当に偶然に不二聖心の教師になりましたが、ここにたどりつくためにあの時間があったのかもしれないと思うと本当に感慨深いです。みなさんにも、不二聖心で学んでいる時間の中で、または卒業したあとの人生の中で、「神様に出会う」「神様に呼ばれた」と思う瞬間がたくさんあったらいいな、と思います。

これで宗教朝礼を終わります。

M.S.(国語科)