シスター・先生から(宗教朝礼)

2023.12.13

2023年12月13日放送の宗教朝礼から

  試験が終わり、クリスマス・キャロルの練習週間に入りました。来週に控えた本番へ向けて練習が本格化していることと思います。さて、忙しい日々のなかですが、皆さんは心を落ち着けて沈黙を保つ時間が一日のなかでどのくらいあるでしょうか。朝8時20分のアンジェラスの鐘のときは手を止めて鐘の音に耳を澄ませ、朝礼・終礼時のお祈りの際は新たな一日のはじまりを迎えられたことやその日一日を無事に終えられたことに感謝をしながら担当の人がつくったお祈りに耳を傾けともに祈ります。登下校のバスや公共交通機関でも沈黙を守り、昼食の時には食前・食後の祈りがあります。年間を通してある宗教行事では最後に沈黙でふり返る時間があります。昨日の百合の行列でもありましたね。こうしてふり返ると、皆さんは沈黙で心を落ち着ける機会に大変恵まれていることがわかります。そして、各クラスで今行われているプラクティスもまさに静けさや沈黙を大切にしながら、自らを捧げることを通して他者のための行動を実践していく取り組みです。

 皆さんも読んだことと思いますが、辻邦生の本には、作家クリスティーヌ・ド・リヴォワールがフランスの聖心の修道院寄宿学校にいた時のことが書かれています。幼いクリスティーヌは、自分が声を発してしまえば貧しい子どもにジャガイモがわたらなくなるのだ、と自らに言い聞かせ、9日間沈黙を守り抜くことで「責任」の意識を学んだのでした。8歳の子どもにとって、9日間沈黙を保つというのは非常に大変なことでしょう。なぜ、沈黙を保つことがそれほど重要とされたのでしょうか。少し後にはこう書かれています。「もし私たちが小さなクリスチーヌの感じたあの純な「責任感」を見出すことができたら、おそらくそのとき私たちは真の「精神」を復権させることになるにちがいない」沈黙を保つことを自らに課すことによって生じる責任が自分の精神性につながるということは、言い換えれば心の落ち着いた状態によって自己が形作られるということです。裏返していえば、私たちが自分のあり方を築きあげていくためには沈黙の時間が必要となる、ということになります。
 沈黙とは、自己との対話です。しかし、単に自分自身とのみ対話しているわけではありません。教皇フランシスコは、黙想について以下のように話されています。「聖霊によって導かれるキリスト者の黙想は、イエスとの対話へとわたしたちを導いてくれます。(中略) わたしたちキリスト者にとって、黙想は、イエスと出会う方法です。その方法により、その方法によってのみ、わたしたちは自分自身を再び見いだすことができます。しかし、それは自分の中に閉じこもることではありません。そうではなく、イエスのもとに行き、イエスによって自分自身を見いだし、いやされ、新たないのちを与えられ、イエスの恵みによって強められるのです。そして、わたしも含むすべての人の救い主であるイエスに会います。」(カトリック中央協議会「教皇フランシスコ、2021年4月28日一般謁見演説 31.黙想」) 沈黙のなかでイエスと出会い、そしてそれによって自分自身を見出していく、静けさのなかで私たちは自分とは別のものにふれ、そうしたものに何がしかふれている自分にまた気づくというかたちで自己認識を深めていくのでしょう。中世のキリスト教神学者であるマイスター・エックハルトも、「魂における神の誕生」について説き、反省の及ばない魂の最内奥の根底において神との一致が生じる、と考えました。
 沈黙して心を落ち着かせたとき意識に入ってくるものは何でしょうか。自分の呼吸、外の風の音、時計の針を刻む音、隣の人のがさごそ動く音、もしかしたら体に溜まった疲れなど感じるかもしれませんね。それらは、意識して静けさをつくり出さない限りはっきりとは感じとれないものです。そうしたものに意識を向けることで生まれる心のゆとりが日々の生活において大きな要素となるかもしれません。そして、目を自分の外へと移してみましょう。すると、そこには同じようにして静けさを保っている他者がいることに気づきます。そもそも周りも同じように沈黙を保っていたからこそ、自分自身が心を落ち着けることができていたことに気がつくとき、沈黙は自己でのみ完結する行為から同じようにして沈黙している共同体へと広がりを持ち、「沈黙の場」が生まれます。そして、他者の心の静けさを乱さないためには自らが沈黙を保たなければならないこと、これはまさに幼いクリスティーヌが懸命に自己の務めを果たすことによって培った「責任」の意識にほかなりません。今週はクリスマス・キャロルの準備もあり忙しい日々を過ごしている皆さんですが、不二聖心の学校生活のなかで沈黙を保つ時間を多くもっていることの意義をふり返り、そうした時間をどのように過ごすのか、今一度考えてみてはどうでしょうか。
 
 これで宗教朝礼を終わります。
K.O.(外国語科)