シスター・先生から(宗教朝礼)

2024.02.14

2024年2月14日放送の宗教朝礼から

  これから宗教朝礼を始めます。

最初に両足の裏を床にしっかりつけ、腰から頭のてっぺんまでが真っ直ぐになっていることを意識しましょう。

次にゆっくりと息を吸い、ゆっくりとはきましょう。しばらく自分の呼吸に集中してみましょう。

 今日はキリスト教で重要な日である、灰の水曜日です。今日から復活祭に向かう40日間を四旬節といいます。教会ではこの期間、キリストの受難を思い起こし、節制とカイシンを促します。この時のカイシンはよく使われる「心を改める」と書く「改心」ではなく、「心を回す」と書きます。なぜ心を回す、と書くのでしょうか。心を回す、ということ、つまり振り返って原点に立ち戻る、ということを意識するためです。この期間に私たちに求められているのは、自分の日々を振り返ること、自分がどのような思いや気持ち、価値観を持って言葉を話し、振る舞ってきたか、それは神様の目から見て正しい、あるいは神様の意を汲んでいたか、ということを振り返り、求められている姿を再確認することです。灰の水曜日では、教会では人々に灰をつける式を行いますが、これも、ヒトが神様によってちりから作られ、最後はちりに返る小さな存在であることを思い起こすことを促しています。

 「人間のいのちと活動についてのある考え方が、私たちを取り巻く世界に深刻な傷を与えるほど、ゆがんでしまってい」ると教皇フランシスコは8年前、『ラウダート・シ』で述べられ、さらに昨年10月に出された『ラウダーテ・デウム』で「人工知能と技術革新は、テクノロジーの助けを借りれば能力と可能性を無限に拡張できる、限界なき存在たる人間という考え方から出発してい」るとし、その考えのもとで「存在するいっさいのものは、感謝の念を抱くべき、尊ぶべき、いとおしむべき贈り物ではなくなり、奴隷とされ、人間の頭脳と能力の気まぐれの餌食にされる」と強い危機感を示されました。そしてその考えは、同じ人間に対しても「最小限のコストで最大の利益」という考え方のもと、「わたしたちの社会が見捨ててきた貧しい人々や困窮者たちへの支援を心に置いた生き方を不可能にし」ていると述べられます。『ラウダーテ・デウム』は特に気候危機について書かれているので、自分の日常とは離れた大きな話、と思えてしまいますが、「わたしたちの社会が見捨ててきた貧しい人々や困窮者たち」は、私たちの日常で読み直すなら、「わたしと異なる人」と置き換えられると私は思います。そう置き換えると、この教皇様の指摘は、遠いどこかの話ではなく、自分に直接問いかけられている話になりませんか。

 今、この世の中で起きている様々な悲惨な出来事の多くは「自分、および自分と同じ枠組みの人」のことだけを見て選ばれた行動の結果のように思えます。「自分たちと同じ言語を話す人たちが不当に言語や文化の異なる人々に支配されている」という理由で隣国に軍事侵攻し、無差別に攻撃する。自分たちと異なる意見や考えであることを理由に、その言葉を封じ、表現や言論を制限する。自分たちの楽しさや心地よさを優先し、その行動によって困る人、嫌な気持ちになる人に気がつかない。自分たちの居心地の良さを優先し、地球にかけている負担に目をつぶる。

 立ち止まって考えてみましょう。自分と異なる関わりを持っている存在に対する自分の態度はどうだろうか。何か考える時、判断する時、選ぶ時、自分と異なる枠組みにある存在のことを意識しているだろうか。そのような存在から見た時、自分の選びは、行動は、自分と同じ枠組みから見るのと同じものになるだろうか。

 私たちは私たち以外の、そして私たちと同じように神様に作られたものなしには生きていけません。どれほど科学技術が進歩し、AIなど「脳で考える」ことが社会を中心的に動かすようになったとしても、私たちは地球上の他の生き物とおなじように五感を持った生き物で、五感を通して周りを認識し、理解しています。高1の皆さんは宗教の時間に先ほど紹介した『ラウダ―テ・デウム』を読んで、四旬節の毎日、どのようなことを意識して過ごすかを考え、「四旬節エコカレンダー 御復活までの砂時計」を作成しています。その中では今日、「わたしたちとともに歩んでくださるイエス様の優しさを思い起こし、私たちがともに暮らす家である地球のために何ができるのか考えてみよう」という目標があげられています。この四旬節の始まり、振り返り、原点を見直す始まり日に、周りのものによって生かされている小さな自分を再度見つめてみましょう。
これで宗教朝礼をおわります。

H.N.(宗教科・地歴公民科・社会科)

高校1年生作成の四旬節エコカレンダー「ご復活までの砂時計」