シスター・先生から(宗教朝礼)

2024.02.28

2024年2月28日放送の宗教朝礼から

 今日はお茶、茶道の話をしたいと思います。
 茶道では年の初めに釜に火を入れ、茶会を催すことを初釜といいます。茶会の主催者である主人は、懐石という料理を用意し、元旦に汲んだ水でお茶を立てます。お招きに与ると、朝早くから着物を着つけたりしなければならず、お茶の作法だけでなく、食事のいただき方などもお茶の先生方に見られてしまうのでいつもとは緊張感が違います。茶道のお稽古をしている者にとって、初釜は単なる稽古初めではないのです。門下の弟子たちがそれなりの装いをして集まるので賑わいもありますし、気持ち的には普段のお稽古と違う高揚感がありますが、「わびさび」の世界ですから、決してわいわい騒いで新年を祝うような会ではありません。初釜には1年の無病息災を祈る意味もあるのですが、新年を祝う場でもあるので、今年はお正月から地震や事故が続いたし初釜はやめにしましょうということになりました。私のお茶の先生は叔母、父の妹です。ですから先生とは言っても身内なので、初釜の話はそれほどきっちりとした話ではなく、「今年の初釜はなしね」とあっさり言われてしまっただけなのですが、ちょっとがっかりしました。いつも面倒くさいなあと思っていたのに、なければないで「新年なのに・・・」と何だか物足りない気がしてしまったのです。新年を穏やかに迎えられない人たちが多くいたことを思えば、そんなこと言えないのに、と反省しました。普段通りのお稽古ができるだけで、ありがたいことです。
 ですので、今年は大袈裟な初釜ではなく、普段と同じようなお稽古でした。でも普段と同じと言いながら、濃茶は一人一碗ずつにして回し飲みはしませんでした。今年は新年早々インフルエンザが流行っていたからです。回し飲みをしないことは今ではよくあることなのですが、自分がお茶を習い始めた頃には、濃茶を一人一人に出すなんてことは想像すらできませんでした。同じ茶碗から飲む事が当たり前だったのに、それが当たり前じゃなくなってしまった。回し飲みを前提にした作法もあるのになあと、何だか切なくなってしまいました。
 その日、床の間には「和敬清寂」の軸が掛けられていました。茶道を習った人なら、知っていて当たり前の言葉です。掛け軸の字なんてまず読めないし、意味もよくわからない私ですが、この軸だけは言葉の意味までわかります。「和」の字は平和の和。和(なご)むとも読めます。皆、仲良く、一つとなること。「敬」は尊敬の敬。相手を敬う気持ち。「清」は清らか。目に見えるものだけでなく、心のような目に見えないものこそ汚(けが)れのないように。そして「寂」の字は寂しいという意味ではなく、何事にも動じない心持ちを表すのだと教わりました。心を乱されない落ち着き、自分の考え、芯を持った生き方を示すそうです。「和敬清寂」は千利休が大切にした言葉で、茶道の精神を表しているのですから、不勉強な私でも知っていて当たり前なのです。新年最初のお稽古ということで、叔母も初心に立ち帰る意味でこの軸を選んだのでしょう。
 お茶の稽古のあった日の夜、夫と食事をしながらその掛け軸が話題になりました。「和敬清寂」のお軸だったよと話すと、夫は「それは事故防止の心だ」と言うのです。交差点での右折事故を防ぐには「和敬清寂」の心が必要だと、どっかの自動車メーカーが言っているというのです。「ちょっと、待てよ。和敬清寂は事故防止だけじゃないな……。」夫は今年起きた羽田空港での衝突事故の話をしだしました。「当時の旅客機内の様子を伝える記事を読むと、乗員・乗客の行動に「和敬清寂」を見出せるぞ。つまり、彼らが無事に機内から脱出することを目指し、我先にとなることなく相和(あいわ)し、互いに敬意を持って接し、パニックに落ち入ることなく、心清(しず)かに、炎がでようと、煙が機内に入ってこようと、何事にも動じることなく行動した。だから全員逃げ切れたのだ」と。「でも、ちょっと待て。誰一人として取り残されることなく逃げ切ることができたのを、さも日本人だから起こせた奇跡だと海外では報道されているけれど、和敬清寂って日本人だけのものなのか?聖書にも同じようなことは書かれているぞ!よく知らないけど、きっとコーランにも同じような教えがあるに違いない!和敬清寂は茶道だけのものじゃない!!」と興奮しています。夫はきっと何らかの人類の真理を発見してしまったのでしょう。
 一人盛り上がる夫の横で、私は「和敬清寂」という言葉を改めて噛み締めていました。私はこの言葉を茶道を通して学んだ気がしていましたが、その精神は夫の言う通り誰の心の中にもあるのかもしれません。誰もが持っているはずなのに、日常の中でつい忘れてしまいがちな大切な心がけ。事故や災害のような極限の状況だけでなく、その精神を日頃の行動に当たり前のように結びつけることができたなら、世の中はもっと平和になりそうな気がします。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」
また、杯を取り、感謝を献(ささ)げて彼らに 与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。
(マルコ14章22ー23節)
M.S.(家庭科)