シスター・先生から(宗教朝礼)
2025.04.23
2025年4月23日放送の宗教朝礼から
皆さん、おはようごいます。 新しい学年度ももうすでに2週間が経ちました。
今学年度の初めに蒔苗校長先生が、「不二聖心」の聖心は、「神様の心」だとおっしゃっていました。
神様の心はいろいろの形で現れるかと思いますが、一番身近なところでは、私たち一人一人の心の中に芽生える「夢」の中に現れるのかと思います。 一人一人が幸せになってほしいと思う神様の心が、私たちの心の中の夢に現れてくるかと思うのです。
ですから、今日は、一人一人の心の中にある 「私の夢」 というものを考えてみたいと思います。
まず、一年前の自分を思い出せるでしょうか? どんな夢を抱いて学校生活を始めましたか?
新しい学校? 新しい学年、友達・・・ わくわくして? または、ドキドキして?
希望、不安、いろいろの気持ちがあったでしょうね。 そんな中で、何を夢見ていたでしょうか。
一年経って、今、現在の私の夢はなんでしょうか。 叶わないように見えることでもいいのです。
「あなたがそう望んでいるということが大事ですから。」 そして、 どうして、このことを夢見るのかということも大事かもしれません。 それを大事に育てて行けば、いつか夢がかなう日がくると思います。
本当は、皆さんと顔を合わせて、 「夢を分かち合ってくれる人がいますか?」 と尋ねたいところですが、 それができないので、 今日は、ささやかな私の夢をお話しします。
あとで是非、自分の夢について考えてみてください。
私の意識した最初の夢は、小学校時代に作文の時間に書いた、 「おかあさんになる」ことでした。 とても平凡ですね。 でもそれが私の最初の夢でした。 「いい人と出会って結婚して、男の子と女の子が欲しい」 「お料理上手で、子供たちの洋服も手作りするお母さん」。 小さい子供たちが言いそうな、ごく普通の平凡な望みだったでしょう。でも私には大切な夢でした。
実は、母は、私が物心ついた時には 病気で入院していて家にはいませんでした。 12歳になったときに退院してきましたが、それから7年後に亡くなるまでずっとベッドの上の生活でした。
そんな母でしたが、うちに遊びに来る友達からは、 「いいわね」と羨ましがられていました。 どうして?と思いますよね。 友人たちは、「自分の母は、家のことや用事で忙しくて、話を聞いてくれない」などと、ぼやいていました。 でも私の家では、 母は寝たっきりだったので、いつでもそこに居て、話の出来る相手だったのです。 「幸せとは何か」、「愛とは何か」、「どこに神の存在を感じるか」 などと論じることも多く、 私のつたない意見や考えに耳を傾け、 質問を投げかけてくれる母でした。
一方、私は、中学、高校と進むにつれて、相撲に、野球に、週末のボート漕ぎに、映画に、様々のことに夢中になり、 中でも、野球は、父に怒られながらも、毎日、巨人のデータを自分で取るのに夢中で、翌日には新聞に出るのに、例えば長嶋選手は、何打席、何打数、何安打とメモを取り、打率迄、毎日計算しているような打ち込み方でした。 そうした毎日を楽しみながら、同時に、人生の目的は何だろうとも思索をめぐらす少女でもあり、 シスターになるということを真剣に考え始めてもいました。 でも、当時は、シスターになったら一生家に帰ることは叶わなかったということもあり、寝たっきりで外出の出来ない母をおいて家を出ることはできないなど、いろいろの想いが頭の中をめぐっていました。
そんな中、私が大学2年生、19歳の時に、母が47歳で亡くなりました。 母が亡くなって、改めて 小さい時の夢が戻ってきました。 結婚して、両親のようないい家庭をつくりたいと、強く思うようになったのです。
そんな頃、神様の声が、「シスターになって一生を神様に捧げてほしい」 と 心の中で響いた時、勿論、私は抵抗しました。 何しろ「お母さん」になりたい」という夢を再燃させたばかりでしたから。 大分、神様に抵抗もしたのですが、神様には負けました。 「はい」と応えて、自分の夢はあきらめたのです。
そして、呼ばれるままに、この不二聖心の現在の寄宿舎のところにあった、「修練院」で、2年半を過ごし、 その後、小林、札幌、東京で過ごし、 2年前に、裾野に戻ってきました。 その間、多くの人々、生徒たちと出会いました。 札幌が一番長く、私の青春もそこにあったと思うほどですが、そう感じさせてくれたのは、札幌聖心の生徒たちでした。 今でも手紙の最後に、「あなたの大事な娘より」と 記してくる人がいます。 もうその卒業生には孫もいるので、 「いい加減にしなさいよ」 と笑っているのですが。
それは、「昔、昔あるところに・・・」というほどに昔の話になりました。
ところが最近とても強く思うようになったのは、「お母さんになりたい」と描いた小さい頃の最初の夢は、 諦めて捨てたつもりだったけれど、 少しずつ実現してきているのだなという思いです。 結婚して、子供を授かってということには、ならなかったけれど、 私が描いていた「お母さん」のイメージの根っこにあったのは、寄り添って、話を聞いてくれて、ありのままの自分を、黙って抱きしめてくれる存在、自分という存在を全面的に肯定してくれる存在だったのです。 現実のお母さんにならないけれど、そういう存在になりなさいと神様が呼んでくれたのだと思う日々です。
これは一つの私の平凡な夢の話です。 ただ、言えると思うのは、みなさんが自分の夢を大事に育てるならば、小さな芽は、大きな花を必ず咲かせると思うことです。 夢を大事に育ててください。 きっといつか思いがけないような花が咲くでしょう。 楽しみですね! 神様の心の想いは、あなたの心の深いところにあって、 「夢を育ててほしい」 と思っていらっしゃることでしょう。
M.S. (修道院長)