シスター・先生から(宗教朝礼)

2025.07.02

2025年7月2日放送の宗教朝礼から

  おはようございます。今日は宗教朝礼です。まず、心を落ち着けるために、一緒に主の祈りを唱えましょう。

天におられる私たちの父よ   み名が聖とされますように   み国がきますように
みこころが天におこなわれるとおり  地にもおこなわれますように
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください  わたしたちの罪をおゆるしください
わたしたちも人を許します  わたしたちを誘惑に陥らせず  悪からお救いください  アーメン
 教育実習生の方々が不二にきてくださっていましたが、その実習期間も今日でおわりになります。教育実習生の先生方、3週間お疲れさまでした。生徒の皆さんも、卒業生で皆さんの先輩でもある実習生の先生方から学ぶことが多かったと思います。
 毎年、教育実習生の先生方が不二にくるたび、私は自分の教育実習のことを思い出します。もうだいぶ前のことになりますが、そのときのことは今でもよく覚えています。私は教育学部の学生で、1回目の実習は大学の付属小学校で行いました。教育学部ということで、多くの学生が付属校で実習します。なので、私たちは4人1組で1つのクラスに配属されました。私が国語志望で、他に社会科・理科・技術家庭科志望の4人組です。この中で、理科の先生を目指していた仲間は麗香ちゃんといいました。(実習中はもちろん「~先生」と呼んでいましたが、心の中では親しみを込めて麗香ちゃんと呼んでいたので、ここでもそう呼ばせていただきます。)麗香ちゃんとは、普段大学では教科が違うので顔を合わせたこともほとんどなかったのですが、私は実習中、麗香ちゃんの優しさと思いやりに何度も助けられ、「世の中にこんな人がいるんだ」と憧れていました。今でも大好きで、尊敬しています。
 私たちの指導教官の先生は、大変厳しく、また、…実習生の立場でこのようなことを言うのは本当は許されないこととは思いますが…少し、意地悪な方でした。授業の計画は何度も練り直して前々から準備します。しかし前日の夜になって「指導案をよく見なおしたらダメなところばかりだから、最初からやりなおして」「こんな計画で本当に授業するつもりだったの」など指導教官の先生がおっしゃるので、私たちは深夜までやり直しをする、ということがほとんど毎日でした。それでも「これは先生になるために必要なことだ」「社会に出たらこんなものじゃないくらい大変なのだから」と私たちは思っていました。そんな中で、麗香ちゃんはいろいろと私たちを気遣い、自分のことは後回しにしても人のことを助けていました。あるときも夜になって指導教官の先生が「ここは折り紙を使って示したほうがいいんじゃない?明日までに絶対用意しておいてくださいね」と言って帰っていかれました。「折り紙!?」こんな夜中になって折り紙なんてどうやって用意したらいいのでしょう。すると麗香ちゃんが、「うちにあるよ!」と言ってくれました。「明日持ってくるよ。大丈夫」。私たちは次の朝、いつもより早く学校に集まりました。折り紙をいろんな形に切らないといけなかったからです。けれど、それも麗香ちゃんがやってきてくれました。麗香ちゃん以外の3人は、地方出身で、一人暮らしをしていました。そこで麗香ちゃん曰く、「私はここから近いところに家があって、そこから通っている。家に帰ればご飯があって、この期間は家のことはせずに疲れてそのまま寝てしまうことだってできるけれど、みんなはそうはいかないでしょう?だから、私にできることはなんでも言ってね」と。実際私は自分のことで精一杯で、そんな嬉しい言葉を言ってくれる麗香ちゃんがとてもまぶしかったです。
 実習期間も半分が過ぎたころ、小学校では遠足があり、私たちも引率でついていくことになりました。普段、お昼ご飯は給食が出ていたのですが、この日は給食はありません。すると、麗香ちゃんが「わたしがみんなのお弁当を作ってくるよ」と言ってくれたのです。「そんな申し訳ない、それに4人分なんて、大変でしょう」と言いましたが、「どのみち自分の分を作るのだから、人数が増えても大丈夫」と麗香ちゃんは言ってくれて、私たちはお言葉に甘えることにしました。当日のお弁当は、具もいろいろのおにぎりに、おかずもたくさんあって、それは素敵なお弁当でした。毎日くたくたの実習期間、自分だったらこんな豪華なお弁当は作れなかったと思います。私たちは感謝しておいしくいただきました。
 それから数日後、指導教官の先生がやけに麗香ちゃんだけにつらく当たる日がありました。そしてその日の放課後、授業準備をしていた私たちを前にして、指導教官の先生が麗香ちゃんに言ったのです。「あなたは遠足のとき実習生みんなのお弁当を作ってきたんだってね。自分のこともまともにできないのに、みんなに施しをしていい気分ですか。さすがお嬢様ですね」と。――これはさすがに許せない。私たち3人はそろって猛然と反論しました。が、指導教官の先生は「あなたたちはかわいそう、って同情されてこの人に見下されてるんだよ。」と言いました。麗香ちゃんは何も言わず、黙って下を向いていました。
 あれから30年ぐらいたちましたが、唇をかんで下を向いていた麗香ちゃんの横顔は今でも忘れられません。あのとき麗香ちゃんは何を考えていたのでしょう。数年前、またこの時期にこのことを思い出して、あれ?とひっかかるものがありました。自分も大変な中で周囲を手助けすることを率先して行っていた麗香ちゃん。麗香ちゃんは、近所にある中高一貫の女子校出身だと話していました。「中高一貫の女子校」、「施し」「お嬢様」、という言葉……もしかして、と思い調べてみたところ、ありました。大学や付属校のすぐ近くに、中高一貫のカトリックの女子校が。今でも調べると、HPのトップには校名とともに「カトリックミッションスクール」と掲げられています。麗香ちゃんはきっとこの学校の出身だったに違いありません。実習の日々を今思い返してみても、私は自分のことで精いっぱいで、仲間たちと「頑張ろう」と励まし合ってはいたものの、実際他の人の手伝いや手助けができていたかというと、できていませんでした。実習期間に限らず、昔の私は自分のことが優先、というより、自分の中に、自分が大変な時に誰かのために働こうなどという概念はなかったと思います。だから麗香ちゃんに会って、その姿に心を打たれましたし、憧れと尊敬の気持ちを抱きました。不二聖心でも、「誰かのために骨惜しみせずに働く」ことを大切にしています。先日のみこころの祝日でも、一人ひとりが心をこめてそれを実践できたことでしょう。不二聖心に勤めて、私はそのような気高い姿があること、それが日頃から実践されている場所があることを知りました。同時に、私が自分のことばかり考えていた同じそのときに、このように「人のために」と教えられ、それを実践して育ってきた人たちがいることに気づいて、自分を恥ずかしく思いました。知らなかった昔の私は、人として欠けていたと思っています。麗香ちゃんや皆さんのような気高い精神を、単に「お嬢様」とくくり、「同情」「見下す」などと捉えることは大変失礼だと怒りさえ覚えますが、このような精神は、もしかしたら世の中全部の人には理解してもらえない時やこともあるかもしれません。しかし、それは本当に美しい姿です。しかも、その人たちは自分たちではその姿を美しいと奢っていない。ますます美しく崇高です。皆さんにはそのことを誇りに思っていただきたいですし、その美しい精神をもって世の中に出ていっていただきたいと願います。私もまだまだ不二聖心で皆さんと一緒に学び、精進していきます。
 これで、宗教朝礼を終わります。
M.S.(国語科)