校長室から

2014年03月

2014.03.17

『卒業研究』巻頭言より

 不二聖心女子学院の「卒業研究」の起源は、1978(昭和53)年に始められた「中3個人研究」にあります。この試みは、学院の目指す「創造性に富む堅実な思考力と正しい判断力を育てることを具体化していこうとするもの」であり、「各教科の枠を越えて一人ひとりが興味のある問題を自主的に、長い月日を費やして深く研究していくという作業を通して『学ぶこととは何であるか』を体得させたい」との願いから始まりました(1985(昭和60)年度『中3個人研究』)。生徒一人ひとりに対するメンター制度、秋のつどいでの研究発表、口頭試問、冊子発行等、今では当然のことのように行われていますが、35年前、最初にこのアイディアを共有し、実現の可能性を模索し、ついには研究体制を立ち上げられたシスター・先生方の教育への情熱と、新たな学習の地平を見つめて真摯に研究に取り組んだ生徒たちの姿勢に深い尊敬の念を覚えます。

 アーカイブ室には、歴代の卒業生全員の研究が掲載された冊子が大切に保存されており、研究方法の変遷や研究環境充実の過程を知ることができます。1986(昭和61)年には中学校の学習の集大成の意味を込めて名称を「卒業研究」と改め、今日に至っています。本年度からは、6カ年の学習デザインの中で、Foundation からOriginalityへの架け橋として卒業研究を位置づけることと致しました。

 2013年度の学校目標「知性を磨く~若さを価値あるものとせよ~」を胸に、知の可能性に挑戦した生徒たちが、今後の学びの中でこの経験を「各々に与えられた使命」とつなげて、深めていってくれるよう心から願っております。

     

2014.03.10

『欅坂』巻頭言より:若き日に、あなたの造り主を心に刻みなさい。(コヘレト書12章1節)

 不二聖心女子学院は、2013年度に創立61年目を迎えました。先立つ長い歴史があるのですが、この地に聖心会の修道院が創立された年をもって学院創立と定めています。初代校長は東京の聖心女子学院校長のマザー吉川茂仁香が兼任していましたが、当時マザーたちが外出される機会は限られており、実際には初代修道院長マザーエリザベス・ダフが校長のような役割もなさっていたようです。

 アイルランドご出身のマザーダフは聖心会入会後1907年にロンドンで初誓願、一九一二年にベルギーのブラッセルで終生誓願を宣立の後アイルランドに戻り、1917年から10年ほどロスクレアの聖心女子学院の校長を務められました。この学校は1842年の創立で、マグダレナ・ソフィアの生前に建った学校の一つです。若い頃から東洋へのミッションを望んでいらしたマザーは、一九三四年から上海聖心へ派遣されました。1937年の日中戦争、1939年に勃発した第二次世界大戦に代表される苦難の時代でした。その間、副院長として、幼稚園から大学までの広がりをみせた上海聖心での教育活動に献身されました。終戦後の1951年には中国政府により上海聖心が接収され閉鎖、他の聖心会会員が離国を余儀なくされる中、院長や大学学長らと共に上海で拘留されました。マザーは生命の保証もない状態にあっても希望を失わず、明るい便りを書き続けていらしたといいます。

 1952年の一月半ばに日本に渡る許可が下りると、同年4月には5か国8名の聖心会員と共に裾野の地を踏みしめていらっしゃいました。70歳近かったはずですが、明るさとユーモア、マザーを知る人が等しく感じた温かさをもって、不二聖心女子学院の礎を着々と築き上げていらしたお姿は、1962年5月から8月までの3か月にも及んだ「院長様金祝」(マザーの終生誓願宣立から50年目の祝いの記録)と書かれたアルバム等にみることができます。お祝いには小林秀也裾野町長もお祝いにかけつけられました。当時の裾野では外国人が珍しかったため、「マザーダフはエリザベス女王のいとこ」という噂もたったといいます。地域の方々にも愛されたマザーのお人柄が偲ばれます。学校で授業を担当されなくなった後も、英語のプライベートレッスン等を続けられたマザーは、一九七二年、聖心の月である6月11日に88歳で天に召されました。

 今年の学校目標「若さを価値あるものとせよ」は、マザーダフが実際に生徒に語られたお言葉です。学院が、人生でいえば還暦ともいうべき年を迎えるにあたり、不二聖心のルーツと、学院に生涯をかけた方々の思いに聴きたいと考えていた時、60年たっても色褪せることのないこのお言葉を、ぜひ生徒たちに伝えたいと思いました。ご生涯に思いを馳せつつ耳を傾ける時、「生涯をかけるに値するものに目を向けましょう」というマザーの祈りにふれる思いがいたします。