フィールド日記
2013.03.26
ミジンコの幼生誕生 中学3年生の宗教の授業「最も小さい者」と出会う
2013.03.26 Tuesday
「不二聖心のフィールド日記」では、3月24日から、本館前の築山の池で採集したミジンコの卵の成長記録を紹介してきましたが、ついに3日目にして幼生が誕生しました。まもなく体外に出ると思われる幼生の目の色も昨日の赤から母親と同じ黒に変わっているのが画像を見るとわかります。母親の周りを幼生が泳いでいました。動画ではその様子も見ることができます。
今日のことば
中学3年生の宗教の授業で、「マタイによる福音書」の「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは。わたしにしてくれたことなのである。」という言葉を読み、世の中の「最も小さい者」と言える立場や境遇の人々について調べ発表するという授業をしました。その中からいくつかの発表を紹介します。
この写真は、ダッカの街角で撮られた、台車に住んでいる老婆の写真です。この老婆は高齢で膝が悪いため歩けません。そのため一日中、この台車の中で過ごしています。雨や太陽の光を防ぐためビニールシートがかぶせられています。時々、ストリートチルドレンに頼んで引っ張ってもらいながら移動をして生活しているそうです。ストリートチルドレンはこの老婆の手や足となって生活しているのです。写真を見る限り、この老婆は家もなく食べ物もなく、服も毎日同じものを着ていて、家族もいなくて寂しそうに見えます。しかし、老婆はストリートチルドレン達に生きていくすべを教えているのだそうです。自分が今まで生きてきた人生の中で役に立ったことをストリートチルドレン達に教えているのです。だから老婆は親がいないストリートチルドレン達にとって母親みたいな存在なのです。このような厳しい環境にありながら、老婆もストリートチルドレンもお互いに支え合いながら生活していて素敵だなと感じました。世界にはこのような貧しい環境で一日一日を必死に生きている人達がいることを忘れずに日々感謝をして生きていきたいと感じました。(R・U)
みなさんは、公園などで野宿生活をしている人々を見たことがありますか。きっと、ほとんどの人が見たことがあると思います。そうした人々はさまざまな理由で一定の場所に住めなくなり、解放会館などを住所として住民登録をしています。住所がないと、ハローワークなどで紹介される仕事は一切できず、保険のサービスや選挙権が奪われてしまうからです。しかし、2007年、大阪市が講演で野宿生活をしていた人々のテント村を強制撤去し、それに続いて他の3か所の解放会館などに登録がある2088人の住民票を抹消しました。この写真の男性はダンボールハウスが撤去され、愛犬とともにさまよい歩き、この撮影から1週間後に体調を崩して保護されたそうです。そもそも、大阪市は30年にわたって解放会館での住民登録を認めていました。2006年には、大阪地方裁判所で河川敷や公園のテントを住所として認めるとする判決を出しています。それなのに、その1年後、今度は大阪高等裁判所の判決で社会通念上住所と言えないと否定したのです。
みなさんは、突然、誰かの手によって自分の家を奪われたらどうしますか。私は納得できなくて裁判をおこすかもしれません。だけど、彼らはその抵抗すらできません。私たちには一人ひとり居住の権利があります。社会的立場の弱い人だけ、それを奪われていいわけがありません。
世界に目を向けて考えると、まだ良い方だと思う人もいるかもしれません。でも私は平和だと言われている日本の中にも、こういう人権侵害だと言える問題があることを知って驚いたし悲しくなりました。戦争がないことだけが平和なのでしょうか。私たちはこの現実を忘れずに、これから考えていかなければいけないと思います。(М・М)
アフリカのほぼ中央に位置する人口約600万人の小さな国、ブルンジ。この国では、以前からずっとフツ族とツチ族が対立していましたが、その争いがますます激しくなり、1993年の大統領暗殺をきっかけに、大量虐殺が行われました。そして、1999年までに約110万人もの人々が家を追われ、近隣諸国へ逃れました。国内に残った多くの人々は避難民となりました。
人が死ぬことが日常となるような生活の中で、病院や無料診療所で、「国境なき医師団」が援助活動をしています。周囲のジャングルなど、ゲリラが潜んでいるような危険な場所でも治療を行う彼らは、まさに「最も小さい者のために働く人」ではないかと思います。私だったらきっと、自分も死んでしまうかもしれないような所で、人を助けようとは思えないと思います。しかし、「国境なき医師団」の医師たちは、「国境なき医師団の支援を受けている病院なら、無料で治療を受けられる」と遠くから何時間もかけてやってくる人々を見捨てるわけにはいかないと、必死に苦しみを乗り越えています。
はしかやマラリアなどが発生してたちまち広がってゆき、1年に満たないうちに、人口の3分の1に匹敵する200万人が発症し、多くの人が命を落としたそうです。医療の環境も悪く銃声を身近に感じることも少なくないのに、助けを必要としている人々の元にかけつけられる人は、人のために生きている人だと思います。私は、ブルンジへ行き誰かの命を直接救うことはできませんが、募金などを通して「最も小さい者」のために何かできる人になりたいです。(T・Y)
「マタイによる福音書」25章より
「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
2013.03.25
卵を持ったミジンコ② 水質をかぎわけるサカマキガイ
2013.03.25 Monday
1枚目の写真は昨日紹介した、卵を持ったミジンコの写真です。2枚目は今日の写真です。卵が形を変え、赤い点のような目もはっきり見えます。3枚目の写真は水道水を入れたケースの中のサカマキガイの様子です。築山の池で採集しました。水道水を嫌ってか、水上に出ているのがわかります。4枚目の写真はその1分後の写真です。サカマキガイが水の中に入っています。実はその間に水道水を池の水に変えました。サカマキガイは水質の変化を水上にいてもすぐに感知したのです。
今日のことば
日本についてこの地で私たちが経験によって知り得たことをお知らせします。この国の人々は今まで発見された民の中で最高であり、異教徒で日本人より優れている人々は見つけられないでしょう。
フランシスコ・ザビエル
2013.03.24
築山の池の卵を持ったミジンコ
2013.03.24 Sunday
築山の噴水の池から採集したミジンコが卵を持ちました。透明な体の中にある卵がはっきりと写真にも写っています。画像をクリックすると体内の器官が動く様子がわかります。生態系の底辺を支えるプランクトンの生きる姿です。
今日のことば
セザンヌの悩みを救ってくれたのはたぶん故郷の山や川なのかもね。たぶん人間は友人のほんの少しの思いやりや、ずっとかわらずにある自然のように、ささやかなもので救われるんじゃないかしら。
あるフランス人女性の言葉 『旅だから出逢えた言葉』(伊集院静)より
2013.03.23
桜の開花 NHK「にっぽん紀行」坂本健一さん
2013.03.23 Saturday
不二聖心でも桜が開花しました。古今集に「春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことは命なりけり」という歌があります。青空を背景にして咲く桜の花々にカメラを向けながら「命なりけり」の思いを深くしました。
3月20日の夜のことです。ある生徒から電話がありました。「先生、今テレビを見ていますか。坂本さんが出ています。」と生徒は教えてくれました。あわててテレビに目をやると、大阪の古本屋、青空書房の坂本健一さんの日常を追った「にっぽん紀行 ― 89歳のラブレター ―」が放映されていました。授業で聞いた坂本健一さんの話を覚えていたその生徒はわざわざ電話で「にっぽん紀行」に坂本さんが出ていることを教えてくれたのです。坂本さんは、以前に不二聖心の生徒に便箋23枚の手紙をくださった方です。他にも何通ものお手紙をいただき、いつしか心の中に坂本さんの名言集が収められるようになりました。以前にいただいた葉書の中には、「若いときただ真実真理をのみ追い求めて来ましたが今私は日に日に命と云うものを考えて居ります」と書かれていました。89歳になられた坂本さんの姿を久しぶりに拝見して、坂本さんのその言葉を思い出しました。
今日のことば
昨日の新聞から206 平成22年9月13日(月)
『浪華の古本屋 ぎっこんばったん』(さかもとけんいち SIC)を読む
―― 不二聖心の生徒たちに便箋23枚の手紙をくださった方の本 ――
7月のある日のことでした。授業を終えて職員室に帰ると自宅からのメッセージが机に届いていました。大阪の坂本健一さんから電話があったことを知らせるメモでした。早速、坂本さんに電話をしてみると、「今度本を出すことになったから蒔苗さんのところにも一冊送ります。」とのことでした。
この話を聞いて僕は小躍りしました。かねてから坂本さんの名文にふれていた僕は、坂本さんの書いたものが一冊の本になることを心待ちにしていたからです。僕と坂本さんとの関わりは、かもがわ出版から出ている『のこすことば 第六集』に収められている僕の文章を読むとよくわかりますので、次に引用してみたいと思います。
私は、静岡県裾野市で中学3年生に国語を教えています。昨年から授業の最初に新聞などに載った良い文章を一編読んでそれから授業を始めるということを始めました。その68回目に小説家の山本一力さんの文章を取り上げました。大阪で青空書房という古本屋を経営する坂本建一さんが登場する文章です。文章の中には店頭に貼られている紙の言葉も紹介されていました。
「生きるのがいやになったとき、読む本があります。一緒に探しましょう。」
坂本健一さんは、書店を訪れる人の話を聞き、その人にぴったり合った本を薦めてくれるのです。
山本一力さんの文章を読み終えた時です。一人の生徒が「坂本さんに本を紹介してほしい」とつぶやいたのがはっきり聞こえました。その声を聞いていつか大阪の坂本さんに会いにいきたいと強く思いました。
夢がかなう日は意外に早くやってきました。11月8日に大阪に行く用事ができ、その用事を済ませてから時間をつくって青空書房を訪ねました。中学3年生に向けて何か本の話をしていただきたくてまいりましたと来意を告げると、坂本さんは椅子をすすめてくださり、約1時間、本の話をしてくださいました。心に残る話をいくつも聞くうちに、一語たりとも聞き漏らしてはもったいないという思いが強くなり、途中からメモを取るようにしました。そして翌週の授業でその言葉をプリントして配りました。プリントを読んだあとで、生徒たちに坂本さんに手紙を書こうと呼びかけ、お礼の気持ちをこめて生徒たちの書いた文章を坂本さんに送りました。
それから1月ほどして、分厚い封筒が坂本さんから届きました。それは便箋23枚に及ぶ生徒たちへの返事の手紙でした。一人一人の生徒に向けて温かい言葉が綴られていました。最初のメッセージは次のような内容です。
「読書は人間のしるしです。ろばは本を読みません。(中略)だんだん読書人より「ケータイ」がええ人も増えて来ました。頁を繰ったり、意味を考えたりするのが邪魔くさくなったヒトが「ケータイ」派になって行きます。青空のおっちゃんは考えます。自分で読むのを止めたり考えることをサボった人が増えると支配者や権力者に都合のよい世の中になります。読書する人は想像力が豊かです。想像力が豊かだと優しくなります。相手の痛みや辛さが理解できるからです。相手の痛みが解らないヒトは自分の痛みを予感できません。首を切られてからイタイのでは遅いのです。」
このような言葉が便箋二十三枚にわたって綴られていました。手紙を読んだ一人の生徒は、坂本さんとの出会いは自分の宝だと言いました。八十歳を過ぎてなお働き続ける坂本さんの、人生の知恵に満ちた言葉は、生徒たちの心に一つの灯をともしてくださったと感謝しています。
このあとも坂本さんとの手紙のやりとりは続き、坂本さんから僕は多くのことを学んできました。坂本さんのことを僕はひそかに心の師だと思っています。たくさんの本を紹介してきた「昨日の新聞から」の仕事をほめてくださった時にも、坂本さんは「蒔苗先生のすばらしい読書力には脱帽します。しかし先生のこれ以上ないと思われる人生の本とは何でしょうか。魂をゆさぶられる本、一冊でも多く会えたら良いなあと思っています」と言ってくださいました。こういうことを言ってくださる方こそ師と呼んでいい人ではないかと僕は思っています。
さて心の師と仰ぐ坂本さんの文章を不二聖心の生徒のみなさんにもできるだけたくさん読んでほしいと思っています。『浪華の古本屋 ぎっこんばったん』の中から特に心に残っている文章をいくつか紹介しましょう。
時代遅れの古本屋
今は亡き河島英五の歌に「時代遅れの男になりたい」と云うのがあるが、別になりたくってなったのではないが、私など完璧に時代遅れそのものである。何故ならケータイ持たず、パソコン知らず、車に乗れず、三百六十五日毎日ギッコンギッコンペダルを踏んで、背を曲げ、えっちらおちっちら八十四(才)の坂を駆け上っている。どん臭いと云おうか不器用と云うべきか…だから私の雅号は呆。もうこのIT時代に生き兼ねる代物であるが、まあ、いいか。齢八十四、あとどう考えても先は知れている。慾はないが恥をかくことは多い。遠い昔、新婚三ヶ月目の妻に「あんたは甲斐性無しや」と指摘された。それが当たっているから口惜しい。古本屋をやっているが、その実、古本讀屋を続けている。つまり讀書人なのである。
ただし、ポリシーがある。売る辛さも知っている。買う辛さも体験済みである。だから、天秤にかけたり、狡い駆け引きする奴は相手にしたくない。安く売りたい。戦後、鎌倉文庫と云う鎌倉在住の文士達によって作られた雑誌の創刊『人間』発売日。胸弾ませて天神橋筋五丁目、N書店に買いに行ったとき、「みんなお米か野菜もって買いに来はるで」と断られた記憶がある。食料不足の最中、仕方がなかったかも知れないが、若い文学青年は大いに憤ったものである。今、本巷に溢れ、飽食の時代。想像もつかない当時の苦い想い出が、私そして貧しく真面目な向学の青年達に一円でも安く良書を提供したいと創業以来の念願である。綺羅を飾った豪華稀覯本より素朴な装幀で内容のある一冊をすすめて居る。
かつて古本屋はお客に語りかけないのがサービスであると教えられた。今もそうであるかも知れないが、私は本以前に人間が好きである。だからその人の探している本を一緒にさがし、その作家、作品に就いて語り合うことが多い。特に若い人には多くの期待を寄せている。だから持てる知識を出来るだけ多く頒けて行きたい。それが私がこの世へお礼を返すたった一つの方法である。幸い私は蒟蒻弁当のみで苦学した青春の文学歴があり、近代日本文学への愛着も深い。そして古事記、万葉も少しはかじっている。文学を好きになり、人をおもろいなあと思わす位いの材料は持っている。
本との出合いも一期一会
本は生きてます 大切に
二度とない人生 本を読もう
コイン一枚で叡智を友に出来るのだ
一生に一度の出会いそんな本がある
挫折が人生を深くする
蹉跌が新しい明日を導く
湧き出る言葉がある。メモに書いて店の隅に貼る。その癖、人に見られると、恥づかしい。
次もまた、坂本さんの本への思いが伝わってくる文章です。
つける薬がないヒト
五十才か六十才位の男である。最初漱石の文庫を棚から引出してちょっと見ていたが直ぐ棚に返し、ぐるっと廻ってその裏側の棚から翻訳ものの少しぶ厚いのをひっぱり出して解説を読みかけた。目が合うのを避けて私は他のお客さんの対応をしていた。十分位経ったか、男は私に気付いて、こちらに背を向け矢張り解説に読み耽っている…。我慢も限界にきた。精神衛生上頗る悪いと覚ったとき「お客さん、解説読んだってその小説は解りませんよ」とつい云って了った。
「何やて。それお客に向かって云うことか。お客がどこ読もうと勝手やないか」
「お客さんと云うのは本を買って頂いて初めてお客さんですよ。十分も二十分も立ち読みせんとわからんようやったら止めてください」
「何云うてんねん。どこ読もうと客の自由やないか。梅田へ行って見い。椅子出して一時間でも二時間でも放っといてくれるで。たかが本ぐらいのことでごじゃごじゃ云うな」
「たかが本ではないのです。そこら中に書いてますやろ。本は生命ですって。本は生きてますって」
「何云うとんのや。本は紙と活字だけや。死んでるやんか。息してへんがな。生きてるやって…おっさん、あほちゃうか。今買わんでも明日買いに来たるかも知れん。本に触ったらみんなお客さんや。おっさんこの本一冊で飯食っとんのやろ。お客馬鹿にしたらあかんで」
「馬鹿にしてまへんけど、本は死んでると考えているような人に店に入って欲しない。出て行って下さい」
捨て科白を残して荒々しく男は立ち去って行った。折り曲げられた文庫を棚に戻しに立った。本は新潮文庫のノーマン・メイラー、中西英一訳『鹿の園』588頁。売り値は百五十円だった。本が汚されたように思えた。値段では無い。我が店に有る本は、文庫たりとも愛着惜かざる息子みたいなものである。
百人の人に百の顔がある如く百冊の本には百の生命がある。色々な受け止め方、感じ方は、読者の境遇・年齢・感覚などでさまざま。本の使命は重い。どっしりと思惑が閉じこめられているからやと思う。
本屋をひやかすのはいい。しかし御自身の人生をひやかして終わるのは如何にも空しい限りである。たった一度の人生であるから。
初めてお会いした時、坂本さんは「人間として生まれて本読ましてもらうのはものすごう幸せと思います。」とおっしゃいました。ここにも坂本さんの本への思いが見えます。坂本さんのたくさんの言葉にふれ、本を愛する生徒が一人でも増えることを願いつつ、「昨日の新聞から206」を終わりたいと思います。
2013.03.22
キジムシロの奇形 ホソヒメヒラタアブ 春型のベニシジミ
2013.03.22 Friday
「共生の森」でキジムシロの奇形に出会いました。本来、5枚であるはずの花弁が6枚あります。
これが複数の株で見られるようになると変種として認められる可能性が出てきます。そのためには、たくさんの昆虫が訪花して似通った遺伝子の子孫を増やす必要がありますが、「共生の森」には、その受粉昆虫がたくさんいます。今日は、その中からホソヒメヒラタアブと春型のベニシジミを紹介しました。
今日のことば
一匹の虫は、まるで一つの俳句のようだ。とても小さいのに、読み解くことによって、そこには宇宙大の時空間が広がる。
小池昌代
2013.03.21
産業が生み出した命のつながり 三椏と甲虫とハナグモ
2013.03.21 Thursday
紙の原料として駿河の国にさかんに植林された三椏はやがて野生化してヒノキ林やスギ林に自生するようになっていきました。不二聖心のヒノキ林にもたくさんの三椏の木が見られます。野生化した三椏の花は、民家の庭先などに植えられた三椏の花と比べてまた格別の風趣があります。今朝のヒノキ林に咲いていた三椏には早くも甲虫が訪花し、ハナグモが訪花した昆虫をねらっていました。人間の産業が生み出した生態系の中で新しい命の物語が紡ぎだされています。
今日のことば
なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ 風とゆききし 雲からエネルギーをとれ
宮沢賢治
2013.03.20
ハナニラ タチツボスミレ ヨコヅナサシガメ
2013.03.20 Wednesday
今日はワイシャツ一枚で外を歩いても大丈夫なほどの暖かさでした。春の花々もこの暖かさの中で次々に開花しています。正門のところではヒメリュウキンカと競うようにハナニラが花の数を増やしています。雑木林では林床にタチツボスミレの花がたくさん咲いています。花の美しさにみとれたあとで目を上げるとクヌギの木の幹の上をヨコヅナサシガメが歩いていました。ヨコヅナサシガメは中国からの移入したサシガメで春の早い時期から不二聖心でもその姿を見ることができます。1928年に初めて日本で発見され、徐々に生息域を広げてきました。画像の個体はまだ幼虫ですので体は小さいですが、動画をクリックすると横綱らしくゆったりと貫録ある姿で移動する様子が見られます。神奈川県立生命の星地球博物館の高桑正敏先生は、ヨコヅナサシガメはトラックの積み荷などと一緒に東名高速沿いに分布を広げた可能性があるとの見解を、以前、博物館の会誌に発表なさいました。数年前に先生にその可能性の高さについてうかがってみたことがあります。先生はヨコヅナサシガメの数があまりに増えすぎてもはや移入ルートの検証は不可能となってしまったとおっしゃいました。
今日のことば
サシガメといった聞き慣れない連中は、和名の刺椿象あるいは刺亀虫と書くと、なんとなくおわかりいただけると思う。とどのつまり、刺す。カメムシの仲間で、口に鋭いストローをもっているが、カメムシのように植物の茎葉に突き立てるのではなく、おもに毛虫やクモに向けられている。害虫をやっつける腕利きのお庭番であるが、見てくれが悪いために、たいていはひどい扱いを受けている。
なかでもサクラに好んでつくヨコヅナサシガメは、冤罪の被害者。幼虫の間は集団で過ごし、アメリカシロヒトリなどのおじゃま虫たちをやっつけているのに、およそこの黒い集団こそが迷惑と思われ、「大切な桜に見慣れない害虫がいる。駆除法を教えてほしい」と博物館などに問い合わせがくるケースが多いという。
森昭彦
2013.03.19
希少種のフデリンドウの群生地を校内で発見 越冬したカナヘビにも出会う
2013.03.19 Tuesday
来年度の高校1年生の総合学習を担当する先生方と「共生の森」と間伐体験学習予定地を見に行きました。「共生の森」から間伐体験学習予定地へと移動する途中、すすき野原でフデリンドウの群生している場所を見つけました。一つ見つけただけでも心躍るフデリンドウがあちこちに生えている光景に本当に驚きました。これも冬に不二農園の方が草刈りをしてくださったおかげです。フデリンドウは奈良県で絶滅危惧Ⅱ類に、京都府で準絶滅危惧種に指定されています。すすき野原の終点近くにはカナヘビもいました。天敵に襲われた痕がしっぽの先に残るたくましいカナヘビでした。季節はますます春らしくなっていきます。
今日のことば
我が心深き底あり喜びも憂ひの波もとどかじと思ふ
かにかくに思ひし事の跡たえて唯春の日ぞ親しまれける
西田幾多郎
2013.03.18
スイカズラハモグリバエの幼虫が葉の中を食べ進む様子を撮影
2013.03.18 Monday
春を迎えて絵かき虫たちの動きも活発になってきました。東名高速沿いの道のスイカズラの葉にはスイカズラハモグリバエの食痕が目立っています。拡大すると幼虫がもぐっている様子がわかります。
動画では懸命に食べ進んでいる様子もわかります。小さな命の躍動です。食べ痕がカーブしているのは天敵に自分の位置を悟らせない工夫だという説がありますが、寄生蜂は目ざとく見つけて急所に針を刺します。命の躍動が命の危機を招くことも少なくないことでしょう。
今日のことば
抗議しなければならない時に沈黙してしまえば、自らを臆病者にしてしまう罪を犯すことになる。
エラ・ウィーラー・ウィルコックス
2013.03.17
三椏の花とビロウドツリアブと『どくとるマンボウ昆虫記』
2013.03.17 Sunday
第二牧草地へと向かう道の途中に三椏の木があります。咲き始めた黄色い花にビロウドツリアブが来ていました。三椏の花ほど春を迎えた喜びを感じさせてくれる花は少なく、ビロウドツリアブほど一年の時のめぐりを強く実感させる春の虫はありません。今この時しか味わえない不二の自然の風景を愛おしみたいものです。
今日のことば
幸か不幸か、それからほどなく私は腎臓病にかかった。かなり重いらしく半年間寝ていなければならなかった。腎臓病という病気は何にも食べられない。蛋白も塩気もいけないのだ。これは子供の身にとっては大変なことである。カレーライスの匂いのする日には涙がこぼれた。私の血の中には意地汚い血はあまり流れていなかったにもかかわらず、それから私はイジキタナクなった。みんなさすがに気の毒がって『昆虫図譜』の正篇を買ってくれた。
退屈さが私をいっそうその本に惹きつけた。私はくりかえしくりかえし、表紙がすりきれるまで『昆虫』をながめた。原色写真の形態をあらかた見覚えてしまった。名前もおぼえた。さらにラテン語の学名までをかなり暗記した。私はその横文字を読むことができなかったが、大人がよんでくれた。それで私は、クロアゲハはパピリオ・プロテノール・デメトリウスといい、カブトムシはアロミリナ・ディコトムスということを覚えた。それは何が何やらわからないだけにいっそう面白かった。学問というものだってみんな初めはそんなものだ。何が何やらわからないから人々はオヤオヤと思う。ところが、少したって少しわかったような気がするともう飽きてしまう。いつまでたっても何が何やらわからないと、これもやっばり飽きてしまう。永久に何が何やらわからないのが一番面白いことなのに。
何月か『昆虫図譜』と寝ていたおかげで、私は虫の名を覚えた。何かを覚えるということはそれほど大したことではない。それでも、ようやく起きられるようになって縁側まで出てみたとき、私はその効果を知った。もう春であった。その春の陽光の中に、一匹の虻が宙からつりさげられたようにじっと浮んでいた。綿毛のかたまりのような可愛らしい虻である。一目見て私にはその名称がわかった。ビロウドツリアブ。彼女とははじめて出会った筈だのに、私はずっと以前からの旧知のような気がした。むこうではそんなふうに思わなかったらしく、アッというまにどこかへ消えてしまった。しかし私にとっては、自分の住んでいる世界がいささかなりとも広くなったように感じられたのである。
『どくとるマンボウ昆虫記』(北杜夫)より