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フィールド日記

2013年01月

2013.01.31

有明の月  炭焼きの歴史とクヌギとクヌギエダイガタマフシ

  2013.01.31 Thursday

 午前7時30分頃のすすき野原の写真です。中心に有明の月が見えます。今日は陰暦では12月20日です。国語の授業では「陰暦の16日以降に夜があけても空に残っている月」が「有明の月」だと教えます。

 不二聖心のお茶は、かつては敷地内のお茶工場で作られていて、製造する時の燃料として炭を使っていた時代がありました。炭焼きも敷地内で行われていたのです。不二聖心にクヌギの木が多いのは、炭焼きの材料としてクヌギが使われていたことと関係しています。クヌギに集まる生物の種類は無数といってよく、クヌギの多さが不二聖心の生物多様性を高めてきたと言えるでしょう。下の写真の虫こぶはクヌギエダイガフシで形成者はクヌギエダイガタマバチで、クヌギにつく代表的な虫こぶです。その下の写真のハチはクヌギエダイガタマバチの寄生蜂です。寄生によって生物多様性はさらに高まり、生態系は安定性を増していきます。

 


 

 

今日のことば

       半世紀前に(戦争で)殺され ものいわない白骨となった
       数えきれないほどの 人々のなかから
       せめて
       一人の少女の
       一人の少年の
       面影を
       そっと胸のなかにしまいましょう。

「1995・千鳥ヶ淵で」(石川逸子)より  

2013.01.30

ラッパズイセンが咲きました

 

 2013.01.30 Wednesday

 グラウンドの横の道にラッパズイセンが咲きました。通常は3月に開花するとされるラッパズイセンですが、早いものは今の時期から目にすることができます。明治時代に日本に渡来して以来、早春の花として親しまれてきました。英名はDaffodilでワーズワースの詩でもよく知られています。不二聖心の中学3年生は、ワーズワースがラッパズイセンを歌った詩を全員暗唱することができます。

 

今日のことば 

私たちが生きてゆくということは、誰かを犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレート受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。

星野道夫  

2013.01.29

朝のすすき野原  イスノフシアブラムシの赤ちゃん

  2013.01.29 Tuesday

 今朝のすすき野原の風景です。すすき野原の向こうには昨年の8月に「夏休み子供自然体験教室」で「生き物探しゲーム」を行った牧草地が見えます。不二聖心で見られる広大な自然の風景です。
日が長くなったために早朝でもこれだけ明るい写真が撮れるようなりました。

 

 イスノフシアブラムシが1ミリの子供を生みました。イスノフシアブラムシは今の時期は卵ではなく子供を生みます。つまり胎生ということです。大きさは1ミリ程度でした。不二聖心で見られる小さな命の姿です。
この小さな命がやがて成長して、「ひょんなこと」という言葉の語源となった虫こぶをイスノキに作ります。


今日のことば                         
   

 十八歳の頃だった。北方の自然に憧れていた。シベリアでもアラスカでも、北海道でもよかったのかもしれない。子どもが夢を託すような、説明のつかない、漠然とした憧れだった。
ある日、神田古本屋街の洋書専門店で見つけた一冊のアラスカの写真集。次のページの写真がめくる前にわかるほど、僕はこの本を読み尽くしてゆく。アラスカに関する情報がなかった当時、その本が、自分の現実をつなぎとめていた。その中に小さなエスキモーの村の空撮の写真があった。夕陽がベーリング海に沈もうとする、逆光のいい写真だった。僕はこの写真の持つ不思議な光線に魅かれていた。そして、どうしてこんな荒涼とした場所に人間の生活があるのかと、写真の持つ背景に心を奪われていった。
この村を訪ねてみたいと思った。写真のキャプションにShishmarefと書いてある。地図の中にその文字を見つけた。しかし訪ねようにも方法がわからない。手紙を書こうにも住所がわからない。辞書でmayorという単語を見つけた。「代表者」……きっと村長のような意味だ。これでいこう。

      Mayor
      Shishmaref
      Alaska  U.S.A

 それから半年がたち、何の返事もないまま、僕は手紙を出したことさえ忘れかけていた。ある日、家のポストに、外国郵便の封筒が落とされた。

      Cliford  Weyiouanna
      Shishmaref
      Alaska

遠いアラスカがすぐそこで、自分の憧れを受け止めていた。
そしてこの村で過ごした一九七一年の夏。
この旅は、僕にひとつのことを教えてくれた。それは、こんな地の果てと思っていた場所にも人の生活があるというあたり前のことだった。人の暮らし、生きる様の多様性に魅かれていった。どんな民族であれ、どれだけ異なる環境で暮らそうと、人間はある共通する一点で何も変わらない。それは、だれもがたった一度のかけがえのない一生を生きるということだ。世界はそのような無数の点で成りたっているということだ。シシュマレフ村でのひと夏は、時がたつにつれ、そんな思いを自分に抱かせた。

星野道夫  

2013.01.28

雪化粧したグラウンド  ローラ・インガルス・ワイルダーとポポー

  2013.01.28  Monday

 昨夜、裾野市では雪が降り、グラウンドもうっすらと雪化粧しました。


 

 『大草原の小さな家』で有名なローラ・インガルス・ワイルダーの『我が家への道』を読んでいたら、「どっさりなっている黒イチゴ、桃やプラムやサクランボの苗木、小さな木になった見るからに甘く熟れた、わたしの知らない果物など、とにかく野生の果物が、たわわに実っているのだ。」という一節がありました。そこには注がついていて、「わたしの知らない果実」とは「野生の柿とポポー(北米温帯地方産の果樹)」のことだと書いてありました。実は、なぜか不二聖心にはこのポポーが茶畑にあるのです。確かに夏に甘い実がなります。ローラも知らなかったポポーですから、私たちの多くにとっては全くなじみのない樹木です。今は葉も実もつけていませんが、枝ぶりや冬芽を見るだけで特徴的な樹木であることがわかります。

 

             

今日のことば   

                      
    
考えるというのは、つまり言葉で考えることなんだ、ということに自分で気がついたのも、その木の上の、本を読む小屋であったことを思い出します。林の木々の一本、一本がまっすぐ立っているのを眺めるのが好きで、人間も(自分も!)ああいうふうであったらいい、と思いました。その人間の生き方への思いのなかには「しなやかさ」が、そして大学に入ってから知ることになる、upstanding、まっすぐひとり立つという英語の感じが、ふくまれていたように感じます。

大江健三郎  

2013.01.27

イスノフシアブラムシからツヤコバチ現れる  生物農薬と化学農薬

 

 2013.01.27 Sunday

 イスノフシアブラムシから寄生蜂が出てきました。ツヤコバチ科のハチで体調は2ミリ程度です。ツヤコバチ科には生物農薬として市販されているオンシツツヤコバチやシルベストリコバチなどがいます。生物農薬は化学農薬に比べて残留毒性が低いという利点があり、ツヤコバチの研究は生態系の維持のために重要な意味を持ちます。

今日のことば

 ミツバチの大量失踪。謎の異常現象が2000年代後半から世界的に顕在化してきた。ウイルス、ダニ、環境変動など様々な要因が取り沙汰された。
そんな中、いまひとつの物質名が浮上しつつある。ネオニコチノイド。害虫には卓効、人間には無害。少量で効き目が持続するから減農薬になる。画期的な新農薬として日本では水田に大量散布されるようになった。著者はこれを、企業、政府、農協、あるいは食の問題に敏感なはずの生協でさえもが参加して作り上げた「もうひとつの安全神話」だと指摘する。
効果が持続するがゆえに中長期的な影響こそが問題なのだ。実験データはこう告げる。致死量以下でも、ネオニコチノイドを浴びたハチは神経を侵され巣に帰らなくなると。
自然は動的平衡の網目からなりたつ。ひずみは全体に伝播する。ゆっくり時間をかけて。これは想定外の事象でない。私たちは意識の警戒レベルを上げなければならない。

『新農薬ネオニコチノイドが日本を脅かす』の書評(福岡伸一)  

2013.01.26

シダらしくないシダ マメヅタ

 

 2013.01.26 Saturday
文一総合出版の『シダハンドブック』には「シダらしくないシダ」というページがあって、そこでマメヅタというシダが紹介されています。写真に写っているのが、そのマメヅタです。立っているのが胞子葉で地面を這うように広がっているのが栄養葉です。マメヅタは、地域によっては数を減らしつつあり、宮城県と新潟県で絶滅危惧Ⅱ類に、富山県と石川県と東京都で準絶滅危惧種に指定されています。裏道にマメヅタが生えている場所があるのはわかっていましたが、新しく聖心橋の手前にも群生地を見つけました。和歌山県では、このシダをサルノゼニ(猿の銭)と呼ぶそうですが、不二聖心の群生地も猿をよく見かける場所です。

今日のことば 

胸中に物無きは虚にして実なるなり。万物皆備わるは実にして虚なるなり。

                             『言志後録』より

2013.01.25

マラソン大会  イワボタン

  2013.01.25 Friday

 今日はマラソン大会が行われました。コース終盤は裏道の坂道です。その厳しいコースを懸命に走っている生徒たちは実にいい表情をしていました。

 

 生徒たちが走る裏道は、貴重な生物が数多く生息する道でもあります。下の写真はイワボタンです。裏道で最もよく見られる植物の一つです。佐賀県では絶滅危惧Ⅱ類に、鹿児島県では準絶滅危惧種に指定されています。イワボタンは湿地に生える植物ですが、裏道はいろいろなところで水が湧き出ていてイワボタンにとって適度な湿り気が土に含まれています。

                 
今日のことば

 

 昨日の新聞から35   平成17年4月18日(月)

曽野綾子の『二十一歳の父』を読む ―― ビタースウィートな青春 ――



4月10日の産経新聞に「ワンルームフォークの不思議」という記事が出ていました。次のような書き出しの記事です。

 ドラマ「3年B組金八先生」挿入歌に使われ、問い合わせが殺到するなど話題を呼んだ「私をたどる物語」が、今月六日、シングルCDで発売された。作曲し、歌っているのはシンガー・ソングライター、熊木杏里(二三)。ドラマに主演する武田鉄矢が書いた歌詞に「曲をつけてみないか」と誘われ、武田が歌うことを前提に作ったら本人から「自分で歌ってごらん」と勧められた。

 番組放映中から「問い合わせが殺到した」曲とはどのような曲なのだろうか。すぐに購入して聴いてみました。曲を伝えられないのは残念ですが、武田鉄矢の歌詞は次のようなものでした。

 頬をぶたれた少年がひとり/日暮れの道で泣いている/父が憎いと声とがらせて/涙でゆがんだ空見てる
遠い未来が不安でならず/呼ばれて返事しなかった/だけどやっぱりきみが悪いよ/自分を隠しているからさ
さあ鉛筆しっかり握りしめ/私という字を書くのです/白いノートの私にだけは/夢を話してゆくのです
君しか書けないその物語/私という名の物語

 髪を切られた少女がひとり/鏡の前で泣いている/母が嫌いと声をつまらせ/自分を悔しくにらんでる
ちがう親から生まれていたら/ちがう自分になれたという/だけどやっぱり/きみはちがうよ/そしたらきみはいなくなる
さあ鉛筆しっかり握りしめ/私という字を書くのです/白いノートの私とだけは/ずっと仲良くするのです
君しか書けないその物語/私という名の物語

 なかなか味わい深い歌詞だと感じました。「自分探しの応援歌」とでも言える歌ではないかと思いました。自分を受け入れることをすすめ、自分らしく生きようとする人をあたたかく励ます歌だと僕は聴きました。
「さあ鉛筆しっかり握りしめ/私という字を書くのです」という歌詞を何度も聴いていて一つ思い出した小説がありました。
曽野綾子の『二十一歳の父』(新潮文庫)という小説です。(書店では入手困難。不二聖心の図書館には二冊あります。)これもまた主人公の酒匂基次という青年が自分らしく生きようとする姿に対して作者が温かいまなざしを向けている小説でした。この本とは、常盤新平の『ペイパーバック・ライフ』という本の中で次のような文章を読んだことがきっかけで出会いました。

 『二十一歳の父』を文庫で読みかえしてみた。文庫の第一刷は昭和四十九年で、私の手もとにあるのは昭和五十四年九月五日発行の第十六刷である。五年間で十六刷ということは、一年に三回の増刷であって、このビタースウィートな青春小説のために、慶賀すべきことだ。私も最も初期の愛読者の一人としてうれしい。
私はじつに涙もろいほうで、いっしょに酒を飲んでいて、相手に「君、泣いちゃいけない」などと言いながら、先に涙をこぼしてしまうほうである。しかも、そのあとで酒癖が悪くなるから、翌日はもう布団をかぶって、恥かしさに耐えている。
しかし、『二十一歳の父』を雑誌で読んでいたころは、まだ下戸だったのに、たとえば、恋人の巌間恭子が、大学を卒業できるかどうかわからない、ただし生活力のある越秋穂に言う、なにげない言葉に胸が熱くなった。「たいていの人が生きているじゃない」と彼女は言うのである。そしてーーはい、私も生きています、と心のなかで呟いたおぼえがある。あのころ、私はそれほど涙もろくなかった。
十数年ぶりに『二十一歳の父』を再読しても、昔の印象は少しも変らなかった。いい小説だなあ。このひとことに尽きる。そのことに満足して、クリーネクスで鼻をかんだ。
それにしても、この私も変っていないと思った。三十歳のときと同じように、小説のおんなじ箇所で目と鼻が妙にゆるんでくるなんて、ちょっと情ないじゃないかとも思った。でも、この年齢で変身するのは無理だ。

 常盤新平をして「いい小説だなあ。」と言わしむる小説がどんな小説なのか、さっそく買って読んでみましたが、期待に違わずすばらしい小説でした。
主人公の酒匂基次(さかわもとつぐ)は、エリートの家庭に生まれながら親と同じ道を歩もうとはせずに親の期待を裏切る人物として登場します。例えば父親が基次の通う大学の教授に次のように話す場面があります。

「私共では長男のほうは、まあまあ出来がよろしいのです。東大を出て、日銀に入りました。しかし次男はさんざんです。お世話になっておきながらそういうのもひどいものですが、実は入学の時もやっと入れて頂いたような状態でした」
酒匂は意味深長なものの言いかたをした。それからふと彼は長男の結婚式の日の嫁の姿を思い出した。白無垢を着て神々しいような花嫁であり、色なおしになって客をおくり出す時には、いっぱしのもの馴れたホステスぶりを見せた女である。嫁はW銀行頭取の娘でカトリック系の女子大学を出ている。語学もお料理も刺繍もみっちりと仕込まれていた。式は帝国ホテルで行われ仲人は広報社社長であった。立派な息子は、いい嫁をつかまえることが出来るという見本のような結婚式である。
その宴に、次男の基次は、髪も髭もぼうぼうの姿で現われた。式の前々日床屋へ行けと命じると、それ位なら兄さんの結婚式には出ない、と言い出した。其次はどちらかというと無口で不器用な子であったが、大学の演劇部に籍をおいて、映画のエキストラに出るために髪と髭を伸ばしているのだった。
「金がいるなら、その分だけ父さんがやるから、エキストラはやめて床屋へ行け」
酒匂はそう言ったが、其次はうんと言わなかった。
「何という映画だ?」
しまいには酒匂は息子に尋ねた。それは「敗走千里」という戦争ものの映画であった。舞台はフィリピンのジャングルが主である。
「だけど僕の出るのは違うんだ。夕陽を受けた砂浜に、見渡す限り死体が散らばってる、その死体になりに行くんです。やせて、髪や髭がのびている学生を募集しているんです」
酒匂は呆気にとられた。きいてみると、エキストラばかりではあるが、其次は実に今までに八本の映画に出演しているというのである。死体役になることにどうしてそう執着するのか酒匂はとても理解出来なかった。しかし、父子はいくらか言い合った挙句、結局、酒匂は折れることにした。
其次は乞食のような頭に学生服を着こんで結婚式に列席した。酒匂は男であったのでいざとなれば次男の髪のことなど気にもかけていなかったが、其次の叔母にあたる酒匂の妹は気にして、会う限りの人に其次の言訳ばかりしていた。

 基次は大学を出てもろくな就職もせず、ついには最も親を落胆させる行動に出ることになります。ここからあとは話の筋を明らかにするのはやめましょう。自分自身で物語を読みながら、「鉛筆しっかり握りしめ/私という字を書」こうとした基次にとって本当の幸せとは何であったのか、そして私たちにとって真の幸福とは何であるのか、じっくりと考えてみてください。

2013.01.24

1月のユズリハは特別です

  2013.01.24 Thursday

 縁起物のユズリハをあちこちでよく見かけた1月がまもなく終わろうとしています。不二聖心では聖心橋の手前でユズリハの木を見ることができます。1月が終わっても、親が子を健やかに育て家が代々続いていきますようにというユズリハに込められた思いを折々に思い出していきたいものです。

今日のことば

 昨日の新聞から 87 平成19年1月22日(月)

 『風と木の歌』(安房直子・偕成社文庫)を読む

   ―― さびしさは人の心を深くとらえ、落ちつかせるものなのだ  ――

読売新聞の土曜日の夕刊に「名作ここが読みたい」という連載があります。各界の著名人が、思い出に残る名作を取りあげ、その中で最も印象に残る箇所を紹介します。
11月25五日(土)は、児童文学作家のあまんきみこが、安房直子の「だれも知らない時間」という作品を紹介していました。

 まず、次のようなあらすじが載っています。

漁師の良太は、あと100年ほど命が残っているカメから毎晩1時間の時間をわけてもらい、夏祭りの太鼓の練習をしています。そこへ、昔やはりカメから時間をもらったという少女が来ました。少女はその時間を使って、海の上を走って島の病院に入院している母親に会いに行っていましたが、時間が切れて海の底へーーカメの夢の中へ落ちてしまったのでした。良太はカメに、少女を返してもらえないかと聞きました。

 次にあまんきみこが最も心に残る箇所として挙げている部分の引用が続きます。

 「でも、わたしも知らないんだ。いちど、夢の中にとじこめたものを、どうやってたすけだすのか。」
「ほ、ほんとかい。」
「ああ、わるいことしたね。」
良太は、目をまんまるくして、しばらくおそろしそうに、カメを見つめていましたが、やがて、にぎっていたこぶしをパラリとほどきました。それから、決心したように、こういったのです。
「そんならいっそおれも、おまえの夢の中にいれておくれ。百年間でられなくてもかまわない。あの子といっしょに、海の底でくらすよ。」
これをきくと、カメは、はじめて、ぱっちりと目をあけたのです。そして、良太をまっすぐに見つめると、しっかりした低い声で、こういいました。
「それはいけないね。元気なわかいものが、そんなことしちゃいけないね。」
「それじゃ、どうすればいいのさ。」
「やっぱり……わたしがなんとかしよう。」
「方法があるのかい。」
「ああ。たったひとつ。そう、夏まつりの晩までまっておくれ。」
「夏まつりまで?」
良太は、まつりまでの日にちをかぞえました。
「あと、ひい、ふう、みい、三日まつのかい。」
カメはうなずくと、ふとかなしそうな目をして、それから、ぽつりといいました。
「まつり晩はながいよ。」
それっきり、カメは首をひっこめて、良太がいくらよんでも、石のようにうごきませんでした。
(偕成社文庫『童話集 風と木の歌』207~208ページより)

 そしてこのあとに、あまんきみこの文章が続くという構成になっています。続けて引用してみましょう。

 安房直子さんが生きておられると、今、63歳。私は63歳の安房さんの作品を読みたい。50歳で永眠した安房さんが惜しまれてならない。天賦の才に恵まれた方だった。
「だれも知らない時間」は、初期の短編集『風と木の歌』に「きつねの窓」「鳥」「さんしょっ子」などとともにおさめられている。
このくだりは、老いたカメから毎晩1時間だけ時をゆずり受けた若者とそのカメの会話だ。だれも知らない不思議な時間に、太鼓のけいこを続けていた若者が、カメの夢に閉じこめられている少女を助けようとたのんでいる場面。「まつりの晩はながいよ」というカメの一言には深い意味がある。

実はこのあとも、あまんきみこの文章は続くのですが、これ以上引用すると話の結末がわかってしまうので、このあたりで引用をやめておきたいと思います。「まつり晩はながいよ」というカメの言葉にこめられた「深い意味」とは何なのか、実際に作品を読んで確かめてみてください。
この新聞の連載がきっかけで、僕は実に久しぶりに安房直子を読み直しました。十年以上、安房直子の作品は読んでいませんでしたが、今度読んでみて驚いたことは、二十代のときよりも作品がおもしろく感じられるということでした。『風と木の歌』に収められている短編はどれもすばらしく、最後に添えられた解説もまた読み応え充分でした。
解説を書いているのは蜂飼耳で、今まで読んだどの安房直子論よりも安房直子の作品の本質をよくとらえているように感じられました。一部、引用してみましょう。

 安房直子の童話には特別な輝きがあります。それは、たとえばダイヤモンドのような、はではでしいきらめきではありません。むしろ、真珠やガーネットを思わせる、ひかえめだけれど、たしかな底光りを感じさせるような輝きです。
その童話のおもしろさは、おかしくて思わず声をたてて笑ってしまう、という性質のものではありません。そうではなく、ひたひたと心にせまってきて、本をとじたあとも、いつまでも体の底にずっしりと残りつづけるようなおもしろさなのです。(中略)
『風と木の歌』におさめられた八編の童話は、どれも体の底に響く深さをもっています。幸せ、悲しみ、じぶんの力ではどうにもできないものを受けいれること、信じること、うらぎること、うれしいこと、楽しいこと。生きていくことのすべてを抱きしめるようなこれらの童話にあるものは、なんだろうと、と考えます。いったい、なんだろう、と。それは、たぶん、勇気のようなものだと思います。じぶんの目の前でおきていることやじぶんがおかれている状況から目をそらさない勇気のようなもの。つらい、とか、いやだ、とか思うほんの少し手前で、目をそらさずに見つめる勇気のようなもの。大きな場面ではなく、むしろ小さな、見のがされてしまいがちな場面でこそ、見つめる力はしっかりとはたらくものなのかもしれません。
この童話集にはいっている作品のなかでわたしがもっとも好きなのは「きつねの窓」です。
この作品とであったのはたぶん、小学校の国語の教科書でのことだったと思います。国語の教科書などというと、なんだか、つまらないものの代名詞のようにきこえるかもしれません。学校も授業もたいして好きではない、おとなしい子どもだったわたしは、国語の時間も教科書のかたすみに落書きなどして、ぼんやりと空想にふけってばかりいました。
そんなある日のこと。国語の授業は「きつねの窓」へすすみました。読んで、びっくりしました。なんてさびしく、なんて美しい物語なんだろう、と胸をつかれた瞬間をそれから二十年たったいまもわすれません。
さびしいものより、明るく楽しいもののほうがいい、と受けとられがちな世の中かもしれませんが、そうとはかぎらないのです。さびしさは人の心を深くとらえ、落ちつかせるものなのだと知ったのは、もしかすると、この物語を読んだときだったかもしれません。(中略)
「さんしょっ子」「鳥」「だれも知らない時間」は、愛することの哀しみを描いています。愛する気もちというものは、ただ単にうちあければいいというものではありません。それは、ときにはじぶんの内側を破壊してしまうほど、深くからゆりおこされる感情の動きです。苦しくて避けたくなるような感情も作者は手にとって見つめています。その勇気が物語をいきいきと輝かせ、いつまでも体の底に残る響きをうみだしているのです。安房直子の童話は、作者がいなくなったいまも、ひっそりと静かに輝きつづけています。

 

 幸いなことに不二聖心の図書館には『安房直子コレクション』(全6巻)がすべて入っていますので、安房直子の作品のほぼすべてを読むことができます。そして、このコレクションのうれしいところは、それぞれの巻末に安房直子のエッセイが少しずつ収められていることです。
これを機にエッセイをいくつか読み、安房直子さんという童話作家の人柄についても少し知ることができました。あるエッセイのなかで安房直子さんは、「私の作品は、どうか、なるべく、文学の教材として、あまり切りきざまずに、まるごと読まれてほしい」と言っています。ここからは、この願いを聞き入れて、あまり多くを語ることはやめ、僕の好きな「鳥」の最初のところをできるだけ長く引用して「昨日の新聞から87」を終わりたいと思います。

 ある町に、耳のお医者さんがいました。
小さな診療所で、くる日も、くる日も、人の耳の中をのぞいていました。
とても、うでのよいお医者さんでしたから、待合室は、いつも満員でした。遠い村から、なん時間も列車にゆられてかよう人もありました。耳がきこえなくなりかけたのが、このお医者さんのおかげで、すっかりなおったという話は、かぞえきれません。
そんなふうで、毎日が、あんまりいそがしかったものですから、お医者さんは、このところ、すこし、つかれていました。
「わたしも、たまに、健康診断しなくちゃいけないな。」
夕方の診療室で、カルテの整理をしながら、お医者さんは、つぶやきました。いつも、看護婦役をしてくれるおくさんは、ついさっきでかけてしまい、いま、お医者さんは、たったひとりでした。夏の夕日が、その小さい白いへやを、あかあかとてらしていました。
と、ふいに、うしろのカーテンが、しゃらんとゆれて、かんだかい声がひびきました。
「せんせ、おおいそぎでおねがいします!」
耳のお医者さんは、くるりと、回転いすをまわしました。
カーテンのところに、少女がひとり立っていました。片方の耳をおさえて、髪をふりみだし、まるで、地のはてからでも走ってきたように、あらい息をしていました。
「どうしたの。いったい、どこからきたんだね。」
お医者さんは、あっけにとられてたずねました。
「海から。」
と、少女はこたえました。
「海から。ほう、バスにのって?」
「ううん、走って。走ってきての。」
「ほう。」
お医者さんは、ずりおちためがねをあげました。それから、
「まあ、かけなさい。」
と、目のまえのいすをしめしました。
少女は、まっさおな顔をしていました。その目は、大きく見ひらかれ、まるで、毒をのんでしまった子どものようでした。
「それで? どうしたの?」

2013.01.23

異常気象か狂い咲きか 1月にタマキクラゲ現れる

 

 2013.01.23 Wednesday

  春になると見られるキノコとして知られるタマキクラゲがすすき野原のクヌギの木に発生しました。昨年の3月19日に「不二聖心のフィールド日記」でタマキクラゲを紹介し、「いつの年も変わることのない不二聖心の春の風景です」と書きました。今年は何か気象に変化があったのか、それとも狂い咲きのような現象なのか、不思議です。
昨年の記事は以下のURLをクリックすると読むことができます。
フィールド日記 2012.03.19 タマキクラゲ

今日のことば

 世界がいかにあるかではなく、そもそも世界があるということ自体が神秘的なことである。

 

                           ヴィトゲンシュタイン

2013.01.22

鳥がついばんだサネカズラの実  ニッケイハミャクイボフシ

  2013.01.22 Tuesday

 百人一首の「名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられで来るよしもがな」の歌で知られるサネカズラの実が裏道に落ちていました。近くにサネカズラの木は見あたりませんので、どこからか鳥が運んできたのかもしれません。鳥がついばんだようなあとも確認できます。

 

 2枚目は、裏道に生えていたヤブニッケイの葉の写真です。葉上にニッケイハミャクイボフシという虫こぶを確認することができました。不二聖心初記録です。『日本原色中えい図鑑』にはニッケイハミャクイボフシについて次のような説明があります。


ニッケイトガリジラミによって、葉表に形成される小さないぼ状の虫えいで、ほとんどの場合葉脈に沿っている。普通、淡緑~黄緑色で、ときに紅葉色、表面は光沢がある。


この虫こぶは、1930年代から知られていた虫こぶで、宮沢賢治の作品の登場人物のモデルになった門前弘多博士もニッケイハミャクイボフシについて研究していたことがわかっています。


今日のことば

 冬は庭木の根元を見ると、静かな気持ちを感じさせる。灰ばんだ土へしっかりと埋め込まれて森乎(しん)としながら、死んでいるような穏やかさを持っているからである。庭を愛する人々よ、枝や葉を見ないで根元が土から三四寸離れたところを見たまへ。そういう庭木の見かたもあることを心づいたら、わたくしの言うことはないのである。

                                   室生犀星