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フィールド日記

2013.03.01

キジムシロの奇形 2年連続の発見

  2013.03.01 Friday

 3月になるのを待っていたかのようにキジムシロが開花を始めました。掲載した2枚の写真はいずれもキジムシロの写真ですが、1枚目と2枚目を比較して違いがわかるでしょうか。上の写真は花弁が6枚ですが、下の写真は5枚です。上の写真はキジムシロの奇形なのです。昨年もほぼ同じ場所で同じ奇形を見ていますので2年続けての奇形の発見となりました。

今日のことば

昨日の新聞から45  平成17年7月11日(月)

『村田エフェンディ滞土録』を読む
――私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもないーー    

今年の4月にクラスの生徒に「中学3年生になって」というプリントを配り、中3になっての抱負を書く時間をつくりました。その中に愛読書について書く欄を設けたところ、ある生徒はその欄に次のように書いていました。

好きな作家は梨木香歩さんです。「西の魔女が死んだ」すっごいオススメです。泣けます。図書館にあります。ぜひ読んでください。

「西の魔女が死んだ」というタイトルからファンタジーのような作品だろうかと思いましたが、それはまるで見当違いでした。新潮文庫の裏表紙には次のようにあらすじが要約されています。

中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変わるひと月あまりを、西の魔女のもとで過した。西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。喜びも希望も、もちろん幸せも……。

これを読んで「魔女」が主人公のおばあちゃんであることがわかりました。物語はこの「西の魔女」と呼ばれるおばあちゃんが亡くなるところから始まります。


西の魔女が死んだ。四時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。まいは事務のおねえさんに呼ばれ、すぐにお母さんが迎えに来るから、帰る準備をして校門のところで待っているようにと言われた。何かが起こったのだ。
決まりきった退屈な日常が突然ドラマティックに変わるときの、不安と期待がないまぜになったような、要するにシリアスにワクワクという気分で、まいは言われたとおりに校門のところでママを待った。
ほどなくダークグリーンのミニを運転してママがやってきた。英国人と日本人との混血であるママは、黒に近く黒よりもソフトな印象を与える髪と瞳をしている。まいはママの目が好きだ。でも今日は、その瞳はひどく疲れて生気がなく、顔も青ざめている。
ママは車を止めると、しぐさで乗ってと言った。まいは緊張して急いで乗り込み、ドアをしめた。車はすぐ発進した。
「何があったの?」
と、まいはおそるおそる訊いた。
ママは深くためいきをついた。
「魔女がーー倒れた。もうだめみたい」
突然、まいの回りの世界から音と色が消えた。耳の奥でジンジンと血液の流れる音がした、ように思った。

このように物語は始まりますが、13ページからは時間が一度二年前に戻り、おばあちゃんとのさまざまな思い出が語られていきます。思い出の中で語られるおばあちゃんは「魔女」というよりも「哲学者」か「思想家」か「教育者」という感じで、心に響く言葉を次々に口にします。例えば次のような言葉です。

「おばあちゃんは、人には魂というものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにもよく分かりません。いろいろな説がありますけれど。ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら」(中略)
「魂は身体を持つことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとって願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会を与えられたわけですから」
「成長なんて」
まいは、なぜだか分からないが腹が立ってきた。
「しなくていいじゃない」
おばあちゃんは困ったようにため息をついて、
「本当にそうですね。でも、それが魂の本質なんですから仕方がないのです。春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです」

少女まいとともにおばあちゃんの言葉に耳を傾けているうちに、物語は静かに進んでいき、最後はたった四文字のおばあちゃんの言葉で物語が閉じられます。
『西の魔女が死んだ』を読んでから雑誌や新聞に「梨木香歩」という名前が載っていると自然にそちらに目が行くようになりました。数週間前のある日、不二聖心の図書館でブックスタンドに立てかけられている梨木香歩の本(『村田エフェンディ滞土録』)を見つけたのです。それは今年度の読書感想文コンクールの課題図書を展示したコーナーでした。「おや、梨木香歩の本が課題図書に選ばれたのか」と思い、昨年の小川洋子に続く粋な人選に驚きと喜びを覚えました。ただその時は時間がなく手にとって見ることまではしませんでした。ところがこの本の横を通るたびにどうもこの本のことが気になってしかたがないのです。おそらくブックスタンドに立てかけられた本のたたずまいが何とも言えず魅力的だったからだと思います。決して派手な装丁ではないのですが、中村智という人の落ち着いた品のいい装丁は『村田エフェンディ滞土録』が読むに値する名作であることを静かに語りかけているように思われ、ついに僕はこの本を手にとりました。そして、表紙をめくるとカバーの内側に印刷されている言葉が目に入りました。「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない…」という言葉です。これを読んでこの本は間違いなくいい本だという確信のようなものを僕は持ちました。
7月3日の毎日新聞は大きく見開き2面を割いて読書感想文コンクール特集を組んでいました。もちろんそこでも『村田エフェンディ滞土録』が紹介されていました。その紹介文を引用してみましょう。

トルコに留学した村田君。国を超えて結ばれた友情はやがて悲劇にーー。友だち、宗教、国境とは何だろう。百年前の青春を描く感動小説。

村田はトルコ皇帝の招かれて歴史文化研究のためにトルコにやってきて、ディクソン婦人という英国人の経営する下宿に滞在しています。この下宿には他にもドイツ人のオットーやギリシャ人のディミィトリスが下宿していて、国籍も宗教も異なる人たちの交流を描くことがこの物語の軸となっていきます。先ほど引用した表紙に印刷されていた言葉は79ページに出てきました。病床にあって療養中の木下という日本人のためにディミィトリスが醤油をどこからか調達してきた場面にこの言葉は出てきました。

木下氏のことは、昨夜ディミィトリスに話してあった。そのときからこのことを考えていたのだろうか。何といい奴なのだろう。
――有り難う、本当に有り難う。この醤油ほど、日本人の心を取り戻させてくれるものはないんだ。それにも増して、彼にとって異国人である君の思いやりが、彼をどれだけ励ますことか。
私(村田)は感激のあまり口ごもった。ディミィトリスは照れくさそうに微笑んだ後、
――こんな事は何でもないことだ。「私は人間だ。およそ人間の関わることで、私に無縁なことは一つもない」。
と、呟いた。いつものことながら、ディミィトリスの呟きは実に含蓄に富んでいる。そのことを言うと、彼は、
――いや、これは私の言葉ではない。
と断り、
――テレンティウスという古代ローマの劇作家の作品に出てくる言葉なのだ。セネカがこれを引用してこう言っている。「我々は、自然の命ずる声に従って、助けの必要な者に手を差し出そうではないか。この一句を常に心に刻み、声に出そうではないか。『私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない』と」。

『村田エフェンディ滞土録』の魅力は、登場人物の多くが国籍を異にし宗教を異にするにも関わらず、「私は人間である」という意識で他国の人と関わる姿勢を持っているところにあるのではないかと思います。
しかしその国籍を超えた交流も、新聞からの引用文にあったようにやがて悲劇を迎えます。実は、最後の10ページぐらいのところまでその悲劇が何であるかは明らかにされません。それまではむしろ物語は静かに淡々と進んでいくのです。最後の悲劇について語ることはできませんが、最後をより深く味わうために、第一章(「鸚鵡」)と98ページをとりわけよく読んでおいてほしいとだけ書いておきます。

 さて、最後に、この一週間のあいだに体験した一つの出来事について書いておきましょう。『村田エフェンディ滞土録』を読み始め、その世界にひたり、気が付けばこの本のことを考えていたある日、僕は職員室のテーブルの上に置かれていた札幌聖心で発行している新聞「聖雪」の第六十六号を手に取りました。そしてパラパラとページをめくって、高校二年生の清水玲華さんの次のような文章を見つけたのです。

 ブックトーク  人が人として生きるために
去る五月二十五日(水)に本校図書館司書新田裕子先生による、人間関係ミーティング「ブックトーク あなた宛てのメッセージ」が行われました。今年は戦後六十年ということで、人は今の時代にどう生きるべきか、幸せとは何か、をテーマに戦争にまつわるたくさんの本を紹介していただきました。
その中でも特に勧めてくださったのが『村田エフェンディ滞土録』です。この本は、国も民族も違う者同士が一つ屋根の下で生活をし、互いが認め合うかけがえのない友となっていく一方で、彼らの国と国とが争いを始めてしまうという、どうにもできない国と国との境界線を描いた作品です。人が人として生きるためにそのような境界線がはたして必要なのだろうか、六十年経った今、平和について考えた時それらにどれだけの意味が存在しているのか、皆さんも一度考えてみてはいかがでしょうか。


『村田エフェンディ滞土録』を紹介しようと意気込んでいた時に、この文章を偶然目にしてとてもうれしく思いました。もしかしたら、この本が伝えようとしているメッセージは聖心が大切にしたいと考えていることとどこかで深く通じているのかもしれません。

2013.02.28

ガビチョウの鳴き声を録音しました

  2013.02.28 Thursday

  2012年5月2日の「不二聖心のフィールド日記」でも紹介したガビチョウの声を校舎の裏で録音しました。ガビチョウは特定外来生物に指定され、在来種の生息環境に悪影響を与えていると言われています。しかし元はと言えば人間がペットとして日本に輸入したのが始まります。激しく鳴く声はまるで彼等の不本意な気持ちを伝えているかのようです。
フィールド日記 2012.05.02 特定外来生物ガビチョウ

今日のことば

我々は、自然の命ずる声に従って、助けの必要な者に手を差し出そうではないか。この一句を常に心に刻み、声に出そうではないか。「私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない」と。

セネカ  

2013.02.27

卵寄生をするハラビロクロバチ科Synopeas属の寄生蜂

 2013.02.27 Wednesday

  クヌギエダヒメコブフシから様々な寄生蜂が羽化し始めています。写真のハチはハラビロクロバチ科Synopeas属の1種の寄生蜂で卵寄生をすることで知られているそうです。わずか4ミリほどの小さなハチが、虫こぶ内に形成者である小さなタマバエの卵を見つけ、そこに産卵管を刺し込んで卵内に自分の卵を産み付けるというのです。神秘としか呼びようのない現象です。かつて不二農園のお茶の生産を支えたクヌギは、今私たちに自然界の神秘を伝える貴重な木として不二聖心に存在しています。動画を見ると、触角を動かして寄主を探している様子がわかります。

今日のことば

クヌギは、昔から「苦をぬぐう木」という意味から、そう呼ばれるようになったんや。なんせ、はよ大きくなるし、カシなんかと変わらへんほど質のいい炭がとれるし、木を切ってもまた芽がでてきて、スギやヒノキみたいに植え直さんでもええからな。手間のかからん木や。林には、アベマキもあるけど、やっぱりクヌギが幹の表面のコルク質の部分が少ないんで一番やなー

『里山の少年』(今森光彦)より  

2013.02.25

炭焼きの文化に救われた命  クヌギの冬芽

  2013.02.25 Monday

  
今日の国語の授業で中学3年生に新田次郎の『八甲田山 死の彷徨』を紹介しました。
授業では組織論と絡めた紹介の仕方をしましたが、この傑作は細部に興味深い事実が数多く書かれ、組織論以外にもさまざまな読み方ができる小説です。
興味深い事実の一つは、199名が雪中行軍で亡くなった中で、助かった兵卒の8名に共通していたのがいずれも農家の出身であり全員が冬山での炭焼きの経験があったという事実です。炭焼きの文化が8名の命を救ったのです。
不二聖心とともに歴史を歩んだ不二農園にも長い炭焼きの歴史がありました。その名残りが今もあちこちに点在するクヌギの雑木林です。炭焼きの歴史を今も静かに語るかのように、クヌギの冬芽が寒風に耐えながら空に向かって伸びていました。

 


以前に不二聖心で美術を教えていらした岡先生の炭焼きの絵です。高校1年生の教室の近くに飾られています。

今日のことば

昨日の新聞から292 平成25年2月25日(月)
『八甲田山 死の彷徨』(新田次郎・新潮文庫)を読む

―― この悲惨事の最大の原因は何か ――

今日のニュースで、青森県の八甲田山の酸ヶ湯温泉の積雪が5メートル32センチとなり全国の最高記録を更新したと報じていました。5メートルというと信号機が隠れるほどの積雪だと言います。八甲田山が日本でも有数の豪雪地帯であることを改めて知りました。
この真冬の八甲田山に敢えて雪中行軍することを強いられた人々がいることをみなさんは知っているでしょうか。
時は1902年、この頃には既にやがてロシアとの戦争が勃発することを日本の陸軍は予想していました。ロシアとの戦争となれば当然、雪の中での戦いにも備えなければなりません。そこで考えられたのが真冬の八甲田山を行軍するという訓練でした。
その時の様子を描いたのが、新田次郎の小説『八甲田山 死の彷徨』です。今週はこの小説を紹介しましょう。

 冬の八甲田山を舞台とした、ただでさえ厳しい訓練にさらに悪条件が加わりました。統率が大切な軍隊において2名のリーダーが生まれてしまったのです。神田大尉と山田少佐です。神田大尉が本来のリーダーでしたが、行軍に同行した山田少佐が神田大尉の指揮にことごとく干渉するようになります。大尉より少佐の方が位は上です。良識的な判断ができる神田大尉は位が山田少佐より低いがために自分の考えを押し通すことができませんでした。そこから悲劇が生まれます。
例えば、神田大尉は、冬の八甲田山に入るためには必ず案内人が必要だと思って、あらかじめ案内人を頼む準備も進めていました。しかしそこでも山田少佐の干渉によって思わぬ事態が起こります。
その部分を次に引用しましょう。

田茂木野に着いた隊は行李隊を待つために小休止した。村中の者が外に出て雪中行軍隊を見守った。この前、来たときよりは今度の方が大掛かりだなと言いたいような顔であった。
田茂木野の作右衛門と源兵衛が連れ立って大隊本部が休んでいる栗の木の下にやって来た。
「この前来た大尉様はいませんか」
作右衛門が頬かぶりしていた手拭いを取りながら言った。
「神田大尉殿は向こうにおられるがなんの用だ」
将校の一人が前方を指して言った。
「この前来たときに、田代までの案内人のことを訊いておられたから、もし案内人がいるならなんとかしようと思いましてね」
「神田大尉が案内人を頼むと言ったのか」
山田少佐が作右衛門に大きな声で訊いた。作右衛門は、山田少佐を見上げすぐ五日前に来た神田大尉より上官であることを知った。
「案内できる者はいるかどうかと訊いただけで、案内を頼むとは言いませんでした」
「そうだろう、案内など頼むわけがない」
山田少佐はこともなげに言った。
「しかし、案内なしで田代まで行こうというのは、なんとしても無理ではないでしょうかね、道を知っているこの村の者でさえ、いままでに道に迷って二十人も死んでいるところだ。それに明日は、山の神の日だ。山は荒れることに決まっている」
作右衛門はそういうと、一度取った手拭いでまた頬かぶりをした。寒くなったからだった。
「案内人なしでは田代までは行けないというのか」
「まず無理でしょうね。今ごろになると、山は毎日吹雪だ。田代までは広い雪の原っぱで目標になるものはなんにもない」
「この村に案内人は何人いるのか」
「五人ぐらいはなんとかなるな」
作右衛門は源兵衛を振りかえって言った。
「そうだ。五人はたしかだな」
源兵衛はそういうと、
「ああ、この間の、大尉様が来た」
と叫んだ。隊の先頭にいた神田大尉が、こっちへ向って歩いて来るのを見掛けたのである。源兵衛の声で山田少佐はそっちを見た。急いでこっちへやって来る神田大尉と眼が会った。
神田大尉は、作右衛門と源兵衛が直接大隊本部へ行ってしまったのを見て、しまったと思った。神田大尉は、田茂木野へ着いたらすぐ、作右衛門と源兵衛を呼びにやり、二人を通じて案内人を手配し、その処置が終わったあとで山田少佐に報告に行こうと思っていた。神田大尉は、雪中行軍隊の指揮官であるから、その措置に対して山田少佐が反対する理由はない筈であった。だが、作右衛門と源兵衛は直接、大隊本部の山田少佐のところへ行ったのである。
「お前たちは案内料を欲しいからそのようなことをいうのだろう」
山田少佐の怒鳴る声が神田大尉の耳に入った。神田大尉はぎくりとした。思わず足が遅くなった。
「雪の中を行く軍(いくさ)と書いて雪中行軍と読むのだ。いくさをするのにいちいち案内人を頼んでおられるか、軍自らの力で困難を解決して行くところに雪中行軍の意味があるのだ。お前等のように案内料を稼ぎたがる人間どもより、ずっと役に立つ案内人を軍は持っている。見せてやろうろか。ほれこれは磁石というものだ。」
山田少佐はポケットから磁石を出して、作右衛門に見せた。
「磁石と地図があれば案内人は要らぬのだ」
作右衛門と源兵衛は、揃ってぺこりと頭を下げた。これ以上なにもいうべきではないという顔をした。
神田大尉は、山田少佐が作右衛門と源兵衛に向って怒鳴った言葉は、実はそのまま、指揮官の自分に向けられたものであることを知っていた。山田少佐は、神田大尉に対して案内人を使ってはならぬと命令したのである。それは、この雪中行軍の指揮権に対する干渉であった。
「案内料が欲しいがために、案内人がなければ田代へ行くのは無理だなどと言いおるわい、ばかな奴等だ」
山田少佐は神田大尉の顔を見て念を押すように言った。案内人は使用しないことに決めたぞ、分ったかと言わぬばかりの言葉であった。


山田少佐の考えは間違っていました。案内人がいなければ、冬の八甲田山に挑むのは無理だったのです。そのことが行軍を始めて間もなく明らかになっていきます。


その日輸送隊に当ったものは特にみじめであった。彼等の下着は汗でびっしょり濡れていたが、着替えもないし、脱いで乾かす炭火の余裕もなかった。夜が更けると共に暴風雪はいよいよ激しくなり、気温は著しく降下した。寒気は、二枚の外套を通し、軍服をつらぬき、濡れたままになっているシャツにまでしみ通って行った。その寒さは耐えがたいものであった。
「眠るな、眠ると死ぬぞ」
と怒鳴る声が、各雪壕で聞えたが、極度に疲労している兵の中には、気が遠くなるような寒さに誘われて眠りこむものがあった。
午前一時になって半熟飯が一食分ずつ各自に分配された。それで隊員たちは一時的に元気を恢復したが、そのすぐあとに襲いかかって来る寒気には、なんとしても耐えようがなかった。彼等は足踏みをしながら軍歌を歌ったが、その軍歌も途切れ勝ちであった。

 山田少佐は一刻も早くこの窮地を脱しないとたいへんなことが起こるだろうと思った。(中略)
「このまま時間を空費することは兵を死地へ追い込むようなものだ。今すぐ出発すれば数時間前に歩いた道を引き返すことができるが、朝までじっとしていると全員が凍傷にかかって動けなくなる虞れがある。すぐ出発しろ」
神田大尉は山田少佐の命令にさからうことはできなかった。神田大尉は、各小隊長を集めて、午前二時に露営地を出発して帰営の途につくから準備するように命じた。行李隊は各小隊の間に入れて進むように指示した。
「午前二時出発でありますか」
と各小隊長が反問するほど、その出発は誰が考えても非常識に思われた。(中略)
「大隊長殿の命令が出たのだ」
神田大尉はそれ以上のことは言わなかった。山田少佐に夜明けまで待ってくれと頼んだことなど小隊長たちに言ったところでいまさらどうにもならないことであった。
午前二時各小隊は雪壕を出て整列した。兵たちは雪壕を出て吹き曝しの風に当ると思わず身震いをした。寒さを口に出す者もいた。
集合が終り、点呼を取って、いざ出発の号令が掛った直後に、獣物(けもの)のような声を上げながら、隊列を離れて雪藪の中に駈けこんだ兵がいた。その声は絶叫に似ていた。狂った者の声であったが、叫びつづけている言葉の意味は分らなかった。狂った兵は銃を棄て、背嚢を投げ捨て、次々と身につけているものを剥ぎ取りながら、雪の中を想像もできないような力で押し通って行った。周囲の兵たちが引き止めようとしてもどうにもできなかった。気の狂った兵は死力を出して同僚を突き飛ばした。その兵は軍服を脱ぎ、シャツも脱いで捨てた。絶叫はそこで止み、兵の姿は雪の中に沈んだ。
「なにが起こったのだ、どうしたのだ」
神田大尉はその方向に向って怒鳴った。中橋中尉が発狂者が出たことを報告した。
「すぐ手当してやれ、軍医に見て貰え」
だがその時には兵はもう死んだも同然の状態にいた。はだかのままで雪の中から引き摺り出された兵に投げ捨てた衣類を着せ終ったときには、兵はもう動かなくなっていた。
出発に先立ってのその事件は雪中行軍隊の気を滅入らせた。神田大尉はこの兵の死を山田少佐に報告した。
「雪壕を出て、厳しい寒気に身を曝したがために発狂したものと思われます」
神田大尉は発狂者が出たことが、或いは山田少佐の気持を変えるかもしれないと思った。神田大尉はその兵が死に至った経過の概略を述べた。その兵は前日輸送隊員として行李の輸送に全力を出して働いた。彼が着ていた一枚のシャツは汗でびっしょり濡れていた。その汗が小倉の軍服にしみ通り、軍服がかちかちに凍っていた。彼は、雪壕の中で与えられた半熟の飯を口に入れることもできないほど疲れ切っていた。雪壕の中にいたとき既に、彼は疲労凍死の症状を現わしていたのであった。
「それでどうしたのだ。一名の発狂者が出たがために命令を変更せよというのではないだろうな」
山田少佐は神田大尉の機先を制した。もはや、出発する以外に取るべき道はなかった。

 週刊文春の二月二一日号で春日太一氏は、「『八甲田山』は組織論と絡めて紹介されることが多い」と書いています。この「昨日の新聞から」でも、先ずは「組織とリーダー」というところに焦点をあてました。しかし新田次郎は次のように書いています。

装備不良、指揮系統の混乱、未曽有の悪天候などの原因は必ずしも(この遭難事件の)真相を衝くものではなく、やはり「                 」がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。

「        」の中に入る表現は、多くの国の歴史の持つ、ある普遍的な残酷さを抉り出す一節です。ぜひ本を手に取り、 「       」に入る言葉を確認してください。三二〇ページに答えがあります。

悲劇の原因が列挙されることからもわかるように、『八甲田山 死の彷徨』はさまざまな読み方が可能な小説であり、実にいろいろなことを考えさせられる小説です。良い本の条件の一つは、読者にいろいろなことを考えさせることでしょう。ぜひ『八甲田山 死の彷徨』を手に取り、さまざまなことを深く考えるという体験をしてみてください。

2013.02.24

与謝野晶子の「ぬか」 ミノゴケの別名「カギバダンツウゴケ」

 

2013.02.24 Sunday
  
今日の静岡新聞に掲載された今野寿美さんの「晶子百歌繚乱」に与謝野晶子の「あるかぎりよき夢を見てくれなゐの林檎は眠る糠(ぬか)の中にて」という歌が紹介されていました。歌のあとに今野さんの文章が次のように続きます。

かつて、りんごは産地から木箱に詰められて届いた。傷まないよう籾殻に埋もれていた。その籾殻を古来、糠ともいい、同じ言い方が残っている地域は今もあるらしい。

この文章を読んで、籾殻(もみがら)の中に林檎を探した懐かしい記憶がよみがえりました。驚いたのは与謝野晶子が「もみがら」を「ぬか」と表現していることです。

今日は物の名前でもう一つ驚いたことがありました。2月21日の「不二聖心のフィールド日記」で紹介したミノゴケの別名がカギバダンツウゴケであると知ったことです。葉先が鉤のように曲がっていて模様が緞通に似ていることから、「カギバダンツウゴケ」と名付けられたというのです。写真は顕微鏡写真です。顕微鏡のない時代によくこの名前を生み出すことができたものだと、古人の観察力に感心します。


今日のことば 

何て言うかな、ほら、あー生まれてきて良かったなって思うことが何べんかあるじゃない。そのために人間生きてんじゃねえのか。

寅さん  

2013.02.23

爪楊枝の材として知られるクロモジの蕾

  

 2013.02.23 Saturday
  今日は高校の卒業式でした。
すすき野原のクロモジの固い蕾は豊かに力をたたえ、卒業を祝福するかのように真っ直ぐに天を指していました。
クロモジは爪楊枝の材として使われ、爪楊枝を黒文字と言うこともあります。その香りの良さが高級感を出すと言われていますが、クスノキ科の樹木特有の殺菌効果も関係しているのではないかと冬芽を見ながら思いました。

今日のことば 

小さな生命ではあっても、一生懸命に、無心に、けなげにも雪の厳しさに耐えてでてきた蕗のとうは、ただそれだけで生きとし生けるものの余白を、吹きぬけてくる神の愛の息吹きを生き生きと語っているのである。

井上洋治  

2013.02.22

帽子をかぶったミノゴケと帽子を脱いだミノゴケ

  2013.02.21 Friday

 駐車場の近くの斜面に楓の大木が何本かありますが、その中の一本の幹にノミゴケがびっしりついています。蒴(コケ植物の胞子のう)を包む蘚帽が蓑のように見えるところからミノゴケと名付けられましたが、やがてその帽子は脱がれる時が来ます。写真をよく見ると蘚帽がついている胞子体と既に脱ぎ捨てられている胞子体があることがわかります。

 

今日のことば

 人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごすゆかいで楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっとも深い何かがあるのでしょうか。
わたしはそのなかに、永続的で意義深い何かがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにあったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへと通ずる小道を見つけだすことができると信じます。
地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。
鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。自然がくりかえすリフレイン ――夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ――のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。

レイチェル・カーソン  

2013.02.21

クヌギエダヒメコブフシから羽化したコガメコバチ科Mesopolobus属

  2013.02.21  Thursday

 すすき野原で採集したクヌギエダヒメコブフシからコガネバチ科Mesopolobus属の雄と思われるハチが羽化しました。体長は3ミリ程度です。このハチはクヌギエダヒメコブフシの形成者ではなく、形成者であるタマバエに寄生していると思われるハチです。金属光沢のある構造色のグリーンは、実に美しい輝きを放っています。

今日のことば

愛は、おのれが愛するものをますます愛することによって、たえず己を救ってゆく。

アラン       

2013.02.20

モグラのいたずら  ユリ科の球根が顔を出しました

2013.02.20 Wednesday

 裏の駐車場近くの雑木林にモグラがトンネルを掘ったことで土が盛り上がり、ユリ科の植物の球根が地上に顔を出してしまいました。裏の雑木林からすすき野原にかけては特にモグラの通行量が多く、歩いていてもモグラのトンネルの上は足に伝わってくる感触が違います。ユリ科の植物はもしかしたらウバユリかもしれません。モグラのいたずらのおかげで思わぬ発見をすることができました。

 

今日のことば

昨日の新聞から206 平成22年9月13日(月)
『浪華の古本屋 ぎっこんばったん』(さかもとけんいち SIC)を読む

――  不二聖心の生徒たちに便箋23枚の手紙をくださった方の本 ――

 七月のある日のことでした。授業を終えて職員室に帰ると自宅からのメッセージが机に届いていました。大阪の坂本健一さんから電話があったことを知らせるメモでした。早速、坂本さんに電話をしてみると、「今度本を出すことになったから蒔苗さんのところにも一冊送ります。」とのことでした。
この話を聞いて僕は小躍りしました。かねてから坂本さんの名文にふれていた僕は、坂本さんの書いたものが一冊の本になることを心待ちにしていたからです。僕と坂本さんとの関わりは、かもがわ出版から出ている『のこすことば 第六集』に収められている僕の文章を読むとよくわかりますので、次に引用してみたいと思います。

私は、静岡県裾野市で中学三年生に国語を教えています。昨年から授業の最初に新聞などに載った良い文章を一編読んでそれから授業を始めるということを始めました。その68回目に小説家の山本一力さんの文章を取り上げました。大阪で青空書房という古本屋を経営する坂本建一さんが登場する文章です。文章の中には店頭に貼られている紙の言葉も紹介されていました。
「生きるのがいやになったとき、読む本があります。一緒に探しましょう。」
坂本健一さんは、書店を訪れる人の話を聞き、その人にぴったり合った本を薦めてくれるのです。
山本一力さんの文章を読み終えた時です。一人の生徒が「坂本さんに本を紹介してほしい」とつぶやいたのがはっきり聞こえました。その声を聞いていつか大阪の坂本さんに会いにいきたいと強く思いました。
夢がかなう日は意外に早くやってきました。十一月八日に大阪に行く用事ができ、その用事を済ませてから時間をつくって青空書房を訪ねました。中学三年生に向けて何か本の話をしていただきたくてまいりましたと来意を告げると、坂本さんは椅子をすすめてくださり、約一時間、本の話をしてくださいました。心に残る話をいくつも聞くうちに、一語たりとも聞き漏らしてはもったいないという思いが強くなり、途中からメモを取るようにしました。そして翌週の授業でその言葉をプリントして配りました。プリントを読んだあとで、生徒たちに坂本さんに手紙を書こうと呼びかけ、お礼の気持ちをこめて生徒たちの書いた文章を坂本さんに送りました。
それから一月ほどして、分厚い封筒が坂本さんから届きました。それは便箋23枚に及ぶ生徒たちへの返事の手紙でした。一人一人の生徒に向けて温かい言葉が綴られていました。最初のメッセージは次のような内容です。
「読書は人間のしるしです。ろばは本を読みません。(中略)だんだん読書人より「ケータイ」がええ人も増えて来ました。頁を繰ったり、意味を考えたりするのが邪魔くさくなったヒトが「ケータイ」派になって行きます。青空のおっちゃんは考えます。自分で読むのを止めたり考えることをサボった人が増えると支配者や権力者に都合のよい世の中になります。読書する人は想像力が豊かです。想像力が豊かだと優しくなります。相手の痛みや辛さが理解できるからです。相手の痛みが解らないヒトは自分の痛みを予感できません。首を切られてからイタイのでは遅いのです。」
このような言葉が便箋二十三枚にわたって綴られていました。手紙を読んだ一人の生徒は、坂本さんとの出会いは自分の宝だと言いました。八十歳を過ぎてなお働き続ける坂本さんの、人生の知恵に満ちた言葉は、生徒たちの心に一つの灯をともしてくださったと感謝しています。


このあとも坂本さんとの手紙のやりとりは続き、坂本さんから僕は多くのことを学んできました。坂本さんのことを僕はひそかに心の師だと思っています。たくさんの本を紹介してきた「昨日の新聞から」の仕事をほめてくださった時にも、坂本さんは「蒔苗先生のすばらしい読書力には脱帽します。しかし先生のこれ以上ないと思われる人生の本とは何でしょうか。魂をゆさぶられる本、一冊でも多く会えたら良いなあと思っています」と言ってくださいました。こういうことを言ってくださる方こそ師と呼んでいい人ではないかと僕は思っています。
さて心の師と仰ぐ坂本さんの文章を不二聖心の生徒のみなさんにもできるだけたくさん読んでほしいと思っています。『浪華の古本屋 ぎっこんばったん』の中から特に心に残っている文章をいくつか紹介しましょう。


時代遅れの古本屋

 今は亡き河島英五の歌に「時代遅れの男になりたい」と云うのがあるが、別になりたくってなったのではないが、私など完璧に時代遅れそのものである。何故ならケータイ持たず、パソコン知らず、車に乗れず、三百六十五日毎日ギッコンギッコンペダルを踏んで、背を曲げ、えっちらおちっちら八十四(才)の坂を駆け上っている。どん臭いと云おうか不器用と云うべきか…だから私の雅号は呆。もうこのIT時代に生き兼ねる代物であるが、まあ、いいか。齢八十四、あとどう考えても先は知れている。慾はないが恥をかくことは多い。遠い昔、新婚三ヶ月目の妻に「あんたは甲斐性無しや」と指摘された。それが当たっているから口惜しい。古本屋をやっているが、その実、古本讀屋を続けている。つまり讀書人なのである。
ただし、ポリシーがある。売る辛さも知っている。買う辛さも体験済みである。だから、天秤にかけたり、狡い駆け引きする奴は相手にしたくない。安く売りたい。戦後、鎌倉文庫と云う鎌倉在住の文士達によって作られた雑誌の創刊『人間』発売日。胸弾ませて天神橋筋五丁目、N書店に買いに行ったとき、「みんなお米か野菜もって買いに来はるで」と断られた記憶がある。食料不足の最中、仕方がなかったかも知れないが、若い文学青年は大いに憤ったものである。今、本巷に溢れ、飽食の時代。想像もつかない当時の苦い想い出が、私そして貧しく真面目な向学の青年達に一円でも安く良書を提供したいと創業以来の念願である。綺羅を飾った豪華稀覯本より素朴な装幀で内容のある一冊をすすめて居る。
かつて古本屋はお客に語りかけないのがサービスであると教えられた。今もそうであるかも知れないが、私は本以前に人間が好きである。だからその人の探している本を一緒にさがし、その作家、作品に就いて語り合うことが多い。特に若い人には多くの期待を寄せている。だから持てる知識を出来るだけ多く頒けて行きたい。それが私がこの世へお礼を返すたった一つの方法である。幸い私は蒟蒻弁当のみで苦学した青春の文学歴があり、近代日本文学への愛着も深い。そして古事記、万葉も少しはかじっている。文学を好きになり、人をおもろいなあと思わす位いの材料は持っている。

本との出合いも一期一会

本は生きてます 大切に

二度とない人生 本を読もう

コイン一枚で叡智を友に出来るのだ

一生に一度の出会いそんな本がある

挫折が人生を深くする

蹉跌が新しい明日を導く

湧き出る言葉がある。メモに書いて店の隅に貼る。その癖、人に見られると、恥づかしい。

 次もまた、坂本さんの本への思いが伝わってくる文章です。


つける薬がないヒト

 五十才か六十才位の男である。最初漱石の文庫を棚から引出してちょっと見ていたが直ぐ棚に返し、ぐるっと廻ってその裏側の棚から翻訳ものの少しぶ厚いのをひっぱり出して解説を読みかけた。目が合うのを避けて私は他のお客さんの対応をしていた。十分位経ったか、男は私に気付いて、こちらに背を向け矢張り解説に読み耽っている…。我慢も限界にきた。精神衛生上頗る悪いと覚ったとき「お客さん、解説読んだってその小説は解りませんよ」とつい云って了った。
「何やて。それお客に向かって云うことか。お客がどこ読もうと勝手やないか」
「お客さんと云うのは本を買って頂いて初めてお客さんですよ。十分も二十分も立ち読みせんとわからんようやったら止めてください」
「何云うてんねん。どこ読もうと客の自由やないか。梅田へ行って見い。椅子出して一時間でも二時間でも放っといてくれるで。たかが本ぐらいのことでごじゃごじゃ云うな」
「たかが本ではないのです。そこら中に書いてますやろ。本は生命ですって。本は生きてますって」
「何云うとんのや。本は紙と活字だけや。死んでるやんか。息してへんがな。生きてるやって…おっさん、あほちゃうか。今買わんでも明日買いに来たるかも知れん。本に触ったらみんなお客さんや。おっさんこの本一冊で飯食っとんのやろ。お客馬鹿にしたらあかんで」
「馬鹿にしてまへんけど、本は死んでると考えているような人に店に入って欲しない。出て行って下さい」
捨て科白を残して荒々しく男は立ち去って行った。折り曲げられた文庫を棚に戻しに立った。本は新潮文庫のノーマン・メイラー、中西英一訳『鹿の園』588頁。売り値は百五十円だった。本が汚されたように思えた。値段では無い。我が店に有る本は、文庫たりとも愛着惜かざる息子みたいなものである。
百人の人に百の顔がある如く百冊の本には百の生命がある。色々な受け止め方、感じ方は、読者の境遇・年齢・感覚などでさまざま。本の使命は重い。どっしりと思惑が閉じこめられているからやと思う。
本屋をひやかすのはいい。しかし御自身の人生をひやかして終わるのは如何にも空しい限りである。たった一度の人生であるから。

 初めてお会いした時、坂本さんは「人間として生まれて本読ましてもらうのはものすごう幸せと思います。」とおっしゃいました。ここにも坂本さんの本への思いが見えます。坂本さんのたくさんの言葉にふれ、本を愛する生徒が一人でも増えることを願いつつ、「昨日の新聞から206」を終わりたいと思います。

2013.02.19

神事とヒサカキとチャタテムシの卵塊

  2013.02.19 Tuesday

 不二聖心の中には実にたくさんヒサカキの木があります。それらが今の時期には一斉に小さな粒々の花芽をつけます。神事に用いられる樹木にサカキ(榊)がありますが、サカキの生えない地域ではヒサカキ(非榊)の代用が進みましたので、自ずとどの地域においてもヒサカキの本数は増えていきました。それに伴いヒサカキに依存する生物の個体数も増えていきました。人間の生活の生態系に与える影響はこのようなところにも表れていると言えるでしょう。2枚目の写真は、ヒサカキの葉に産みつけられた1ミリ以下のチャタテムシの卵の塊です。ミクロの世界に及ぼす人間の力もまた多大なものがあります。

 

今日のことば

外なる自然の深みと内なる自然の深みがちょうど対称形をなしているのではないかと感ずることがある。わたしたちの心の内奥は原生の森や海のように深く神秘に満ちていて、どちらに分け入っていっても同じような自己認知の深まりをもたらしてくれる気がするのである。どちらかいっぽうに深く踏み込めれば踏み込めただけ、もう片方の自然にもおのずと深く踏み込めるようになるといえるかもしれない。

星川淳