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フィールド日記

2012年12月

2012.12.11

マンリョウの赤い実

 

 2012.12.11 Tuesday

 第1牧草地から第2牧草地に向かう途中に生えているマンリョウの実の写真を撮りました。
週刊朝日百科の「植物の世界61号」にはマンリョウについての次のような記述があります。


花は前年に伸びた短枝の先端につくので、果実が赤く熟すと、濃い緑の葉を背景によく目立つ。
しかし果実がまずいためか、鳥はなかなかこの果実を食べてくれない。そのため、冬を越し、春になり、夏を迎えてもまだ赤い果実が残っていることがある。それだけ長い期間、果実を楽しむことができるが、動物散布を必要としながら半年以上も食べられるのを待っている植物も珍しい。
この果実を子どもたちは紙鉄砲の玉にしたり、雪でつくるウサギの目玉にして遊んだものである。


校内のあちこちに自生するマンリョウには、今の時期、ビニールの袋がかけられているものが目立ちます。これは、クリスマス・キャロルの午後のチャリティ・セールで販売する手作りリースの飾りにするために鳥から実を守っているのです。袋かけは例年の経験に基づいてなされていることでしょうから、不二聖心のマンリョウは一味違うのかもしれません。

 


今日のことば

人はかの樹木の地に生えている静けさをよく知っているであろうか。ことに時間を知らず年代を超越したような大きな古木の立っている姿の静けさを。自然界のもろもろの姿をおもう時、常に静けさを感ずる。なつかしい静寂を覚ゆる。中でも最も親しみ深いそれを感ずるのは樹木を見る時である。また森林を見かつおもう時である。樹木のもつ静けさには、何やら明るいところがある。
柔かさがある。あたたかさがある。森となるとややそこに冷たい影を落してくる。そして一層その静けさがふかまってくる。かすかにかすかに、もろもろの鳥の声が私の耳にひびいてくる。
 

                                  若山牧水

2012.12.10

コガネグモ科のクモの卵のう  宣教師の見たクモ

 

 2012.12.10 Monday

 校舎の裏の道でヤブムラサキの葉についているコガネグモ科のクモの卵のうを見つけました。
いつ見ても不思議な形をしていると思います。12月9日に読売新聞に載った「まちかど四季散歩(菅野徹)」というエッセイの中に、ポルトガル人宣教師がコガネグモ科のクモについて「日葡辞書」に記していると書かれていました。宣教師の幅広い観察眼に驚きますが、さすがの宣教師もコガネグモ科のクモの卵のうがこのような形をしているとは思いもしなかったことでしょう。
 


今日のことば

 この辞書(「日葡辞書」)は、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年、長崎でポルトガル人宣教師によって刊行された。当時の自然や風俗も窺える貴重な辞書であり、筆者は邦訳版を常に手もとに置いている。(中略)
日葡辞書には、ジョロウグモも、黄色いしまのある大きなクモとして登場する。ジョロウグモは、体長2~3センチ。本州以南や中国などに分布する。もっとも、九州などでは、もっと太めのコガネグモをジョロウグモと呼ぶから、ポルトガル人宣教師が見たのはコガネグモだったかもしれない。
写真のジョロウグモは1日の夜、破れた網だけ残して生命を終えた。しかし、中には、横浜で年明けまで生き続ける個体もある。地面に対し垂直となるように網を張るこの種類のクモは、普段は頭を下にして餌が掛かるのを待っている。
上臈グモとも女郎グモとも書かれるが、今の日本では、身分の高い女性をさす「上臈」も、遊女をさす「女郎」もなじみのない言葉だろう。むろん400年前のポルトガル宣教師の知らぬことだが。

                       「まちかど四季散歩」(菅野徹)より

2012.12.09

ヤブムラサキの黄葉

 

 2012.12.09 Sunday

 今日は、秋に高校1年生が間伐体験学習を行った森の中に久しぶりに入ってみました。
森の外は強風が吹き荒れていましたが、森の中は静けさが保たれていました。ムラサキシキブハケタマムシ
という貴重な虫こぶが発生しているヤブムラサキの葉の落葉を確認しました。いよいよ羽化に向けて最終段階
に入ることになります。そのヤブムラサキの黄葉の写真を撮りました。光の届きにくい環境に生息することが
多いヤブムラサキは枝葉を上手に広げることで効率よく光を吸収しています。

 

今日のことば

ありのままの人間は決して実在のかたちに触れることはできない。人間的努力の極限、それのみが揺るがない
形に我々を触れさせる。

                                          森有正

2012.12.08

サネカズラについての新発見の紹介

  2012.12.08 Saturday

 東名高速道路の近くの竹林の縁でサネカズラの実が赤く熟していました。サネカズラは、百人一首の「名にし負はば逢坂山のさねかづら人にしられで来るよしもがな」の歌でもおなじみの樹木で、日本人が長く親しんできた植物です。
栗田子郎先生(不二聖心の植物相の調査でたいへんお世話になっている先生です)のホームページ「草と木と花の博物誌」にサネカズラについてのたいへん興味深い記述が載っています。図鑑では、サネカズラは雌の株と雄の株は別々とされてきたのですが、雌雄同株の個体もあることを先生は発見なさったのです。
サネカズラについて、さらに詳しくお知りになりたい方は下記のURLをクリックしてみてください。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/nonohana.dayori.fuyu.html#hermapfrodite.sanekazura

 

 

                今日のことば

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

                               吉野弘

2012.12.07

ツマグロオオヨコバイの越冬  イロハモミジの紅葉

  2012.12.07 Friday

 駐車場の横の雑木林の斜面に生えているアブラギリの葉の裏で越冬しているツマグロオオヨコバイを見つけました。成虫で越冬する昆虫の中にはこのように群れを作って越冬するものが数多くいます。
アブラギリの周辺はイロハモミジの紅葉が今まさに盛りの時期を迎えていました。

 
 

               今日のことば


あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい。

                                  矢嶋楫子

2012.12.06

メジロの亡き骸  不二聖心のすすき野原が希少種の宝庫である理由

  2012.12.06 Thursday

 昨日は忘れがたい光景に二つ出会いました。一つは、中学校校舎の入り口の窓ガラスにぶつかって息絶えたメジロの姿です。生徒が次々に職員室に報告に来てくれました。メジロの死を心から悲しむ子どもたちの姿を見て本当に心の優しい生徒たちだと思いました。


 

 昼休みにメジロを森の土に返しに行きました。そこで思わぬ光景に出くわしました。不二農園の関係者の方々が広いすすき野原の草をすべてきれいに刈りとっていたのです。生物多様性を脅かす要素は「開発の影響」と「外来種の移入」と「人間の手入れの不足」だと言われます。絶滅危惧種の宝庫である不二聖心のすすき野原は、十分な「人間の手入れ」によって守られています。
農園の方に、刈り取ったすすきの束をどうするのかうかがったところ、茶畑に敷くということでした。
すすき野原を健全に保つために刈られたすすきが、茶畑を健全に保つことに役立っているということです。
来年も、再来年も、そしてまた次の年も、枯れたすすきはおいしいお茶を作るために役立ち続けることでしょう。
不二聖心の中だけで一つの持続可能な関係が成り立っているというのは素晴らしいことだと思います。


 

                今日のことば


私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染され、荒らされた風景が、人間の心の救いであり得るはずがない。風景は心の鏡である。庭はその家に住む人の心を最も良く表すものであり、山林にも田園にもそこに住む人々の心が映し出されている。河も海も同じである。その国の風景はその国民の心を象徴すると言えよう。
日本の山や海や野の、何という荒れようであろうか。また、競って核爆発の灰を大気の中に振り撒く国々の、0何という無謀な所業であろうか。人間はいま病んでいる。
母なる大地を、私達はもっと清浄に保たねばならない。なぜなら、それは生命の源泉だからである。
自然と調和して生きる素朴な心が必要である。人工の楽園に生命の輝きは宿らない。

                                      

                                  東山魁夷

2012.12.05

ササキリモドキ科ヒメツユムシ  ヒヨドリの声の聞き比べ

 

2012.12.05 Wednesday
「共生の森」のキャンプ場の水溜りに虫の死骸が浮いていました。ササキリのようだと最初は思いましたが、調べてみたらササキリモドキ科のヒメツユムシのメスであることがわかりました。
ササキリとよく似ていますが、全く違う種類の昆虫です。生態も異なり、例えばササキリが草食であるのに対し、ヒメツユムシは肉食です。自然界には「似て非なるもの」が数多く存在します。
その「非なる」ことを見抜いていくことで生物の多様性がより明らかになっていきます。

 不二聖心にはクスノキの巨木がたくさん生えていますが、晩秋の頃に実が熟してくるとたくさんのヒヨドリがクスノキの周辺に集まり、にぎやかに鳴き交わすようになります。その声はすっかり耳になじんでいますが、先日、竹林の中で全く別の鳴き方のヒヨドリの鳴き声を耳にしました。
鳥の鳴き声の多様性に驚きます。ぜひ聞き比べをしてみてください。

  

今日のことば

高校3年生の短歌

寒空に満天の星を眺めむればちょっぴり淋しい冬の始まり        
みんなとの一日一分一秒を大切にしたい大好きだから          
黄昏に紅く燃えるもみじばよ我が青春は秋にありき           
みんなとの出会いや刻んだ思い出は私の人生のスペシャルです      
いつまでも現実逃避したいけど逃げてばかりもいられないよね      
ありふれた日々も終わりに近づいて貴き時を友と味わう         
六月につく枇杷の実にもう会えない窓の木が旅立ち告げる

2012.12.04

世界中で見られるスエヒロタケ  イノシシに荒らされたスッポンタケ

  2012.12.04 Tuesday

「共生の森」でスエヒロタケの写真を撮りました。
スエヒロタケ(Schizophyllum commune)は世界中で見られるきのこでウィキペディアの英語版
には次のように書かれています。


Schizophyllum commune is a very common species of mushroom in the genus Schizophyllum.
It is the world's most widely distributed mushroom, occurring on every continent except Antarctica.


つまり南極大陸以外ではどこでも見られるきのこということです。
スエヒロタケは、猫の足先のようにも見えるところからネコノテとも呼ばれます。


 

 今年はイノシシが例年以上に多く、あちこちにイノシシが土を掘り起こしたあとが見られます。
「共生の森」ではスッポンタケが荒らされて一か所に集められていました。その中には幼菌もまじっ
ていました。手当たり次第という感じです。


 
 

              今日のことば


高校3年生の短歌

誘惑の多いなかでどっちが勝つの私の中の天使と悪魔          
いくら私が元気なふりをしていても君にはわかる無理してること     
ありふれた日々の出来事を振り返り今溢れ出す幾筋の涙         
我慢せず泣きたい時は泣けばいい泣いたあとには笑えばいいから     
帰り道「おかえりなさい」の一言であたたかくなる夕方六時       
寒空に心をふるわす冬が来る嬉しいようで寂しいようで

2012.12.03

リンドウの花  ハエトリグモの幼体



 

 2012.12.03 Monday
 雑木林の林床にリンドウの花が落ちていました。下草狩りの時に一緒に刈られてしまったものと思われます。花の中には越冬中のハエトリグモの幼体が潜んでいました。体長は3ミリ程度ですが、ハエトリグモの特徴ある目の様子が写真からもよくわかります。ハエトリグモは昼行性のクモであるために夜行性のクモよりも目が発達しています。


 
                                               今日のことば

 人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまねばならぬものです。この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生
そこに没頭してみて下さい。神はそのような人間の姿を一番愛しています。
「竹青」(太宰治)より

2012.12.02

ヤツデの花  トゲハネバエ

 

 2012.12.02  Sunday

 校舎の裏の林の中でヤツデの花が咲き始めました。12月に入ると花の数はめっきり少なくなりますので、冬に活動する生物にとっては、ヤツデの花の花粉や蜜は貴重な栄養源となります。
写真に小さく写っている昆虫は双翅目の昆虫で、専門家の方に同定を依頼したところ、まだ標本や文献の整理の進んでいないトゲハネバエ科の仲間であることがわかりました。「複眼沿いの剛毛が1本で肩瘤に剛毛が無いのでSuillia属の可能性が高い」との推測でした。


 
今日のことば

 集会の翌週、外来でお会いした患者さんが、ニューヨークタイムズ紙のある連載を紹介してくださった。彼と同じ病気を患う記者によるエッセイである。『精神の恢復を待ちつつ家で憂慮する日々』と題した十月二十日付の紙上には、病に対処しようとする作者の心の内が認められていた。
「憂慮は私の友である」。「スターバックスでの気ぜわしい一時間の会話はもう沢山だ」。
「この期間を通して意識的、無意識的に、私は自分の生活を単純化させてきた」。
「私は自分の所有物に所有されるのではなく、それらを切り捨てることに深い喜びを覚えるようになった。私は取りつかれたように古いEメールのメッセージを排除していった。まるでそれらががん細胞であるかのように」。引き込まれるように一文、一文を読みながら、先の集会の一室でスピリチュアリティの話を伺ったことを思い出した。(中略)
あらゆるメディアに人の目を引く文字が氾濫する昨今、虚飾のない言葉に触れることは稀になった。
めまぐるしい日常から一歩身を引いた時、そうした言葉が私たちの中にすっと入ってくる。
一番星の光が強まってきた。森の音、川の音が上流より聞こえる。バーモントは冬に入った。
川辺の木々は何に抗うことなく葉を落とし続ける。大地が雪や氷に覆われるまで、その営みは続く。
虚飾のない言葉は、自然の営みに似ている。語り手の心を離れた言の葉は、読み手の心の中を降り、そっと積もっていく。そしていつしか土になるだろう。読み手に何ができるわけでもない。それでも自然の中にいるように、心から舞ってきた言葉には、静かに心を開いていたいと思う。

                          「アメリカ便り」(森雅紀)より