フィールド日記

2016年12月

2016.12.29

ラッパズイセン

 ラッパズイセンが既に花を咲かせ始めています。ラッパズイセンはウェールズの国花としても知られており、以前不二聖心で講演してくださった、ウェールズ出身の作家、C・W・ニコル氏は長野のアファンの森にたくさんの水仙の球根を植えられたそうです。

今日のことば
『ぼくのワイルド・ライフ』(C・W・ニコル 集英社文庫)を読む (平成21年11月30日)
    ―― “Always look for the connections” ――
 もうすぐ十一月が終わります。新しい月が始まると僕は最初の日曜日が来るのを心待ちにします。第一日曜日のジャパンタイムズで、尊敬するC・W・ニコル氏のエッセイが読めるからです。この習慣はもう何年も続いていますが、最近では、九月六日のMy key connectionと題された一編がとりわけ感動的でした。そのエッセイは次のように始まります。
 It was 1954 and summer holidays were over.  The family had moved a few miles south from Tewkesbury to Cheltenham in the beautiful country of Gloucestershire in the west of England , and I had been transferred from the one town’s boys grammar school to the other’s .
 On my first day there , a small gang of boys gathered around , asking questions , curious about the new boy in the third year. Then all heads turned as a magnificent , classic open-topped Bugatti roared into the playground. The boys all gave a mighty cheer and raced to surround the car.
 “Who’s that ?”  I yelled out to the boy as he passed me.
 “Dad ,” he said , “Dad Driver!”
 That was very confusing at the time , as the car obviously had a driver , and the big , bearded man at the wheel didn’t look old enough to be the dad of anybody in this school.
 It turned out that the name of the driver in question was Driver , and the boys all called him “Dad” – perhaps because he was so imposing , and the most charismatic and popular teacher in the school. For me , he was to become the best teacher I ever had ; one who changed my whole life.
 自分の人生を大きく変えた恩師、ピーター・ドライバーとの出会いが以上のように語られています。彼はこのあと生物の先生であったピーター・ドライバーの影響を受け、自身もピーターの助手として生物調査に関係する仕事をするようになっていきます。その最初の調査の様子が、『ぼくのワイルド・ライフ』(集英社文庫)という本の中の「ぼくは子ガモのおばちゃん」と題されたエッセイに書かれています。
 ぼくがピーター・ドライバーの助手になり、カナダ極北地方の探険についていったのは十七歳のときだった。カナダではなくてほかのどこだったとしても、ぼくはついていったと思う。
 彼はぼくより一〇歳年上で、ぼくが通っていたイングランドの古風で厳格な男子校の生物教師だった。ぼくらはふつうの生徒と教師の間柄をこえて、ずっと親密だった。これはおそらく、ぼくらがふたりとも独特のイギリス式ユーモアのセンスをもち合わせていたからだろう。ぼくはまた、物事にひどく熱中するたちの少年だった。生物学、自然、カヤック乗り、柔道、探険、冒険物語などに夢中になっていたのである。
 ピーターは理想的な教師であった。生物学という科目が彼の手にかかると、無味乾燥な教科書のページやら、薬くさい器具やら、ホルマリンづけの解剖台などをはるかにこえたものになった。彼によって、生命を研究するこの学科が、それこそ生命を吹きこまれたのである。
 ニコルさんは、自分の人生を変えるほどの影響を与えた恩師と極北地方でホンケワタガモの調査をします。その調査は、ピーター先生がホンケワタガモのヒナの母親となり、ニコルさんがおばさんとなって、カモたちと生活を共にする中で行われました。
 ヒナたちはピーターを刷りこまれ、彼は母ガモになりきった。ヒナはたえず注意を必要とする。とくにホンケワタガモはそうだ。彼らは自分で食物はとるがエサ場には連れていってやらねばならないし、見張ってやり、抱いて暖めてやらねばならない。トイレに行くときでも、あとを追うヒナを残していくことはできなかった。ぼくはこの大男が、ケワタガモ語でヒナたちをなだめたりしかったりしているのを見て、ニヤニヤしないわけにはいかなかった。しかも、キーキー鳴くフワフワしたボールたちが、われがちにピーターのあとを追いかけていくのだからなおさらだ。(中略)
 ピーターとヒナたち、それにぼくは、いつもたがいにていねいにあいさつをしていた。これはちょうど人間のおじきと反対の動作で、頭を上向きにうなずかせるのである。もともとこの運動は、卵の中のヒナが殻を上向きに押すことから発達したもので、それは水を飲むときのくちばしを上向きにあげる動作につながり、やがて求愛の動作へと発展していく。このときは、セクシーな「ウーウー」という鳴き声とともに、首を大げさに上向きにうなずかせるのである。自然は実にむだのないことをするものだ。
 卵の殻をやぶる動作とあいさつの動作と求愛の動作はつながっている。このような興味深い事実が十七歳の時の体験談を綴ったエッセイ「ぼくは子ガモのおばちゃん」の中ではいくつも紹介されていきます。
『ぼくのワイルド・ライフ』の最後の章は「わが愛しのピーター先生」というタイトルです。ここでは、ニコルさんがスコットランド北端部のホイ島に出かけていき、そこに生活するピーター先生と何十年ぶりかで再会した様子が描かれています。この章も極上のエッセイにしあがっているのですが、僕にとってとりわけ印象的だったのは、二人が黄昏の海辺を散歩する場面でした。
海は静かで鉛色のきらめきを放っている。海面からアザラシの頭が突き出るのをふたりは指さした。
「ノアじいさん(ぼくらのイヌイットの友人)なら、あっという間にあいつを捕まえるだろうな」ピーターがいった。
「きのうウサギを撃ちに歩いている間に六頭見たよ」とぼく。
「たくさんいるんだ。今までにも岬から二〇〇~三〇〇頭は見た」
 ユリカモメがかたわらをゆっくりと飛びすぎた。歩きながらぼくらの話題は、カモメたちがいかに多くのヒツジの子や、ときには妊娠したメスのヒツジまでを殺すかという話に移った。信じられないかもしれないが、これはまさしくほんとうなのだ。ぼくもピーターも現場を目撃している。ここではカモメによる子ヒツジの被害はきわめて深刻なのだ。どうすればよいのか? 答えは簡単だ。むかしのように、島民にカモメの卵を食べさせればいいのだ。カモメたちは無人島だとか、人の訪れることのない場所で生き残るだろう。ぼくは北極でカモメがいかにふえているか話した。人間の食べかすと、皮だけはいで氷の上に放置されるアザラシの死体がその原因だ。
 イヌイットがスノーモービルと引きかえに犬ゾリを捨てたこと、ガソリンを買うのに金がいり、皮を売るだけの目的でアザラシを殺しすぎること。そのことが、古い歴史をもつ誇り高い文化にどんな影響を与えたか、またこのせいでカモメの生息数がふえ、営巣するカモたちにいかに圧力がかかっているかぼくらは話し合った。カモたちは卵やヒナを襲うカモメにひどく苦しんでいるのだ。ぼくらは歩きつづけた。海岸にチドリを見たり、早咲きのランを見かけたり、あるいは湾のはるか向こうにまたアザラシを見たりしたときだけ、ぼくらは歩みをとめるのだった。そしてまた行動とバランス、人間の自然に対するあくなき干渉について語り合った。
 イヌイットが犬ゾリを捨てたこととカモの数が減少すること、この一見なんの関係もないように思われる二つのことが実はつながりあっている。これが自然界の姿であり、自然の中では、私たち人間も含めて、ありとあらゆるものがつながり合っているということをニコルさんの文章は教えてくれます。
 この再会からさらに二十年以上が経った今年の夏、再びニコルさんはホイ島を訪れました。その時のことがジャパン・タイムズに載ったエッセイ「My key connection」の最後に出てきます。
 Fifty years have passed. Peter is still one of my dearest friends. For the last 30 or so many years he has made the Orkney Islands his home. This summer I went to ask him for advice on the directions we should take with our woodland research. His words were simple, but I knew exactly what he meant.
“Always look for the connections,” he said.
 In 2010 , I’ll be70. How time flies!  If I have learned anything , it is to realize that truly , all life is connected. And if you look closely , that can be said of all our lives too.
 なんという美しい文章でしょう。「“Always look for the connections”」僕もこの言葉を心に深く刻みつけたいと思います。

2016.12.21

冬至の朝日  冬至の富士山

 冬至の朝日の写真を撮りました。


こちらは冬至の朝の富士山です。



例年になく暖かい冬至の一日となりました。

今日のことば

たとえ明日が世界の終わりであったとしても、私はリンゴの木を植えるだろう。 マルティン・ルター

2016.12.20

烏瓜(カラスウリ)

 東名高速沿いの裏道に烏瓜(カラスウリ)がたくさん実をつけている場所があります。夏目漱石が詠んだ句に、「世は貧し夕日破垣烏瓜」という句があります。漱石のつつましやかな庶民の暮らしに寄せる同情が伝わってくる句です。漱石という人は、小さいもの、弱いものに対して優しい心を向けた人でした。

今日のことば
今年も岩波書店は数々の名作を岩波文庫の一冊として世に送り出しました。その中でもとりわけ読み応えのある一冊が十川信介編『漱石追想』です。『漱石追想』には、漱石の同級生、留学仲間、教え子、同僚、文学者、編集者など、いろいろな立場で漱石と関わった人達が漱石を追想した文章が四十九編収められています。漱石を知る上で貴重な資料となり得る文章も多く、意外な発見に満ちた一冊となっています。例えば「腕白時代の夏目君」(篠本二郎)には少年の頃の漱石についての次のような一節があります。
 夏目君が、牛込薬王寺前町の小学校より、学校帰り余の家に立寄るには、麹坂を登りて来るを常とした。又帰宅の時は焼餅坂を下りて帰った。然るに麹坂の麹屋に一人の悪太郎が居り、焼餅坂の桝本と云う酒屋にも亦悪太郎が居って、尚お之等の悪太郎を率ゆるに、鍛冶屋の息子で余等より四つ五つ年上なる大将が居た。夏目君はいつも彼等の為め種々な方法で苛めらるるから、何時か余と協力してこの町屋の大将を懲らしてやろうではないかと相談を持ち掛けた。この時代はまだ士族の勢力が盛んで、町人の子供は一般に士族の子供に対して恐れを抱いて居た。然し夏目君が学校帰り素手で四、五の町人の子供に苛めらるるのであるから、その内総大将を一人懲らせば後日の憂なかるべしとの考えで、その機会の来るのを待って居た。或時夏目君と余は余の屋敷の裏門で遊び居れる時、かの鍛冶屋の悪太郎が独り、余等の遊べる方向に歩行し来れることを遥かに認めた。余等は好機逸すべからずとなし、余は家内にかけ込みて何の分別もなく先ず短刀二振りを持来りて、その一を夏目君に与えたる時は、已(すで)に悪太郎は十四、五間の距離まで近づき来った。当時武士の斬り棄て御免とか云う無上の権威が、猶お町人やその子供の頭に残れる時分であったから、武士の子供が短刀一本さえ携え居れば、年長の町家の子供四、五人を相手に喧嘩して、終に逐(お)い散らして勝利を収むることが出来たのである。彼が余等に接近するや否や、余等は短刀を抜き放ちて彼の前後より迫った。彼は忽ち顔面蒼白となり、隙あれば虎口より脱せんとし、又近き小路の門内に入りて人の助けを乞わんとする態度にて、ぐずぐず言訳を唱えながら、二人に囲まれつつ次第に小路の中に退却した。彼が小路に入るや夏目君は手早く短刀を鞘に収めて、悪太郎に飛び付きて、双手にて胸元を押えて、杉垣根に彼を圧し付けた。悪太郎は年齢が余等より四つも五つも違い、腕力も余等二人協力しても及ぶ所ではなかったが、時代思潮上士族を恐れしと、余が白刃を持てるとによりて、夏目君の引廻わす儘に扱われて豪も抵抗しなかったのは、当時極めて愉快であった。夏目君は愈々彼を杉垣根に圧し付けて、彼の身体が側面より認められぬ程にし、余はこの動作中短刀を彼の胸元へつきつけて、夏目君と共に彼を殺して仕舞うと威嚇して居た。 
 このような文章を読むと漱石が明治時代の文豪であるとともに、江戸時代の遺風を実際に肌で感じて成長した人物であったことがわかります。
江戸人漱石を感じさせる一節をもう一箇所引用しましょう。
 当時余の伯父に、今は故人になったが、いたずらなる人があった。余の夏目君と親しくせるを知りて、或時こんなことを余に話した。夏目の祖先は、甲斐の信玄の有力なる旗本であったが、信玄の重臣某が徳川家に内通せし時、共にあずかりて徳川家の家臣となったのだ。(中略)重臣の謀反さえなければ武田家の運命も今少しは続きしならんと、真か偽か、余が耳には親友の祖先に関することで、極めて異様に感じた。然し当分は質(ただ)すも気の毒で、夏目君には何にもこの事に就きて言わなかった。或時大喧嘩を始め、口論も尽きて已に腕力に訴えんとせし時、手近かなこの事実を語りて嘲った。夏目君は俄に色を変じて引別れ、逃ぐるが如く立去ったことがある。その後も再び仲直りをして常の如く遊びしが、喧嘩の場合、この事が一番同君をへこますに有効であったから、その後も折々この策を応用した。今更思えば小供心とはいえ、余の行の卑劣なりしを感ずると同時に、夏目君の廉恥を重ずる念の深かりしを感ずるのである。
 漱石という人が「廉恥を重ずる念の深かりし」人物であったことは、『漱石追想』のさまざまな文章が伝えています。しかし、一方で少年時代の彼は、そのような漱石のイメージからは考えられないような悪戯をする少年であったことも、「腕白時代の夏目君」の次のような一節を読むとわかります。
 余等は当時の子供のあらゆる悪戯を仕尽したる中に、極めて面白く思い、今もその時の光景を思い出しては、私(ひそ)かに微笑を浮べることがある。毎日午後の四時頃に、余が邸の板塀の外を二十二、三歳位な按摩が、杖をつき笛を吹きて通過した。此奴(こやつ)盲人に似ず活発で、よく余等を悪罵し、時に杖を打振りて、喜んで余等を逐い廻わした。余等も折々土塊など打付けて、彼を怒らした。或時学校で夏目君と一つ按摩を嬲(なぶ)ってやろうと色々に協議した。併し何時も矢鱈(やたら)に杖を振り廻すから、容易にその側に寄る訳にはいかぬ。そこで或時二人して、恰も按摩が塀の外を通過する頃、塀に登りて、一人は長き釣竿の糸の先きに付せる鉤に紙屑をかけ、一人は肥柄杓に小便を盛りて塀の上に持ち上げて、按摩の通過を待つ程に、時刻を違えずやって来た。
 このあと二人は信じられないことをします。あの漱石が少年時代にどのような悪戯をしていたのか、本を手にとり、確かめてみてください。
 掲載されている文章の内容はさまざまですが、漱石の人柄の温かさを伝える文章が最も多いように思います。例えば菊池寛は「先生と我等」の中で、「夏目さんには温情があると誰かが云ったが本当だね」という芥川龍之介の言葉を紹介しています。
漱石の温情を伝える具体的なエピソードを記した文章としては、鈴木三重吉の「漱石先生の書簡」が最も印象に残ります。その前半部分を引用します。
 いつの年の冬のことであったか、たしか或雪どけの日に、南町のお家へ伺うと、先生は茶の間の縁側にこごんで、十二、三ぐらい? うすぎたない着物を着た、そこいら近所の子どもらしい少年に、英語の第一リーダーを教えていられた。先生は、胃がいたいと見えて、元気のない顔をしていられたが、でも、語気や態度には、ちっとも面倒くさそうな容子(ようす)もなく、丁寧に、訳解してやっていられた。少年がかえってから、どこの子ですと聞くと
「どこの子だか、英語をおしえてくれと言ってやって来たのだ。私はいそがしい人間だから今日一度だけなら教えて上げよう。一たいだれが私のところへ習いにいけと言ったのかと聞くと、あなたはエライ人だというから英語も知ってるだろうと思って来たんだと言ってた。」
 先生はこういう意味のことを答えて微笑していられた。

2016.12.19

ホコリタケ

ホコリタケを見つけました。中央部分に穴が開いていますが、この穴から胞子が空中に舞っていったものと思われます。胞子が舞う様子が、ちょうどホコリが漂う様子に似ているためホコリタケと名付けられました。

近くには老菌もありました。ホコリタケというキノコの最後の姿です。
今日のことば
すがすがしい静けさ
それだけが
この世を正す力なのだ   老子

2016.12.18

枇杷の花

枇杷の木が次々に花を咲かせています。枇杷の木にはさまざまな生き物が訪れます。

メジロは蜜を吸いにやってきて受粉に一役買います。枇杷にとってはありがたい存在です。
結実するとサルがやってきて早々に実を食べてしまうことがあります。枇杷にとってはあまりありがたくない存在です。
今日のことば
生れるものは何であれ
みんなあなたより
深いところからくる
起るものは何であれ
みんな
あなたより
高いところからくる
ラジニーシ

2016.12.17

23羽のエナガの群れ  不二聖心の野鳥の調査

 「日本野鳥の会」東富士副代表の滝道雄先生と不二聖心の野鳥の調査をしました。今日は23種の鳥を確認することができました。

特に感動したのは、23羽のエナガの群れと出会うことができたことです。細い楓の枝にぶらさがるようにして種を食べる姿はエナガならではのものでした。

今日、確認したのは以下の23種です。
 
 1.メジロ             18羽
 2.エナガ             31羽
 3.シロハラ             3羽
 4.ヒヨドリ          33羽
 5.ジョウビタキ      1羽
 6.アオジ        4羽
 7.シジュウカラ        3羽
 8.コゲラ                1羽
 9.キジバト       8羽
10.ヤマガラ      4羽
11.ハシブトガラス  11羽
12.イカル                 3羽
13.ホオジロ      4羽
14.カワラヒワ            1羽
15.アオゲラ       1羽
16.カケス                 4羽
17.アカゲラ       1羽
18.トビ                    1羽
19.モズ                    1羽
20.ルリビタキ            2羽
21.ウグイス              1羽
22.キセキレイ     1羽
23.コジュケイ           1羽
24.ソウシチョウ         3羽
今日のことば
小粒の鶏卵ほどに真綿を丸めて、その倍くらいの尾をつけるとエナガになる。    岡田泰明
 

2016.12.16

万葉の歌の世界

坂道の途中で車を降りて朝日の写真を撮りました。

その反対側では月が沈もうとしていました。
まさに万葉の歌「東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)の世界です。この月は旧暦の11月17日の月です。人麻呂がこの歌を詠んだのも17日頃であったことが今朝の空の様子からわかります。
今日のことば
さわやかな朝をむかえるために
ちいさな胸に溢れる愛を伝え
闇の中を走るように
歌声を響け
小田和正

2016.12.15

フユイチゴ

 裏道にたくさんのフユイチゴが実をつけています。東名カントリーまでの林道にはフユイチゴが群生している場所もあります。フユイチゴの実を使って美味なジャムを作ることができます。

今日のことば

生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。
須賀敦子

2016.12.14

ハナカタバミ

ハナカタバミが冬の寒さに耐えて花を咲かせ続けています。

ハナカタバミは多年草で、光に反応する性質があり、日中は開花し夜になると花を閉じてしまいます。
次の画像は、2011年に同じ場所で撮ったものです。正門のハナカタバミは、少なくとも5年にわたって私たちの目を楽しませてくれているということになります。

今日のことば
すばらしいことが
あるもんだ
ノミが
ノミだったとは
ゾウでなかったとは
まどみちお

2016.12.13

12月の紅葉

 12月に入っても美しい紅葉が見られています。かつては12月にこんなに美しい紅葉が見られたかと思うことがあります。地球温暖化との関係の有無は定かではありませんが、このまま温暖化が進むと紅葉の見ごろはクリスマスの頃になるという予想もあります。

今日のことば
善きことを行うことに倦まず、心を失うことがなければ、季節はまた巡りきて、なすべき仕事がある。
You know, scripture tells us, let us not grow weary of doing good, for in good season we shall reap. My friends, let us have faith in each other, let us not grow weary and lose heart, for there are more seasons to come and there is more work to do.
                                       ヒラリー・クリントン