フィールド日記

2016.12.29

ラッパズイセン

 ラッパズイセンが既に花を咲かせ始めています。ラッパズイセンはウェールズの国花としても知られており、以前不二聖心で講演してくださった、ウェールズ出身の作家、C・W・ニコル氏は長野のアファンの森にたくさんの水仙の球根を植えられたそうです。

今日のことば
『ぼくのワイルド・ライフ』(C・W・ニコル 集英社文庫)を読む (平成21年11月30日)
    ―― “Always look for the connections” ――
 もうすぐ十一月が終わります。新しい月が始まると僕は最初の日曜日が来るのを心待ちにします。第一日曜日のジャパンタイムズで、尊敬するC・W・ニコル氏のエッセイが読めるからです。この習慣はもう何年も続いていますが、最近では、九月六日のMy key connectionと題された一編がとりわけ感動的でした。そのエッセイは次のように始まります。
 It was 1954 and summer holidays were over.  The family had moved a few miles south from Tewkesbury to Cheltenham in the beautiful country of Gloucestershire in the west of England , and I had been transferred from the one town’s boys grammar school to the other’s .
 On my first day there , a small gang of boys gathered around , asking questions , curious about the new boy in the third year. Then all heads turned as a magnificent , classic open-topped Bugatti roared into the playground. The boys all gave a mighty cheer and raced to surround the car.
 “Who’s that ?”  I yelled out to the boy as he passed me.
 “Dad ,” he said , “Dad Driver!”
 That was very confusing at the time , as the car obviously had a driver , and the big , bearded man at the wheel didn’t look old enough to be the dad of anybody in this school.
 It turned out that the name of the driver in question was Driver , and the boys all called him “Dad” – perhaps because he was so imposing , and the most charismatic and popular teacher in the school. For me , he was to become the best teacher I ever had ; one who changed my whole life.
 自分の人生を大きく変えた恩師、ピーター・ドライバーとの出会いが以上のように語られています。彼はこのあと生物の先生であったピーター・ドライバーの影響を受け、自身もピーターの助手として生物調査に関係する仕事をするようになっていきます。その最初の調査の様子が、『ぼくのワイルド・ライフ』(集英社文庫)という本の中の「ぼくは子ガモのおばちゃん」と題されたエッセイに書かれています。
 ぼくがピーター・ドライバーの助手になり、カナダ極北地方の探険についていったのは十七歳のときだった。カナダではなくてほかのどこだったとしても、ぼくはついていったと思う。
 彼はぼくより一〇歳年上で、ぼくが通っていたイングランドの古風で厳格な男子校の生物教師だった。ぼくらはふつうの生徒と教師の間柄をこえて、ずっと親密だった。これはおそらく、ぼくらがふたりとも独特のイギリス式ユーモアのセンスをもち合わせていたからだろう。ぼくはまた、物事にひどく熱中するたちの少年だった。生物学、自然、カヤック乗り、柔道、探険、冒険物語などに夢中になっていたのである。
 ピーターは理想的な教師であった。生物学という科目が彼の手にかかると、無味乾燥な教科書のページやら、薬くさい器具やら、ホルマリンづけの解剖台などをはるかにこえたものになった。彼によって、生命を研究するこの学科が、それこそ生命を吹きこまれたのである。
 ニコルさんは、自分の人生を変えるほどの影響を与えた恩師と極北地方でホンケワタガモの調査をします。その調査は、ピーター先生がホンケワタガモのヒナの母親となり、ニコルさんがおばさんとなって、カモたちと生活を共にする中で行われました。
 ヒナたちはピーターを刷りこまれ、彼は母ガモになりきった。ヒナはたえず注意を必要とする。とくにホンケワタガモはそうだ。彼らは自分で食物はとるがエサ場には連れていってやらねばならないし、見張ってやり、抱いて暖めてやらねばならない。トイレに行くときでも、あとを追うヒナを残していくことはできなかった。ぼくはこの大男が、ケワタガモ語でヒナたちをなだめたりしかったりしているのを見て、ニヤニヤしないわけにはいかなかった。しかも、キーキー鳴くフワフワしたボールたちが、われがちにピーターのあとを追いかけていくのだからなおさらだ。(中略)
 ピーターとヒナたち、それにぼくは、いつもたがいにていねいにあいさつをしていた。これはちょうど人間のおじきと反対の動作で、頭を上向きにうなずかせるのである。もともとこの運動は、卵の中のヒナが殻を上向きに押すことから発達したもので、それは水を飲むときのくちばしを上向きにあげる動作につながり、やがて求愛の動作へと発展していく。このときは、セクシーな「ウーウー」という鳴き声とともに、首を大げさに上向きにうなずかせるのである。自然は実にむだのないことをするものだ。
 卵の殻をやぶる動作とあいさつの動作と求愛の動作はつながっている。このような興味深い事実が十七歳の時の体験談を綴ったエッセイ「ぼくは子ガモのおばちゃん」の中ではいくつも紹介されていきます。
『ぼくのワイルド・ライフ』の最後の章は「わが愛しのピーター先生」というタイトルです。ここでは、ニコルさんがスコットランド北端部のホイ島に出かけていき、そこに生活するピーター先生と何十年ぶりかで再会した様子が描かれています。この章も極上のエッセイにしあがっているのですが、僕にとってとりわけ印象的だったのは、二人が黄昏の海辺を散歩する場面でした。
海は静かで鉛色のきらめきを放っている。海面からアザラシの頭が突き出るのをふたりは指さした。
「ノアじいさん(ぼくらのイヌイットの友人)なら、あっという間にあいつを捕まえるだろうな」ピーターがいった。
「きのうウサギを撃ちに歩いている間に六頭見たよ」とぼく。
「たくさんいるんだ。今までにも岬から二〇〇~三〇〇頭は見た」
 ユリカモメがかたわらをゆっくりと飛びすぎた。歩きながらぼくらの話題は、カモメたちがいかに多くのヒツジの子や、ときには妊娠したメスのヒツジまでを殺すかという話に移った。信じられないかもしれないが、これはまさしくほんとうなのだ。ぼくもピーターも現場を目撃している。ここではカモメによる子ヒツジの被害はきわめて深刻なのだ。どうすればよいのか? 答えは簡単だ。むかしのように、島民にカモメの卵を食べさせればいいのだ。カモメたちは無人島だとか、人の訪れることのない場所で生き残るだろう。ぼくは北極でカモメがいかにふえているか話した。人間の食べかすと、皮だけはいで氷の上に放置されるアザラシの死体がその原因だ。
 イヌイットがスノーモービルと引きかえに犬ゾリを捨てたこと、ガソリンを買うのに金がいり、皮を売るだけの目的でアザラシを殺しすぎること。そのことが、古い歴史をもつ誇り高い文化にどんな影響を与えたか、またこのせいでカモメの生息数がふえ、営巣するカモたちにいかに圧力がかかっているかぼくらは話し合った。カモたちは卵やヒナを襲うカモメにひどく苦しんでいるのだ。ぼくらは歩きつづけた。海岸にチドリを見たり、早咲きのランを見かけたり、あるいは湾のはるか向こうにまたアザラシを見たりしたときだけ、ぼくらは歩みをとめるのだった。そしてまた行動とバランス、人間の自然に対するあくなき干渉について語り合った。
 イヌイットが犬ゾリを捨てたこととカモの数が減少すること、この一見なんの関係もないように思われる二つのことが実はつながりあっている。これが自然界の姿であり、自然の中では、私たち人間も含めて、ありとあらゆるものがつながり合っているということをニコルさんの文章は教えてくれます。
 この再会からさらに二十年以上が経った今年の夏、再びニコルさんはホイ島を訪れました。その時のことがジャパン・タイムズに載ったエッセイ「My key connection」の最後に出てきます。
 Fifty years have passed. Peter is still one of my dearest friends. For the last 30 or so many years he has made the Orkney Islands his home. This summer I went to ask him for advice on the directions we should take with our woodland research. His words were simple, but I knew exactly what he meant.
“Always look for the connections,” he said.
 In 2010 , I’ll be70. How time flies!  If I have learned anything , it is to realize that truly , all life is connected. And if you look closely , that can be said of all our lives too.
 なんという美しい文章でしょう。「“Always look for the connections”」僕もこの言葉を心に深く刻みつけたいと思います。

2016.12.21

冬至の朝日  冬至の富士山

 冬至の朝日の写真を撮りました。


こちらは冬至の朝の富士山です。



例年になく暖かい冬至の一日となりました。

今日のことば

たとえ明日が世界の終わりであったとしても、私はリンゴの木を植えるだろう。 マルティン・ルター

2016.12.20

烏瓜(カラスウリ)

 東名高速沿いの裏道に烏瓜(カラスウリ)がたくさん実をつけている場所があります。夏目漱石が詠んだ句に、「世は貧し夕日破垣烏瓜」という句があります。漱石のつつましやかな庶民の暮らしに寄せる同情が伝わってくる句です。漱石という人は、小さいもの、弱いものに対して優しい心を向けた人でした。

今日のことば
今年も岩波書店は数々の名作を岩波文庫の一冊として世に送り出しました。その中でもとりわけ読み応えのある一冊が十川信介編『漱石追想』です。『漱石追想』には、漱石の同級生、留学仲間、教え子、同僚、文学者、編集者など、いろいろな立場で漱石と関わった人達が漱石を追想した文章が四十九編収められています。漱石を知る上で貴重な資料となり得る文章も多く、意外な発見に満ちた一冊となっています。例えば「腕白時代の夏目君」(篠本二郎)には少年の頃の漱石についての次のような一節があります。
 夏目君が、牛込薬王寺前町の小学校より、学校帰り余の家に立寄るには、麹坂を登りて来るを常とした。又帰宅の時は焼餅坂を下りて帰った。然るに麹坂の麹屋に一人の悪太郎が居り、焼餅坂の桝本と云う酒屋にも亦悪太郎が居って、尚お之等の悪太郎を率ゆるに、鍛冶屋の息子で余等より四つ五つ年上なる大将が居た。夏目君はいつも彼等の為め種々な方法で苛めらるるから、何時か余と協力してこの町屋の大将を懲らしてやろうではないかと相談を持ち掛けた。この時代はまだ士族の勢力が盛んで、町人の子供は一般に士族の子供に対して恐れを抱いて居た。然し夏目君が学校帰り素手で四、五の町人の子供に苛めらるるのであるから、その内総大将を一人懲らせば後日の憂なかるべしとの考えで、その機会の来るのを待って居た。或時夏目君と余は余の屋敷の裏門で遊び居れる時、かの鍛冶屋の悪太郎が独り、余等の遊べる方向に歩行し来れることを遥かに認めた。余等は好機逸すべからずとなし、余は家内にかけ込みて何の分別もなく先ず短刀二振りを持来りて、その一を夏目君に与えたる時は、已(すで)に悪太郎は十四、五間の距離まで近づき来った。当時武士の斬り棄て御免とか云う無上の権威が、猶お町人やその子供の頭に残れる時分であったから、武士の子供が短刀一本さえ携え居れば、年長の町家の子供四、五人を相手に喧嘩して、終に逐(お)い散らして勝利を収むることが出来たのである。彼が余等に接近するや否や、余等は短刀を抜き放ちて彼の前後より迫った。彼は忽ち顔面蒼白となり、隙あれば虎口より脱せんとし、又近き小路の門内に入りて人の助けを乞わんとする態度にて、ぐずぐず言訳を唱えながら、二人に囲まれつつ次第に小路の中に退却した。彼が小路に入るや夏目君は手早く短刀を鞘に収めて、悪太郎に飛び付きて、双手にて胸元を押えて、杉垣根に彼を圧し付けた。悪太郎は年齢が余等より四つも五つも違い、腕力も余等二人協力しても及ぶ所ではなかったが、時代思潮上士族を恐れしと、余が白刃を持てるとによりて、夏目君の引廻わす儘に扱われて豪も抵抗しなかったのは、当時極めて愉快であった。夏目君は愈々彼を杉垣根に圧し付けて、彼の身体が側面より認められぬ程にし、余はこの動作中短刀を彼の胸元へつきつけて、夏目君と共に彼を殺して仕舞うと威嚇して居た。 
 このような文章を読むと漱石が明治時代の文豪であるとともに、江戸時代の遺風を実際に肌で感じて成長した人物であったことがわかります。
江戸人漱石を感じさせる一節をもう一箇所引用しましょう。
 当時余の伯父に、今は故人になったが、いたずらなる人があった。余の夏目君と親しくせるを知りて、或時こんなことを余に話した。夏目の祖先は、甲斐の信玄の有力なる旗本であったが、信玄の重臣某が徳川家に内通せし時、共にあずかりて徳川家の家臣となったのだ。(中略)重臣の謀反さえなければ武田家の運命も今少しは続きしならんと、真か偽か、余が耳には親友の祖先に関することで、極めて異様に感じた。然し当分は質(ただ)すも気の毒で、夏目君には何にもこの事に就きて言わなかった。或時大喧嘩を始め、口論も尽きて已に腕力に訴えんとせし時、手近かなこの事実を語りて嘲った。夏目君は俄に色を変じて引別れ、逃ぐるが如く立去ったことがある。その後も再び仲直りをして常の如く遊びしが、喧嘩の場合、この事が一番同君をへこますに有効であったから、その後も折々この策を応用した。今更思えば小供心とはいえ、余の行の卑劣なりしを感ずると同時に、夏目君の廉恥を重ずる念の深かりしを感ずるのである。
 漱石という人が「廉恥を重ずる念の深かりし」人物であったことは、『漱石追想』のさまざまな文章が伝えています。しかし、一方で少年時代の彼は、そのような漱石のイメージからは考えられないような悪戯をする少年であったことも、「腕白時代の夏目君」の次のような一節を読むとわかります。
 余等は当時の子供のあらゆる悪戯を仕尽したる中に、極めて面白く思い、今もその時の光景を思い出しては、私(ひそ)かに微笑を浮べることがある。毎日午後の四時頃に、余が邸の板塀の外を二十二、三歳位な按摩が、杖をつき笛を吹きて通過した。此奴(こやつ)盲人に似ず活発で、よく余等を悪罵し、時に杖を打振りて、喜んで余等を逐い廻わした。余等も折々土塊など打付けて、彼を怒らした。或時学校で夏目君と一つ按摩を嬲(なぶ)ってやろうと色々に協議した。併し何時も矢鱈(やたら)に杖を振り廻すから、容易にその側に寄る訳にはいかぬ。そこで或時二人して、恰も按摩が塀の外を通過する頃、塀に登りて、一人は長き釣竿の糸の先きに付せる鉤に紙屑をかけ、一人は肥柄杓に小便を盛りて塀の上に持ち上げて、按摩の通過を待つ程に、時刻を違えずやって来た。
 このあと二人は信じられないことをします。あの漱石が少年時代にどのような悪戯をしていたのか、本を手にとり、確かめてみてください。
 掲載されている文章の内容はさまざまですが、漱石の人柄の温かさを伝える文章が最も多いように思います。例えば菊池寛は「先生と我等」の中で、「夏目さんには温情があると誰かが云ったが本当だね」という芥川龍之介の言葉を紹介しています。
漱石の温情を伝える具体的なエピソードを記した文章としては、鈴木三重吉の「漱石先生の書簡」が最も印象に残ります。その前半部分を引用します。
 いつの年の冬のことであったか、たしか或雪どけの日に、南町のお家へ伺うと、先生は茶の間の縁側にこごんで、十二、三ぐらい? うすぎたない着物を着た、そこいら近所の子どもらしい少年に、英語の第一リーダーを教えていられた。先生は、胃がいたいと見えて、元気のない顔をしていられたが、でも、語気や態度には、ちっとも面倒くさそうな容子(ようす)もなく、丁寧に、訳解してやっていられた。少年がかえってから、どこの子ですと聞くと
「どこの子だか、英語をおしえてくれと言ってやって来たのだ。私はいそがしい人間だから今日一度だけなら教えて上げよう。一たいだれが私のところへ習いにいけと言ったのかと聞くと、あなたはエライ人だというから英語も知ってるだろうと思って来たんだと言ってた。」
 先生はこういう意味のことを答えて微笑していられた。

2016.12.19

ホコリタケ

ホコリタケを見つけました。中央部分に穴が開いていますが、この穴から胞子が空中に舞っていったものと思われます。胞子が舞う様子が、ちょうどホコリが漂う様子に似ているためホコリタケと名付けられました。

近くには老菌もありました。ホコリタケというキノコの最後の姿です。
今日のことば
すがすがしい静けさ
それだけが
この世を正す力なのだ   老子

2016.12.18

枇杷の花

枇杷の木が次々に花を咲かせています。枇杷の木にはさまざまな生き物が訪れます。

メジロは蜜を吸いにやってきて受粉に一役買います。枇杷にとってはありがたい存在です。
結実するとサルがやってきて早々に実を食べてしまうことがあります。枇杷にとってはあまりありがたくない存在です。
今日のことば
生れるものは何であれ
みんなあなたより
深いところからくる
起るものは何であれ
みんな
あなたより
高いところからくる
ラジニーシ

2016.12.17

23羽のエナガの群れ  不二聖心の野鳥の調査

 「日本野鳥の会」東富士副代表の滝道雄先生と不二聖心の野鳥の調査をしました。今日は23種の鳥を確認することができました。

特に感動したのは、23羽のエナガの群れと出会うことができたことです。細い楓の枝にぶらさがるようにして種を食べる姿はエナガならではのものでした。

今日、確認したのは以下の23種です。
 
 1.メジロ             18羽
 2.エナガ             31羽
 3.シロハラ             3羽
 4.ヒヨドリ          33羽
 5.ジョウビタキ      1羽
 6.アオジ        4羽
 7.シジュウカラ        3羽
 8.コゲラ                1羽
 9.キジバト       8羽
10.ヤマガラ      4羽
11.ハシブトガラス  11羽
12.イカル                 3羽
13.ホオジロ      4羽
14.カワラヒワ            1羽
15.アオゲラ       1羽
16.カケス                 4羽
17.アカゲラ       1羽
18.トビ                    1羽
19.モズ                    1羽
20.ルリビタキ            2羽
21.ウグイス              1羽
22.キセキレイ     1羽
23.コジュケイ           1羽
24.ソウシチョウ         3羽
今日のことば
小粒の鶏卵ほどに真綿を丸めて、その倍くらいの尾をつけるとエナガになる。    岡田泰明
 

2016.12.16

万葉の歌の世界

坂道の途中で車を降りて朝日の写真を撮りました。

その反対側では月が沈もうとしていました。
まさに万葉の歌「東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)の世界です。この月は旧暦の11月17日の月です。人麻呂がこの歌を詠んだのも17日頃であったことが今朝の空の様子からわかります。
今日のことば
さわやかな朝をむかえるために
ちいさな胸に溢れる愛を伝え
闇の中を走るように
歌声を響け
小田和正

2016.12.15

フユイチゴ

 裏道にたくさんのフユイチゴが実をつけています。東名カントリーまでの林道にはフユイチゴが群生している場所もあります。フユイチゴの実を使って美味なジャムを作ることができます。

今日のことば

生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。
須賀敦子

2016.12.14

ハナカタバミ

ハナカタバミが冬の寒さに耐えて花を咲かせ続けています。

ハナカタバミは多年草で、光に反応する性質があり、日中は開花し夜になると花を閉じてしまいます。
次の画像は、2011年に同じ場所で撮ったものです。正門のハナカタバミは、少なくとも5年にわたって私たちの目を楽しませてくれているということになります。

今日のことば
すばらしいことが
あるもんだ
ノミが
ノミだったとは
ゾウでなかったとは
まどみちお

2016.12.13

12月の紅葉

 12月に入っても美しい紅葉が見られています。かつては12月にこんなに美しい紅葉が見られたかと思うことがあります。地球温暖化との関係の有無は定かではありませんが、このまま温暖化が進むと紅葉の見ごろはクリスマスの頃になるという予想もあります。

今日のことば
善きことを行うことに倦まず、心を失うことがなければ、季節はまた巡りきて、なすべき仕事がある。
You know, scripture tells us, let us not grow weary of doing good, for in good season we shall reap. My friends, let us have faith in each other, let us not grow weary and lose heart, for there are more seasons to come and there is more work to do.
                                       ヒラリー・クリントン

2016.12.12

真珠星スピカ  冬の大円弧

早朝の星空の写真を撮りました。

右上の最も明るい星が木星です。その下に位置しているのがスピカです。
スピカは別名「真珠星」とも呼ばれる、おとめ座の1等星ですが、惑星の輝きの下では控え目な光り方に見えてしまいます。
左上の星はアルクトゥールスです。スピカとアルクトゥールスを結んだ線と同じ長さの線を反対方向にのばしたところに北斗七星があります。
マリア修道院の上に見えるのはぎょしゃ座です。梢に接している一番明るい星がカペラです。左上に並んでいる2つの星はふたご座のポルックスとカストルで、ポルックス、カストル、カペラは「冬の大円弧」(ポルックス、カストル、カペラ、アルデバラン、リゲル、シリウス、プロキオン)の一部をなしています。
今日のことば
人間の救いはそのすべてが神の恩寵によってなされるが、その救いの業がまさしく人間においてなされるものであることからして人間がその固有の役割を果たすことは否認されないどころかむしろ予想されている。
稲垣良典

2016.12.11

世界農業遺産にも指定されている茶草場農法

すすき野原のススキの草刈りが不二農園の方々によってなされました。刈られたススキは茶畑の肥料になり、すすき野原は整備されることで貴重な植物の生育場所となります。このような農法は茶草場農法と言われ、世界農業遺産にも指定されています。

今日のことば
あなたの心のなかの未解決のものすべてに対して、忍耐強くなってください。問いそのものを愛するように努めるのです。  
ライナー・マリア・リルケ

2016.12.10

木守り

 駐車場の柿の木の実が残り一つとなりました。地域によっては、柿を収穫する際に、あえて一つだけ実を残す風習があります。その残った柿を「木守り」と呼び、翌年もたくさんの実をつけますようにという願いをたくすのです。

今日のことば
柿の木はもうすっかり葉を落して裸になっています。その梢のあたりにたった一つ、色はもうぎりぎりまっ赤に熟したのが、不注意な忘れ物のようにぽつんと残されています。「木守り」という言葉のように、それはひとり眼を見はって、その木をいつまでも見守りつづけているような風に見えます。
三好達治

2016.12.09

ぎょしゃ座のカペラ  宵の明星

本館の塔の近くにぎょしゃ座が輝いていました。ぎょしゃ座のカペラの輝きは、まるで飛行機の点滅する光のようでした。

講堂の向こうには金星が見えました。

今日のことば

月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれを こよひ知りぬる
                建礼門院右京大夫

2016.12.08

今朝の富士山

 今朝の富士山の写真です。

今日のことば
先月、藤原ていさんが亡くなりました。藤原ていさんは、富士山を舞台にした作品を数多く残した新田次郎の奥様です。
以下に掲載するのは、藤原ていさんの代表作、『流れる星は生きている』の紹介文です。
 
 平成二十年四月十一日(金)の読売新聞に哲学者梅原猛と数学者藤原正彦の対談が載りました。対談の一番最後は藤原正彦の言葉で終わっています。梅原猛の、人類が滅びる要因は、自然破壊、核戦争、内面の崩壊の三つあって、その危機がいよいよ深刻になってきたという発言に対して次のように藤原正彦は答えています。
 藤原 やはり、何かにひざまずく心がないといけませんね。日本人は太古の昔から、人間なんて自然のほんの一部だと、非常に謙虚だった。人間と自然が一体になった日本の自然観は、今後ますます大事になっていくでしょう。だから日本が、この素晴らしい文化を世界に広めていくことこそが、大きな国際貢献になる。どしどし世界に発信していくべきだと思う。
 やはり藤原正彦はいいことを言う、対談を読んでよかった。素直にそう思いました。
対談を読んでよかったという思いには、実は特別な意味が込められています。一カ月前の自分だったらおそらくこの対談を読んでいなかっただろうという思いがあったのです。僕は長い間、藤原正彦という人を尊敬し、特にその著書『遥かなるケンブリッジ』はかけがえのない愛読書であった時期もあり、かつて不二聖心で講演をしていただいたこともあるという縁から特別な親しみを感じてもいたのですが、『国家の品格』がベストセラーになって以来、あまりにも名前を目にする機会が増え、正直少し敬遠する気持ちが生まれていたのです。しかし、先日たまたま藤原正彦の母、藤原ていの『流れる星は生きている』を読み、初めて藤原正彦の原点とも言える体験を知って衝撃を受けて以来、もう藤原正彦という名前が頭から離れなくなってしまったのです。
「たまたま」と書きましたが、それは、書店で「忘れられない本 中公文庫BIBLIOフェア」というフェアをやっていて、「忘れられない本」の一冊として『流れる星は生きている』が平積みになっていたということなのです。何十年もの間、いつか読まねばと思い続けてきた本をついに手に取るきっかけとなりました。本の帯には「母の遺した昭和20年8月の壮絶な手記」とあります。表紙にはあらすじが次のように書かれています。
昭和二十年八月九日、ソ連参戦の夜、満州新京の観象台官舎――。夫と引き裂かれた妻と愛児三人の、言語に絶する脱出行がここから始まった。敗戦下の悲劇に耐えて生き抜いた一人の女性の、苦難と愛情の厳粛な記録。戦後空前の大ベストセラーとなり、夫・新田次郎氏に作家として立つことを決心させた、壮絶なノンフィクション。
帯にも表紙にも使われている「壮絶」という文字。この文字がこれほどふさわしく使われている例を僕は知りません。『流れる星は生きている』は「壮絶」という表現が本当にぴったりくるノンフィクションでした。戦争について少なからず自分は学んできたつもりでしたが、この本を読んで何と自分は無知であったかと愕然としたのです。戦争が人間にどれだけの深い苦しみを強いるものであるか、僕は改めてこの本で学びました。第二次世界大戦が昭和二十年八月十五日で終わったというのも、一面的な歴史理解に過ぎないということもわかりました。『流れる星は生きている』の作者藤原ていにとって、本当の苦しみは昭和二十年八月十五日に始まったのです。
満洲から朝鮮半島を経由して日本に引き揚げる帰途、三十八度線を目の前にして極限の苦しみと闘う家族の姿を引用してみましょう。
 「逃げるんだ逃げるんだ、逃げおくれると私たちは殺される」
 私は三十八度線まで、こう心を叱咤しながら歩いた。でもいま冷静になって考えると、その時、それほどおそれた私を追ってるものの正体がわからない。長い間、聞いていた先入観が私を完全に悪魔のとりこにしていたに違いない。
 この時は、こう確信していた。「早く逃げないと殺される」そう思いこんでいた。
 正広は間もなく、めそめそ泣きだした。
「お母ちゃん、歩けない」
 正広のことなんかかまっていられない。(中略)
 私は前の影を追うことだけしか考えない。頭の中が妙に空白になっていながら前進するということだけが激しく私を支配して、歯を喰いしばり、正広(長男)と正彦(次男)をどなりつけていた。
「正広、なにをぐずぐずしている!」
「正彦、泣いたら、置いて行くぞ!」
 私はこの時初めて男性の言葉を使っていた。自覚しないで私の口をついて出てくるものは激しい男性の言葉であった。
道が坂になった。二歩登っては、一歩すべる、正彦が「ひいッ! ひいッ!」と泣く声が風にちぎれて飛んでゆく、私は正彦の尻を力いっぱいたたきながら、よろける正広をどなりつけて登って行った。
やっと、坂を登りきった頃、ほのかに明るさがさして来て夜は明けて来た。私の登ってきた道は一間ぐらいの幅の道で、両側は見渡す限りの禿山であった。禿山といっても木がないだけで草は道の両側に生い茂っていた。私が道を間違えずにここまで来たのは、いくらか道が低くなっていたからだった。私は自分の姿を見てびっくりした。それより二人の子供の姿はひどかった。赤土の泥を頭からかぶって、上着もズボンも一晩のうちに赤土の壁のようによごれていた。かろうじて、眼だけが光って、もう泣く涙はないのか、つんのめり、つんのめりして前へ進んでいった。正彦は一晩の難行のために両方の靴をなくしていた。そして赤土の手で眼をこするから前が見えなくなる。
「お母ちゃん、見えないよう」
と泣く。
「馬鹿!」
 私は思いきって前へ突きとばしてやると、まだ起き上る元気はあった。よろよろと赤土の泥の中から立ち上って、あきらめたように一歩二歩前に進んで終に倒れてしまう。起きられないと見て私は正彦の左手を引っ張り上げて、引きずって前へ前へと前進した。ズボンの膝から下をずるずる泥の中に引きずりながら。それでもまだ立とう立とうとする意志があるらしく、いくらか引きずる手が軽くなる時があった。
 正広は私の悲壮な努力を見て、そう泣かなかった。黙ってついて来た。おくれそうになると私に、
「馬鹿、そこで死んでしまいたいか」
 と怒鳴られては苦しそうな眼を私に向けていた。(中略)
 私は咲子を背中に負う時によく顔を見てやった。顔は痩せて小さく、うつろな眼をあけていた。私はリュックの中から赤い紐を出して腰にしっかり結んだ。
 私は最後の時が来たらこの紐で子供たちを殺し自分も死のうと考えていた。
 眼の前に大きな山が見える。道はその山に向かって続いている。
「あの山、あの山を?」
 私にはその力がない。どうせ死ぬなら死ぬところまで行って死ねばよい。私は勇気を出して立ち上った。
「お母ちゃん、歩けない」
 正彦がはだしのままで立ち上って泣きだした。
「馬鹿! 死んじまえ、馬鹿!」
 私は正彦の頬を平手でぴしゃりと打った。こうして自分の気持ちを昂奮させて狂ったようになりながら前へ前へと行かなければならない。
 このような壮絶な場面がまだまだ続きます。というより、全編が壮絶な場面の連続と言ってもいいのかもしれません。満州から引き上げてきた日本人の肉体的な苦しみがこれほどまでにひどいものであったことを僕は初めて知りました。しかも、引き上げの途中で味わった苦しみは肉体的なものだけではなかったのです。日本人はいくつかのグループに分かれて満州から朝鮮半島を通って日本を目指しました。極限状態に置かれたグループの中では、少しのきっかけで争いごとが起こります。するとそれまで仲間だと思っていた人たちがエゴとエゴとをぶつけあい、醜く争い始めるのです。これこそが戦争の悲劇だと思いました。自分の一番醜いところをさらけださなければ生きていけなかったのだと思います。この辛さは日本にたどりつく直前まで続きました。釜山を目指して乗った列車の中で藤原ていは子供たちの下痢に悩まされました。着替えを持っていないので、下着を汚してもかえることができません。夏の暑さも手伝って臭気は車内に充満し、他の乗客は不快感を露わにします。
 私の筋向こうに一団の家族がいた。年頃の娘を三人つれた夫婦であった。この男が最もひどく私をせめた。
「なんとかなりませんか、臭くって皆迷惑してますよ、え、早くなんとかしなさい」
「すみません、汽車が駅へ着いたらすぐ綺麗にしますから」
「汽車が駅へ着くって、いつのことか分らないじゃないですか。何とかしなさい、人の迷惑を少しは考えたらどうです」
「はい、でもこの子のパンツはこのはいているもの一枚しかありません、これを捨てたらもうはかせるものがないんですの。すみません、我慢して下さい、駅へ着いたら洗って来ますから」
「わからない人だねえ、私はそんな言いわけを聞いているんじゃない、あんたは一体公衆道徳っていうものを知らない人だね、え! 人の中で子供に糞をひらせて、しゃあしゃあしているなんて、よくお母さんらしい顔をしていられるもんだね」
 この男はそういって自分の奥さんの方を向いて、そうだろうという風にあごをしゃくり、娘たちの方を向いて、
「見ろ、あの女を」
 といった風な極度に軽蔑した態度を示していた。三人の娘はこっちに大きなお尻を向けていて、そのお尻をいかにも汚いものでもよけるように持ち上げて、および腰になったまま、苦い顔をして私を見つめていた。
 私はその娘の眼を見ると抑えつけていた激しいものがせきを切ったようにどっとあふれて出た。
「わからない人はあなたじゃないの。私たちは初めからこんなにみじめではなかったんです。私の今こんなに困っているところを見てみんなで軽蔑して、皆でいじめつけてそれがあなたの公衆道徳ですか。私はこの子のよごれたパンツを丸めて捨てて、新しい乾いたものに取り替えてやりたいのは山々です。私だって私だって、殺されるように苦しい思いをしているんですよ。皆さんに気兼ねして、御覧なさい、この子もこんなに小さくなっているじゃありませんか。どうしたらよいの、どうしたらよいか私に教えて下さい」
 その男は黙ってしまった。そして横を向いて一番大きい娘にいった。
「文子、お前のなにかをくれてやれよ」
 その娘はごそごそと大きなリュックの中を探し始めた。
「よして下さい、そんなもの、私は戴きたくはありません。あなたなんかに、死んだって恵んで貰うもんですか。私は物乞いじゃありません。もしあなたにほんとの公衆道徳があったら、黙って臭いを嗅いでいなさい」
 私は涙の中にこれだけいうと、自分の責任のようにせつない顔をして私を見上げている正広にいった。
「正広ちゃん、いいんだよ、いいんだよ、今に汽車が止まったら綺麗に洗ってあげるからね」
 そういって泣き伏してしまった。貨車の中は静かになった。全部の人が私を見詰めている複雑な批判の下で、私は子供を連れている悲哀をつくづく感じた。
 この男もそんなに悪い人ではないのかもしれません。しかし戦争は人間を変えます。自分の一番醜い部分と向き合いながら生きていかなくてはなりません。この本の中にはそのようなむごい現実が生々しく描かれていますが、藤原ていは他人を非難するだけではないのです。自分のとった醜い行動についてもすべて正直に書いています。それもまた時として「壮絶」という言葉が当てはまるほどの醜さなのです。
 私たちの生きている時代は、苦難に満ちた戦争の時代のあとに位置する時代であり、私たちの享受する平和は多くの日本人の犠牲の上に築かれたものであることをやはり忘れてはならないのでしょう。その意味でこの一冊を読むことは今を生きる私たちの一つの責任であるとも思えてくるのです。
 時々、自分にあり余るお金があったら、不二聖心の生徒全員分を購入して一人一人に手渡したいと思う本に出合うことがあります。『流れる星は生きている』はまさにそのような本でした。この推薦文は、まだまだ、この本の持つすさまじいまでの迫力を伝えきれていません。
 どうぞみなさん、手にとってすべてを読んでみて下さい。
 

2016.12.07

セイタカアワダチソウの謎

 セイタカアワダチソウがたくさんの種子をつけています。

種子をつける時期の泡立つような姿が名前の由来ですが、「共生の森」では、この泡立っているような部分だけが何者かに食べられるという現象が見られています。鹿の可能性が高いと思われますが、実は問題となっているセイタカアワダチソウは皆、電気柵の中に生えているのです。いったい誰の仕業か、今のところは謎です。


今日のことば
西の湖(こ)がなぜいいのかと子に問へば岸辺の葦、魚水鳥たちと言ふ   河野裕子

2016.12.06

オリオン座

 本館の塔の上にオリオン座の三ツ星が輝いていました。天上には白鳥座のデネブが強い光を放っていて、夏と冬の星空の競演ほ堪能しました。


今日のことば

もつとも高い芸術はすべてそのやうに、人の魂の底にしみて、霊を目覚めさせるものでなければならないだろう。
短い時間の美感に訴へるに終つてはならぬ。
川端康成

2016.12.05

ヒイラギ

ヒイラギが白い花を咲かせています。

花の少ない冬の季節に芳香を放つ花を咲かせるヒイラギですが、通常花は受粉昆虫を引き寄せるために芳香を放ちます。冬の昆虫の少ない季節になぜ芳香を放つのか、昆虫が少ないからこそ芳香を放つ必要があるのか、なかなか答えの出ない問いです。
今日のことば
Happiness does not lie in possessing much, but in being content with ones possessions.

2016.12.04

冬のシイタケ

 シイタケが12月になっても発生し続けています。このシイタケの菌は裾野市で開発された「すその620」という新しい菌ですが、菌の成長が速いことが大きな特徴ですが、さらに加えて、発生時期の幅の広さについても特徴を持っているのかもしれません。

今日のことば
世界的な遺伝子学者も、宮大工さんも、ダンサーも、小説家も、それぞれが自分自身に固有な体験を通して、究極で同じことに気付いている。それを一言で言い表わすのは不可能だが、敢えて言ってしまうと、すべての生命は、その個体性、種の違い、時代の違いを越えてひとつながりのものであり、私たちはその宇宙的な生命の一部として、今ここに生かされているのだ、という気付きだろうか。    
龍村仁

2016.12.03

八重のサザンカ

キャンプ場の縁に八重の白い山茶花が咲いています。
山茶花を見ると思い出されるのは、幸田文の「山茶花」という随筆です。冬の季節の不安な思いを述べたあとで幸田文は次のように書きます。
 でも、さういふ季節的なへんな不安感を救ってくれるものがないぢやありません。山茶花です。みんな身のまはりの色が消えて行くとき、この花はわづかに堪へて白く、うす紅く、一重に八重に咲きます。椿のやうに太い高い木にはなりません。骨細に立つ幹です。葉もお茶の葉くらゐのこまかい紫で、花頸のない花が葉の裏に密着したようになって咲きます。大きな堂々とした花ではなく、少しちぢれ気味の花びらです。しんは黄いろい蕊がたくさんあって、いかにも鄙びてすつきりはしません。しかし、この花びらは肉厚の花びらですから、一見鄙びた花ではあるけれど、よく見るとその色は見ざめのしない染めあがりを見せてゐます。(中略)種類によってはかなり野暮くさい色をしてゐますが、それとて一枝を手に取つて近く眺めればよくわかります。肉厚の花弁ですから、野暮は野暮なりに決して薄つぺらではありません。いぢらしいほど正直に染まった花弁なのです。もともと高価なものではありません。ときによれば垣根に仕立てられてゐるところさへあるくらゐなものです。木ぶりも花も椿にはぐつと劣りますけれど。これが淡い匂いを吐いて気どりもなく、ほそ枝に群がって咲いてゐるのを見ると、ものがみな色を失つてしまふ冬の入口の不安な気分が、ほつと助かる思ひがします。
 このあと幸田文は、山茶花はぺちゃぺちゃおしゃべりをしない木だと続けます。物静かな人に独特の魅力があるように、物静かな花にも他に代えがたい味わいがあるようです。
今日のことば
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかつてゐることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉食べてゐる、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
だれもいぢらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑つてて、
あたりまへだ、といふことが。
金子みすず

2016.12.02

今朝の不二聖心  クヌギの黄葉

今朝は美しい朝の光景が不二聖心のあちらこちらに広がっていました。

雪をいただいた富士山。
校舎を照らして昇る朝日。
すっかり色づいたクヌギの黄葉。
クヌギやコナラなどのブナ科コナラ属の樹木は古語では柞(ははそ)と表現されます。この樹木名から生まれた枕詞「ははそはの」は「母」に係る枕詞です。
昭和53年の歌会始で詠まれた美智子皇后さまの歌(子に告げぬ哀しみもあらむを 柞 葉 ( ははそは ) の母 清 ( すが ) やかに老い給ひけり)にもこの枕詞が用いられていました。

今日のことば
小さな花が咲いています
いつもの朝 いつもの道
ただそれだけの今朝の出来事
生きていることはこんなに自然なこと
野の花の歌が聞こえますか
            高石ともや

2016.12.01

カヤランの花芽

 4月~5月頃が開花期とされるカヤランの花芽が既にこの時期に確認されました。

カヤランは30都道府県で希少種に指定されている植物で、極めて貴重な樹上性のランです。東京都では絶滅したとされています。幸い不二聖心では長年にわたり複数の場所で確認されています。
写真のランの開花を確認することで、極めて貴重な不二聖心内のカヤランの生活史に変化が起きているかどうかを確かめたいと考えています。

今日のことば
笑うときには大口あけて
おこるときには本気でおこる
自分にうそがつけない私
そんな私を私は信じる
信じることに理由はいらない
   
地雷をふんで足をなくした
子どもの写真目をそらさずに
黙って涙を流したあなた
そんなあなたを私は信じる
信じることでよみがえるいのち
葉末の露がきらめく朝に
何を見つめる子鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きるみなもと
谷川俊太郎

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