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フィールド日記

2017.03.15

ニホンザル

久し振りにニホンザルの写真を撮りました。
悠然と車道を横切る親ザルの姿です。

木の芽を食べる子ザルの姿です。木の芽は相当苦いと思われますが、サルの舌は苦味成分を感じる力が弱く、それを逆手にとって植物からの栄養分の摂取に役立てているのではないかと言われています。

今日のことば

『阿賀の記憶、阿賀からの語り』(関礼子ゼミナール編・新泉社)を読む

――聞き書きが伝える第二水俣病の真実――
「聞き書き」というスタイルがあります。一つの体験をした人の話を聞き、それを忠実に書きとめていくという文章の書き方のスタイルですが、主観を排して体験者の声にじっくり耳をかたむける「聞き書き」のスタイルによって作られた文には独特の力がこもります。『阿賀の記憶、阿賀からの語り』という聞き書き集を読んでそのことを改めて感じました。今週は、新潟の第二水俣病の患者の方々の語りを集めた『阿賀の記憶、阿賀からの語り』の中から小武節子さんの語りを紹介します。小武さんはまず、第二水俣病の原因物質によって汚染される以前の阿賀野川の思い出を語ります。
小さい頃は、本当に江口には砂浜がいっぱいありました。学校から帰ってくるとパンツ一枚になって……、私は戦争のときの子どもです。あの当時は、食べ物もなかったし、本当にね、ゴムの入ったパンツ一枚で阿賀野川で泳いだり、メダカとか、ちっちゃい魚がいるのをつかまえたりして遊びました。イトヨなんかもつかまえて、時期が早いうちは、唐揚げにして食べました。背中に針があって、時期が遅くなると針が硬くなるんですが、早い時期なら柔かい。
イトヨは全国各地で希少種に指定されている魚です。新潟県は既に絶滅種に指定しています。この短い引用文が、すでに聞き書きとしての貴重な価値を持っていると言えるでしょう。
このように阿賀野川の命の豊かな恵みを語ったあとで、話は第二水俣病のことへと移っていきます。
私は健康な体で生んでもらって、親にも感謝していました。それが、一九六七(昭和四二)年か一九六八(昭和四三)年頃になって、体が苦しくなってきました。まだ三〇代終わりの頃です。
主人も一緒だったんですけど、手足のしびれが一番最初に来ました。朝起きると手がしびれて、こわばって手を握れないんですね。時間が経つとだんだん和らいできますけど。しびれと同時に手が変形してきました。
その頃、主人も体がしびれるとか頭痛がするとか言って、仕事を休みがちになりました。弁当を詰めて会社に送り出しても、「休んでますけど、奥さんわかりますか」と、会社から電話が来たことも何回もありました。主人は「眠れない」と言って夜は酒を飲んでですね、水俣病の症状が出てからは睡眠剤を飲んでいたのが効かなくなって、かわりに酒をひどく飲むようになったんです。もともと酒に強い人じゃなかったですね。飲むとすぐに寝たり、悪酔いしたり、それでも飲むときは飲むんでよ。酒を飲んだら翌日の仕事に差し支えるからと言うと、今度は暴力がでたり。
うちの主人はね、とにかく酒を飲まないと無口で、子煩悩だし、人情味はあるし、すごくいい、日本一の主人だったの。日本一の主人なんだけど、酒を飲むと人が変わるというか。酒を飲むと常に我慢していることを吐き出すというか。そういう主人だったんですよ。
下の子が三、四歳になったから保育園にやって、私も一九六九(昭和四四)年から木工所に働きに出ましたが、主人は仕事で私の帰りが遅いときに、子どもがお腹を空かせていれば何か作ってくれるの。私がいない場合は自分でしなくちゃいけないでしょ、子どもを食べさせたり。それでスーパーなんかで一緒に買い物すると、お惣菜とか見て、「これどうやって作るんだろう」って、一生懸命に研究していて。そんなことがありましたね。
酒さえ飲まなければ日本一の主人なのに、私が仕事から戻ると酒を飲んでもう酔っぱらっている。飲みすぎて苦しんで、注意すると暴力が出てくる。怒りを感じることもありましたよ。ほんとに辛くて、何度、身を投げようと思ったことか。何度も思い詰めて、阿賀野川の岸に立ったんですよ。そうすると、子どもたちの顔が浮かんできて、ようやっと最後の一歩を踏み出さずにいたんです。
新潟水俣病第一次訴訟の後で、原告の方たちは昭和電工と交渉して一時金をもらったんですね、補償協定を結んで。そしたら、金をもらえばテレビを入れ替えたり、家を建て替えたり、やっぱり人間はそういうところから直しますよね。そうすると、水俣病でテレビの良いものを買ったとか、噂がすごかったんですね。それと、水俣病になると、「そこの家からは嫁をもらうな」とか、「いくら子どもが頭良くて勉強してもいいところには就職できないぞ」と。
身内はみんな漁師なもんで、早くに認定(水俣病認定患者)になったんですね。でも、私は勇気がなかったんです。自分のこととか子どものことを考えたときに、「私は水俣病だ」ということが言えなかったんです。金欲しさに水俣病になるっていう、まわりの人たちの目がそうだったもんだから、私はずっと我慢していました。
けれども、同じ職場にいた女性が水俣病に認定されたと知って、病院に行こうと決意しました。近くの病院で、「水俣病っていう病気が出ているけど、その症状に似てるから、専門の医者のところに行きなさい」と沼垂(ぬったり)診療所を紹介され、今は木戸病院の院長先生になった斎藤恒先生に、そこでやっぱり水俣病だと診断され、新潟大学で精密検査を受けることになりました。
その頃はね、医者に行くにも「水俣病だ」って言うと、「金欲しさのニセ患者だ」と、「金が欲しくて水俣病のふりをしているんだ」と言われるもんだから、みんなよその家の陰に隠れてバスを待ったもんです。それで病院に行くと、「あれ、あんたも来てたんだね」というくらい、みんな隠れてました。水俣病はいいイメージじゃなかったものですから。
大学病院に行くと、「ああ、水俣病の検査やるなら裏門からまわれ」って、水俣病検査の人は正門から入れませんでした。それほど水俣病って「金欲しさのニセ患者」というね、そういう目で見られていたんだと思いました。目の検査、耳の検査、神経内科の検査、検査がいろいろあるんですよね。そういう検査で、「これが本当に見えないのか」、「本当に聞こえないのか」なんて言われて。
ようやっと検査が終わって認定審査にかけられるんですが、私が認定申請をしたときには、認定基準が厳しくなっていました。水俣病じゃありませんと棄却の封筒が一通来るだけなんですよ。それでおしまいなんですよ。
行政不服請求をした人もいましたが、「水俣病じゃなくて何の病気なんですか」と聞くと、「水俣病じゃないから喜べばいい」って言われて、女の人なんか、「もう悔しくて、泣き泣き帰ってきた」なんていう話も聞いています。
第二水俣病は、その症状の辛さに加えて、病気に起因する差別の苦しみを患者に与えました。そのことを理解しなければ、私たちは本当の意味で第二水俣病を理解したとは言えないのだと思います。
差別の問題だけではありません。聞き書きによって書き取られた言葉は、第二水俣病の真実をさまざまな視点から伝えています。この苦しみを小武さんがどのようにして乗り越えていったかについてもこのあと語られていきます。ぜひ本を手にとって読んでみてください。